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きょうから七月ですか……。 一年の半分が終わり、一年の折り返し点。 前回のエセコラでも話しましたが、歳をとる毎に、月日の経つのは早くなります。 何故なんだろう。 子供の頃は、一日一日が吸収の日々だから? 脳の皺を毎日の暮らしの中で、新しい体験と共に、刻んでいたから? 歳をとっても一日として同じ日はないのに、 子供の頃の一日は、その日毎に充実感でいっぱいだったから? 惰性の一日などなかったのだろうなあ。 そういう気持ちをいまでも持ち続ければ、月日の経つ速度をいくらか遅くできるのだろうか、 なんてこと考えてしまった、きょうの朝でありました。 さて、今回は、私の略歴、といっても自慢できるものはなにもありませんが、 昨日、締め切りだった「銀華文学賞」(文芸思潮)という公募に、拙作を投稿してみまして、 そのご報告方々、綴りたいと思います。 【エセコラ(14)】 『私の略歴』 私がものを書き始めたのが、15歳のとき。 きっかけは、いまや忘れた。 詩を書いていた。 なんでだったろう。 その時期のことを思い出してみて、重なる出来事が一つある。 それは、恋をしたことだ。 中学高校と男子校だった私は、身近に女性と接する機会には恵まれなかったのだけれど、 中学三年のとき、小学生時代に通っていた児童合唱団のときに知り合った、 一つ歳下の女の子に恋をした。 中学三年から、高校一年の春だか夏だか秋だか全然覚えていないけれど、 一年くらいの期間、文通をしていた。 当時、男女間の恋のきっかけは、この文通と交換日記くらいだったのではなかろうか。 時々、自宅に電話を掛けることもあったが、 かなりの勇気のいる、当時の子供の仕事としては、緊張感ありすぎてそれだけで参ってしまうものでもあった。 父親が出たらどうしよう。 きちんと挨拶できるのだろうか。 彼女に繋いでくれるだろうか。 怒鳴られやしないか。 異性に電話を掛ける作業は、それだけで、こんなにも心配事があるのが、 携帯電話のない当時の常であった。 おそらくは、この時の文通をきっかけとして、私は物書きとしての自分を、勝手ながら見出だしたのではなかろうか。 文通の手紙の最後に一篇の詩を書いていたのだと思う。 きっと気持ち悪いものだったに違いない。 いまやどんな詩を書いて送っていたのか知る術はないが、 みたら見たで、顔から火が出て、家が燃えるほどの勢いを放つに違いない。 こうして、気持ち悪い詩を送り続けて、それがいけなかったのか、文通も自然消滅し、 私の初恋は終わった。 その後も、文通は終わったが、書くことは終わらずにいたとき、 高校一年のときの友達に、文集を作るから、星くんもなにか書いてくれないか? と依頼されたのだった。 仲間が出来て嬉しかったのもあるが、初の原稿依頼? に私は燃えた。 ショートショートを書いた。 私の初めて書く物語りだった。 いまでも覚えている。 当時の原稿は当になくなってしまったが、内容はハッキリと覚えている。 出来上がった文集は、ガリ版で作られていて、なかなか立派なものだった。 この文集の主宰であるSくんは、これをとある大手の出版社に持ち込んだのだった。 Sくんはなかなかの行動派であった。 暫くすると、総評が彼の下に送られてきた。 当時の出版社は、こんなド素人の手作りの文集にすら、しっかりと対応してくれた。 いまはどうかはしらない。 その総評で、私は名指しで誉められていた。 Sくんも、星くんのだけ誉められていたよ、と自分のことのように喜んでくれた。 私はいまでもSくんを時々思い出す。 でもそれは悲しい思い出だった。 後悔の念もあった。 彼は、高校三年のとき、電車に飛び込んで死んだ。 自殺だった。 理由はわからないのか、明らかにされなかった。 いじめもなかった。 亡くなる当日の授業が終了した午後三時、私は野球部の練習に出るため教室で着替えていた。 そこにSくんが訪れてくれて、 「星くん、いまから部活? 頑張ってね。」 暫くの沈黙後、 「星くん……、さようなら」 これが私がSくんをみた最後であった。 私は、彼の発した「さようなら」にかなりの違和感を抱いていた。 いつもなら「じゃあね、バイバイ」 のはずが、「さようなら」と彼はいった。 翌日、先生より、彼の訃報を知らされた。 私は言葉がなかった。 彼は最後に私になにかを訴えていたのかもしれない。 助けを求めていたのかもしれない。 私は気づいてあげられなかった。 悔やんだ。 彼はとても頭が良かった。 良すぎて考え過ぎるきらいがあったのかも知れない。 私は、こうして時々彼を思い出すようになった。 少しでも彼の供養になれば、と思っている。 さて、「星ひかる」は、一度だけ、テレビに出てテロップで名前が公開されたことがある。 それは、浪人二年生の冬、当時人気番組であった「たけしの元気が出るテレビ」だ。 「男のポエム」というコーナーがあって、その第一回目に出たのであった。 ディレクターはあのテリー伊藤である。 高田純次にゲストで三輪明宏。 いま考えても豪華なメンバーだ。 受験を一ヶ月後に控えた師走の29日、私は河口湖の畔に佇んでいた。 そこに高田純次が私にインタビューにやってきた。 「お名前は?」 「星ひかるです」 「ひょえ〜♪ 顔に全く似合わない名前〜」 「お年は?」 「二十歳です」 「ひょえ〜♪ これまた二十歳とは思えない顔だ〜♪」 これが受けたようで、オンエアされたのだった。 1月10日の日曜日の夜のことだ。 放映後、電話が鳴り止まなかった覚えがある。 親戚から友人から、十人くらいから電話が掛かってきた。 受験生がなにをやっているのか。 とのお叱りは全くなく、みんな面白がってくれた。 テレビの影響力を思い知った。 その年の春、私は晴れて大学生となった。 大学生になってからも野球部に入った。 やるつもりなど微塵もなかったのに、また野球部に入ったのには理由があった。 それは、女子マネージャーが可愛かったからだった。 男子校だった私には、女子マネージャーの存在は眩しかった。 久しぶりの恋もした。 その年、少し大きめの同人誌の文学賞に現代詩を投稿したところ、 新人賞を頂いた。 とても嬉しかったのを覚えている。 初めて私の名前が活字となって雑誌に載ったことが素直に嬉しかった。 大学生の頃は、詩と童話を書いていた。 どこに投稿するでもなく、ひたすら書いていた覚えがある。 恋と物書きとバイトと少し野球の大学生活を謳歌した。 就職は証券会社だった。 三年くらいは仕事と飲みの連続で、書くことも少なくなっていた。 三年を過ぎたくらいから、余裕が出来て、仕事をサボって喫茶店で童話やその頃は、ちょっとしたショートショートを書いていた。 童話はさっぱりだった。 自分では良いのが書けたと思っても、子供目線になりきれなかった。 ショートショートは、当時、ぶんりきという有料の投稿雑誌があって(現在廃刊)、そこには十点近く載せて貰っていた。 三十を過ぎたころ、折角いままで書いて来たのだし、記念に本を出してみよう、 と思い立ち、新風社という出版社から、共同出版の形で本を出してもらった。 母のことを思って書いた詩が中心の詩集だった。 おそらく百冊くらいしか売れなかったんではなかろうか。 新風社は、その後、営業方法をなにか因縁つけられたかで裁判沙汰となり、負けて潰れた。 私には良い会社に思えていただけに倒産は残念なことだ。 私の本も絶版となってしまった。 その後、証券会社を辞めて、独立して暫く書かなかった時期があった。 三年は書けなかったのではなかろうか。 四十二になって、また書き出した。 こんどは小説を書き出していた。 いま七本くらい書いている。 まだ未完のものが殆どである。 小説とは、私自身の考え、感情が、その日毎に変わっていくらか、終わりがみえない気がする。 今更、職業作家にはなれないかもしれない。 私の性分として、なにかしら職業を持ってその合間に書くことがいいのだと思う。 私にとって、書くことがストレスの捌け口であり、 書くことでストレスを溜めてしまうよりかは、いいのではないか、と思う。 いま一本の短編が出来上がった。 「銀華文学賞」(文芸思潮)という公募に応募した。 応募資格に四十五歳以上とある。 原稿用紙五十枚以内。 私のは四十枚に仕上げた。 きょうここに書いたこととダブる部分もある。 応募には細心の注意を払って送ったつもりだったが、失敗が見つかった。 頁数を振るのを忘れてしまった。 最近の公募はちょっとした抜けや規定外のことをすると失格になったりする。 今回の応募が箸にも棒にも引っ掛からなかったら、失格になったことにしよう。 なんて弱気でいてしまうが、私も生身の人間だ。 賞という賞に縁のないことの弱さだとも思う。 経過あればまた報告したく思う。 私が三十年を越えて書き続けてこれたのも、Sくんのお蔭だ。 Sくんは優しい男だった。 これは確かだ。 Sくんには感謝する。 そしてまたこうして、時々彼のことを思い出して、供養としたい。 「ありがとう」 《エセコラ(15) 了》 |
エセコラ
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その時のお話しを。 エセコラ(14) 『恩師の定年を祝う会に行って来ました』 私は、中学高校と野球に熱中した。 文字通り、青春を謳歌していた。 でもその当時は、苦痛の何物でもなかった気がする。 練習は毎日だった。 雨降りの日曜日が唯一の休みだった。 いまでこそ雨は嫌いだが、高校時代は雨が大好きだった。 高校卒業後、二年の浪人を経て、大学に入ったわけだが、 こんなにも苦痛の野球とはおさらばして、テニスのサークルかなんかに入って、 思いっきり遊んでやるぞ、と思っていたが、 やっぱり野球部に入っていた。 何故なんだろう。 野球が大好きだったからだ。 そんな野球大好き少年にしてくれた中学野球部の監督が、定年を迎えた。 実に四十二年間に亘り、先生も野球漬けの人生だった。 本来休みのはずの日曜日、先生もまた、家庭を犠牲にして、 私たち、きかん坊の悪ころ坊主のために費やしてくれたのだ。 大変だったと思う。 先生には本当にお世話になった。 十何年か振りでお会いした先生の顔には、日焼けした深い皺がたくさんあった。 シミもたくさんあった。 一つひとつの皺、シミには、野球に駆けた情熱が染み込んでいるかのようだった。 先生と何十年振りかで酒を飲んだ。 楽しかった。 先生も楽しんでくれた。 集まった仲間は、四十二年分の世代に股がっていた。 私はその中でも上から五番目くらいの世代だ。 卒業以来振りに会う人もいた。 でもちゃんと覚えている。 一つ上の当時、滅茶苦茶恐い先輩がいた。 いいおっさんになっていた。 挨拶済めば三十五年の時間など飛び越えてしまう。 思い出話に花が咲く。 「しかし、老けましたね〜♪ もうおっさんじゃないですか♪」 「お前にいわれたくない!」 「そりゃあ、そうだ。ガハハハハ〜♪」 てな具合。 この先輩にはよく買い出しに行かされたものだ。 パシリだ(笑)。 もう四十八も四十九も変わらない。 この年になれば友達だし、友達以上でもある。 電話番号交換して、結局、三次会まで一緒だった。 さて、主役の先生は、とてもマメな方で、各世代の全成績を残していた。 スコアブックも何冊になったのか知らないが、各個人の全成績を大きな掲示板に貼り出してくれていた。 私の世代は貧打だった。 チーム打率.152 でも成績は、何勝か忘れたが、五割だった。 私の個人成績は打率.174 ほぼ身長と同じ数字である(笑)。 出塁率は、.285あったから、当時キャッチャーをやっていたが、二番を打っていた。 足は遅く、五十メートル走、7.4秒(笑)。 でも盗塁は得意だったようで、一試合一個ペースだった。 およそ60個だった。 投手もしたことがあったようで、一試合だけ投げている。 防御率は、28.00 驚異の数字が残り、そして晒された(笑)。 もし、一度だけ、昔に戻れるとしたら、 やっぱりこの頃に戻りたい。 先生、本当に本当に、長い間、ご苦労様でした。 家庭を犠牲にして、私たちのために、善き思い出を作ってくださったこと、 心より感謝申し上げます。 そして、会を盛り上げてくれた、先輩後輩の諸氏にも感謝です。 ありがとう、青春! 《エセコラ(14) 了》 |
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私は、朝の5時というと完全に通勤時間になり、前半が優に終わります。 後半の時間は、既に作業に入ってしまい、全く観られませんでした……orz 結果を知ったのは、Twitterでのこと(笑)。 負けてしまいましたね。 いま家でダイジェストで観ていましたが、後半はもう疲れがもろに出て、オトナと子供の試合みたいにみえました。 これ以上、サッカーを語るのはやめましょう。 にわか、ですから。 日本代表選手、お疲れ様でした。 さて、日本では、ここのところずっと、都議会自民党ヤジ事件のニュースに沸いていました。 前回のエセコラでは私も私見を述べました。 今回は、この問題から、ダメージコントロールの大切さを考えてみたいと思います。 【エセコラ(13)】 『続・都議会ヤジ問題 ダメージコントロールを学ぶ』 前回に引き続き、都議会ヤジ問題を題材に語ろうと思う。 この問題は、国内を上回る勢いで、世界で波紋を呼んでいる。 アメリカでは、議会において、女性蔑視や差別発言などあり得ない、という。 なぜなら、即議員辞職に追い込まれるかららしい。 それほどまでに、差別やパワハラには厳しく、同じような国は多い。 日本は変な文化があって、つい戦後二十年くらいまでは、充分、男尊女卑がまかり通っていた。 だからなのか、ご老体の方ほど、この問題には疎いのだ。 そもそも、今回のヤジ問題は、これ程までに大問題になる事案ではなかった。 当日のうちに、ヤジを入れた人物が、一言謝っていれば、ここまで大きくはならなかったはずだ。 自民党の取った対応も悪過ぎた。 しっかりと外に向けた対応がなされず、あわよくば逃げようとした。 いまなお、一人だけ名乗り出て制裁を下し、幕引きを図ろうとしている。 典型的な、トカゲの尻尾切りだ。 ヤクザ映画に観られる、鉄砲玉の何物でもない。 これが気持ち悪さの正体でもある。 海外では、日本国の「ダメージコントロールの欠如」を懸念する声があがっている。 ダメージコントロールとは、 通常、企業や団体が、仕事上起こった事故やクレームで受けた、ダメージを最小限に留めること、である。 クレームや事故は、企業や団体には付き物である。 その事故やクレームを受けたときに、どう対応するかで、その企業の価値がきまるといっても過言ではない。 私のいまの仕事、清掃業でも、事故、クレームは日常茶飯事である。 その対応がまずかったりすれば、小さな火はあっという間に大火事となる。 対応が良ければ、点いた火も直ぐに消せることもできる。 ダメージコントロール出来るか出来ないかは、それほどまでに大切なことなのである。 ダメージコントロールには、概ね三つの対応が必要とされている。 1・スピーディーな対応 2・謝罪 3・今後の対応を示す 正にこの三つは、事故クレームが起きた後の報告書にもきっちりと書かされるものである。 私も、清掃業に入って五年になるが、この報告書の書き方は大変上手になった。 いや、なってしまった。 なってはいけないものであるので、余り大きな声ではいえないことなのだが……。 下手をすれば、仕事を無くすことに発展するし、現に、私も、ほんの些細なことが発端で、対応を誤って、物件をなくすに至ったこともあるのだ。 今回の自民党の対応をこれになぞらえて、検証してみたい。 1・スピーディーな対応 どうだったか。 これは、明らかに、遅かった。 先にも話したが、即日に、対応していれば良かったのだ。 せめて、自民党本部が、直ぐに調査すると約束していれば良かったと思う。 それを対応するどころか、門前払いしてしまった。 最悪の対応といえる。 もっとスピーディーに対応するには、本人が名乗り出て、次の2にもある、謝罪をしていれば、 ダメージは最小限に抑えられたに違いない。 2・謝罪 これはスピーディーな対応にも準じるもので、スピーディーな謝罪、としても良いのだろう。 3・今後の対応を示す 今回の場合は、いっそのこと、ヤジを禁止する、不規則発言をした者は、なにかしらの罰則を設ける、 と、ここまで示しても良かったくらいだ。 ヤジは議会の華だ、とか古くさい馬鹿な格言は棄てるべきだと感ずる。 正直、国会中継を観ていても、視聴者には、なにをいっているのか聞こえないし、 変な笑いが聞こえるだけで、質疑が中断もし、意味がない。 だいたい、ヤジというものは、他人を揶揄する発言が主なのだから、子供の教育にも良くない。 私は今回のこのヤジ問題、特に自民党の対応は、自分の仕事とダブってみてしまった。 対応を一つ間違えると、こんなにも大事となる、気を付けなければいけない、 という、良い教訓としたい。 皆さんも、仕事上、ダメージコントロールは必要で重大であると思うので、 お互い気をつけましょう。 しかし、このヤジ問題、まだまだ終わらない気がする。 もう一人くらいは、晒されるだろう。 結構、それなりの大物が釣れる気がするが、如何か。 《エセコラ(13) 了》 さて、麻雀格闘倶楽部、通称クソゲー(笑)♪ 私、6月に入って、きょうで三日目。 夜の仕事の作業員が急に辞めてしまい、そういうときは、私が応援で出なくてはならず、 夜、遅くなるは、朝は年がら年中早くて、次の日が心配で、神経使う格闘は、全然できないでいたのです。 (軽く飲むのは行っていたりして……。) きょうほんと久しぶりにやってきました。 半リーグを上げようと、三戦のみ。 いままだ、B 1なので……。 しんどい試合が続き、やはり、神経使いました(笑)。 二戦目など、トップ獲れたのですが、 点数はなんと、三万点割れ(笑)♪ このゲームで初めてじゃないかなあ。 でもドンベなかったのが救いで、星10個になって珠一個ゲットと、ボーナストライみたいなので一個ゲットと、 運がよく、三つ増えました。 もう少しやりたかったけど、明日も早いので、残念ながら、終了。 ではね。 |
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エセコラ(12)
『都議会ヤジ事件の気持ち悪さ』 先週、都議会にて女性議員の演説中に掛けられたヤジが大問題となっている。 子育て支援や女性が子供を産みやすくなる社会にしたい、という訴えをしているときに、それは起こった。 「あんたが結婚すれぱいいじゃないか」 「子供産めないのか」 周りからは、失笑とも嘲笑ともとれる笑いが起こった。 これは、女性蔑視、はたまた人権侵害に値するのではないか、と大問題になっている。 いま二度も「大問題」という言葉を使ったが、そもそも、このヤジを失言と認識したのなら、 その場でその日のうちに謝罪していれば、こんなにも問題視されることもなかったことだ。 ヤジを飛ばす者は、ある意味、受けを狙いにいったのだろうから、今回のも私は全然気にならない。 私が、今回のこの一件で、一番気持ち悪く感じているのは、ヤジった本人が名乗り出て謝罪することもなく、 はたまた、周りも誰がいったのかを隠している点にある。 あれだけの大声で失笑、嘲笑を誘った言葉を、 「なにをいったか聞き取れなかったが……」 とまでいう身内議員もいた。 自民党の議員らしいが、気持ち悪い。 この身内を守る意識が気持ち悪い。 小学生でも女の子がいじめられて泣いたりしたら、学級会を開いて、 誰がいじめたのか正直に手を挙げなさい、と犯人捜しをするだろう。 いま名乗り出られないなら、あとでもいいから、先生のところに来なさい、と諭されるだろう。 小学生の方が、残酷というのか、正直というのか、○○君がいじめました、と先生に報告する子が必ずいた。 日本の議員のオトナにはいないようだ。 これだけの騒ぎとなり、誰一人として、名乗り出るどころか、チクる身内もいない、 おかしなことだと感じざるを得ない。 チクれない、チクると後が大変、寧ろ面倒事に巻き込まれたくない、 あの人にはお世話になったから、 あの人を敵にしたくない、 チクるにチクれない理由としては、こんなところであろう。 ある程度の大物、古参の議員がヤジったと推測できる。 それにしても気持ち悪い。 大のオトナがこういうことを平気でする。 私が思うに、誰か適当な議員を、 「お前だろ!」 と一度、犯人にでっち上げて、 「いや、わ、私ではない……。○○が犯人です!」 といわせて、炙り出すしかないだろう。 ああ、気持ち悪い。 こうして書いていて、気持ち悪い。 ヘドが出そうだ。 いまなおヤジった張本人はのほほんとしているのだ。 まあ、内心冷や冷やはしているだろうが、ほとぼりのさめる時期をじっと待っているのだ。 ああ、気持ち悪い。 時間が経てば経つほど、出難くなるものだから、どうせいつかはバレて出てくることになるのだから、 ここは潔く出てきた方がよい。 まあ、失職は覚悟しておかないと、だが。 〈エセコラ(12) 了〉 |
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ここは取引先があるので、月一くらいのペースで訪れる街です。 東陽町には、江東区役所があります。 その少し先には、にょきっと聳え立つ、ホテルイースト21もあります。 ホテルイーストは、私にとっては思い出深いというか、 思い出すと切ない、といったほうがよいのか、 別れたかみさんとの結婚式を挙げたところなのでした。 最近このブログがギャンブラーブログと勘違いしている人も増えて来たので(笑)、 本日、久しぶりのエセコラは、私のちょっと切ない思い出話し風で。 エセコラ(11) 『結婚式っていいな』 私が結婚したのは、平成5年27歳のときだった。 その結婚が、もし、いまも続いていたら、21年目となる。 でもそうは、ならなかった。 結婚10年を目前にして、夫婦仲は破綻を来たし始めていた。 そこから、およそ二年の別居生活を経過し、正式には、12年目で離婚の運びとなってしまった。 離婚を切り出したのは妻からだった。 でもそれは、意気地のない私が、自分から切り出せずにいただけで、わざと妻にいわせたようなものだった。 たった一人の女性も幸せにしてやることのできない自分を私は責めに責めた。 人を愛することは、もう二度とないだろう、もうやめた、と心に誓った。 私たちの結婚式は、いまにしてみれば、豪華だったと思う。 両家招待客は総勢124人だった。 費用も四百万円を越えた。 イベントも用意した。 小学生のころ私は、合唱団にいたのだけれど、そのときの先生とは、卒業後もなにかと付き合いがあったことから、 先生には、ワンステージ演じてもらったりもした。 ピアノ伴奏は私の先輩で、同じ音楽スクールで先生になっていた方だった。 成人してから、この先輩からピアノを習っていた縁もあってのことだった。 本来、高いはずの先生のギャランティは格安で演じてくださった。 高校時代の友人二人による漫才もあった。 素人ながら結構うけていた。 知り合いのプロのサックス演奏もあった。 式は豪華だったが、妻は、お色直しをしなかった。 これは、お色直しのため新婦が席を立つことが、当時よくあったが、そうすると、みんなからの祝辞やいろいろな演出をみられなくなるのが嫌だ、 来てくれた方々に失礼だ、という妻の信念からであった。 最後の父への花束贈呈もなかった。 ミニコンサート(ミュージカル仕立て)にその他いろいろな演出を施した私たちの披露宴は、なかなかの評価をもらった。 ホテルイーストの披露宴会場も素晴らしかった。 天井が高いのが、まず気に入った。 へんな圧迫感がなく、開放的で明るい内装も素敵だった。 これらが加味された評価だったと思う。 善き思い出になった。 ずっと忘れられない思い出になる、はずだった。 いまは思い出すと切ない気分になる。 いや、これはこれで良かった、とも思う。 ただ、いまは、この思い出を一緒に振り返って語る相手がいないだけだ。 同じ時、同じ場所で過ごした、同じ思い出を持つ彼女がそばにいないだけ。 総ては私のひとつの過ちが招いたことと自分を責めに責めぬいた。 その後の私の人生は、坂道を転げ落ちて行く。 借金も抱えた。 たくさんの人に迷惑を掛けたし、いまもまだ掛け続けている人もいる。 いつかは必ずその恩義に叶うだけのことはしたい。 いや、絶対にしてみせる。 人として生きて行くためにも、この思いだけは忘れない。 元妻には本当に辛い思いをさせてしまった。 償うことは可能なのか、わからない。 でも、この償いの気持ちは、これからもずっと、抱えて生きていかなければならない。 離婚とは、それだけ重いということだと思う。 いまにしてみれば、私は、少し派手すぎた結婚式をして良かったと思う。 それだけ思い出深く、一生忘れることがないから。 いま時間も経ち、愛する女性が出来た。 そして私は立ち直った。 私だけではなかろう。 男とは、愛する女性に出会って生きることができるのだと思う。 男とは、生きるために、愛する女性を探し求めているのだと思う。 幸せは独りでは感じることはできないんだ。 寄り添い励まし合える相手あってのことだと、思う。 いまの私は、自分の身の上をなんの恥ずかし気もなく、こうして語れるようになった。 何故なんだろ、と自分でも思うことが時々ある。 四十を過ぎて小説を本格的に書き始めたわけだが、当初は書く度に、どこまで話していいものやら、語っていいものやら、 考え考え書いていた。 するとそれは、いつの間にか、偽りの私でしかなかった。 偽りの主人公が偽りの言葉で偽りのことを語っている、つまらないものでしかなかった。 それに、気が付いたのだ、と思う。 明日またホテルイーストに行く。 さて、そのとき私は、なにを思うのだろうか。 《エセコラ(11) 了》 |



