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道彦が歩けば物語りが始まる。
きょうの道彦は何処へ。 【即興超短篇(34)】 『老いて三十年』 星ひかる著 少し前のこと。 ソフトボールに参加した道彦は、だいぶはしゃぎ過ぎてしまったようで、 脳震盪を起こしてしまった。 歳を取っていたとこをすっかり忘れていた。 足は十メートルと走らないうちからもつれ合いになる。 頭で考えることと動きが伴わない。 見た目も老けたが、それ以上に身体も衰えていたのであった。 道彦の老け顔は、いまに始まったことではない。 二十歳の頃からの付き合いである。 その二十歳のときだった。 道彦はまだ浪人生であった。 髪を切るのは、男は専ら床屋の時代。 美容院も勿論あったが、そんなところは女性が行くものと思っていた。 そんな折り、物は試しと、美容院とはどんなところなのか、 と興味本意で行ってみたことがある。 シャンプーを先にするのだが、仰向けになるだけでもかなりの違和感を覚えるのに、 更には、死んだ人みたいに白い布を顔に乗っけられるのは、なんとも嫌な感じだった。 手持ちぶさたの手は、どうしてもお腹の上で組むようになってしまう。 それはまるで死体のようだ。 まだ十代の見習いの女の子だろうか、彼女が、道彦の頭を洗ってくれるらしい。 「お客さん、痒いところありませんか」 といろいろと気遣いをしてくれる。 椅子の肘掛けに置いた、両手を組んでいる道彦の少し出っ張っている肘に、 彼女の柔らかな胸がほんのりあたる。 そうか、男が美容院に行くのはこれが目的なのかも知れない、と感じたときだった。 「お客さん、お子さんは何人いらっしゃるんですか」 と彼女は尋ねた。 明らかに、道彦に尋ねた。 「あのう、僕、こう見えて、まだ学生なんです。二十歳になったばかりなんです」 道彦は白い布を顔に被されたまま、静かに答えるのだった。 彼女は、「ひっ」と短く叫ぶと、道彦の髪の毛に絡ませていた指を腕ごと引き抜き、何処かへと消えていった。 道彦の答えが死者の呟きに聞こえたに違いなかった。 ベテランの女性がやって来て、 「お客様、うちの若いのが大変失礼なことを申しました……」 と謝るのだったが、道彦は、 いつものことで慣れてますから、 というと、みんなで笑い合ったのだった。 いいや、笑うしかなかった。 それから何年が経っても年相応にみられた試しはなかった。 三十六で証券会社を辞めたときも、 退職することを顧客に報告がてら挨拶に行くのだが、 「そうか、道彦さんもいよいよ定年か……」 と七十前の顧客は真顔で感慨に耽るのだった。 道彦は毎日見慣れた顔だから感じないが、端からはもう既にお爺さんの域に入っていると思われているらしい。 つい先日も、仕事の帰り道、電車に乗っていたときだった。 吊革に掴まっていた道彦は、目の前に座る六十半ばに差し掛かろうかというご婦人と目が合った。 「失礼致しました。どうぞ……」 と席を譲ろうとするのだった。 道彦は、恥ずかしくなり、丁重にお断りをして、その場を逃げるようにして去った。 老けて見られることは、仕事する上では別段マイナスではない。 勝手に歳上に思ってくれるから、いつも敬語で対応されるし、 それなりの貫禄も身に付いているようで信頼も得られる。 飲み屋で初対面の客人に会っても、取り敢えずは敬ってくれる。 それに、道彦とすれば、 「こう見えてまだ三十なんですよ」「四十なんですよ」と、いって驚かすことを案外、楽しんでもいた。 だが、来年はいよいよ五十の大台に入る。 名実共に老年になろうとしていた。 一体、いつになったら年相応に見られるようになるのだろうか、 と時々、溜め息が漏れないわけではない。 「百まで生きれば年相応になるだろうか……」 道彦は、鏡を覗きながら、そっと呟いてみた。 開け放っていた窓から、秋の風が流れてきた。 道彦のボリュームの無くなった薄い髪の毛が幽かに揺れた。 四十代最後の秋は、もうすぐそこまでやって来ていた。 〈了〉 幾度となく薄くなった髪の毛の話をしていたので、 今回は、私の老け顔遍歴を綴ってみました……。 ( ̄▽ ̄;) これは正に、一時間で書けちゃいました(笑)♪ ではね。 |
即興超短篇
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今回の物語りは、昨日、ブログ仲間のねずみさんの記事「八日目の蝉」を読ませて頂いて、 【即興超短篇(34)】 「九日目の蝉」 星ひかる 今年の五月は異常に暑かった。 気温でいうと、三十度を超す日が何日も続いた。 そうかと思えば、七月はやたら涼しくて蝉の声すら聞くこともなかった。 気象学的知識の欠片もない道彦であったが、これらの現象から、 今夏は「冷夏である」と自信を持っていた。 実家の二十一歳にもなる愛猫バンは、年々一夏を乗り切るのがしんどくなってきている。 最近は調子が悪く、寝たきりになっていた。 果たして、今夏が猛暑となったら、命を繋ぐことが出来るかどうかも心配で気になって仕方がない。 希望的観測からも道彦はなにがなんでも冷夏であることを望んでいたのであった。 だがそれは、そう、見事にはずれた。 八月に入ると気候は一転する。 歴史的猛暑日の続く夏となった。 雨粒ひとつ降らない。 雲一つ無い青空と、ギンギンに輝く太陽との共演に沸き立った、そんな、八月の入りとなった。 ようやくお盆を過ぎて、お湿りの雨粒が空から落ちるようになってきて、 少しは涼しくなるかな、と安堵していると、 こんどはまた極端に、集中豪雨に見舞われる。 東京だけでなく全国各地に被害は広がった。 積乱雲のいたずらにしては、度が過ぎる。 世界で異常気象も発生している。 地球が怒っているのだ。 地球規模でなにかが起こるのではないかという、嫌な雰囲気を感じる道彦であった。 きょうの朝もそんな異常な降りの雨だった。 どこにそんなに水があるのか、と薄黒い空を睨んだとて収まるわけもなく、 大粒の雨は、朝早く家を出たばかりの道彦の足下に叩き付けてきた。 朝からの雨は、久しぶりだった。 この鬱陶しさも久しく忘れていた。 電車に小一時間揺られた道彦は、生乾きのズボンの裾を気にしながら、地下鉄の出口へと急ぐのだった。 どうせまた直ぐにずぶ濡れになるさ 、と独りごちた。 会社へと続く一本道を大きめの傘を開き歩いていた。 世間では盆休み明けの月曜日。 道彦には盆休みなどはなく、いつもの月曜日だった。 探し物をするでもなく下を向いて歩くのが癖の道彦である。 猫背が、道彦をより一層、老けてみえさせるが、この姿勢が一番楽なのであった。 アスファルトの道端に一匹の蝉が仰向けになっているのを見付けた。 雨は容赦なく仰向けの蝉の腹に降りつけている。 微かに六本の脚が互い違いに動いているのがみえた。 道彦は一瞬、立ち止まったが、雨は更に傘へと降り注ぐ音を強める。 道彦は先を急いだ。 「八日目の蝉か……」 蝉はおよそ七年土の中で育つ。 暗い地中でなにを思い過ごしているのか、七令目の幼虫となり、外に出る時期の来るまでじっと待っている。 卵から孵り、木肌を滑り落ち、地中に潜ってから七年振りの地上へ這い上がった都会の蝉は、 すっかり姿を変えた街並みになにを思うだろうか。 七年前の自分を道彦は思い出していた。 あの頃の道彦はボロボロだった。 事業に失敗し借金を抱え、半ば人間不振にもなっていた。 いままで生きてこれたことが不思議なくらいでもあった。 この自分でさえ、七年も経つとこれほどまでに変わるのだ、 世間はもっと変わっているはずだ、と思った。 蝉も七年振りの地上に驚いたことだろう。 ひょっとすると、あの騒々しいほどの鳴き声は、驚きの声なのかも知れないと思った。 道彦は後ろを振り返った。 さっきの八日目の蝉が気になった。 だがそこには、降りしきる大粒の雨がアスファルトに弾けるのがみえるだけだった。 道彦は会社へと急いだ。 ズボンの裾を気にすることも忘れていた。 せめて、街路樹の植わる僅かばかりの土にでも移してあげれば良かったかな、 と少しだけ後悔した。 その日の夜、道彦には珍しく、寝付きが悪かった。 雨に打たれた蝉が忘れられないでいたからだった。 朝、どうにか起きた道彦であったが、いろいろ考え過ぎたのか頭が少し重い。 昨日の雨はすっかり上がっている。 道彦は、昨日、八日目の蝉に会った場所に立ち止まった。 そこには、また蝉がいた。 きのうと同じ、仰向けにひっくり返った蝉がいた。 道彦は、無意識のうちに人差し指を蝉の腹に近付けていた。 六本の脚は互い違いにもがくように動いている。 道彦の人差し指に、蝉はしがみついてきた。 「九日目の蝉か……、まさかな……」 道彦は、十メートルほど先にある、街路樹のある方へ歩き出した。 きょうこそは、土に返してやろうと思った。 蝉は、なにを思ったか、ストローの口を道彦の人差し指の肌に突き刺そうとしている。 こそばゆい感じを道彦は楽しんだ。 「最期に樹液を吸いたいのか」 道彦は街路樹の木肌に九日目の蝉をおいてあげようと思った。 蝉は未だ一生懸命、道彦の人差し指の先にストローの口を突き刺そうと頑張っている。 少しの間、道彦はその蝉の懸命な姿をみていた。 蝉が背伸びをしたように感じた。 道彦が猫背を注意されて背筋を伸ばす格好と同じだ。 そのとき、道彦の人差し指の肌とストローの口とが、垂直になった。 九日目の蝉は渾身の力を振り絞る。 「痛っ」 道彦は叫んだと同時に手を振りほどいた。 蝉の口が道彦の人差し指に完全に突き刺さったのだった。 蝉は、道彦の人差し指から離れ、朝の澄んだ空へ飛び立った。 携帯の着信音がなった。 弟からのメールだった。 実家に帰って来ている報告だった。 それと付け加えるようにして、 「お兄さんも心配していたようだけど、バンは、歩いてい出迎えて来られるくらい元気になってるよ」 道彦はほっとした。 それと同時に、あの蝉は、やっぱりきのうの蝉だったのだろうか、と考えた。 九日目の蝉の最期を看取るつもりが、元気に青空へ飛び立つ手助けをしたのだった。 道彦は朝の青く澄み渡る空を見詰めた。 痛む人差し指の先をその青空へかざしてみた。 九日目の蝉はきっとどこまでも空高く、飛び立って行ったに違いない、と確信した。 〈了〉 |
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道彦が歩けば物語が始まる。
きょうの道彦は何処へ。 【即興超短篇(33)】 『少年の小さな手』 星ひかる著 道彦はいつもの地元の居酒屋マスターのところで飲んでいた。 夜の九時。客は道彦一人だった。 「マスター、きょうは暇だね。一緒に飲もうよ」 道彦はマスターにもビールをと注文した。 マスターは、ありがとう、とニコニコ顔で生ビールサーバーへと向かう。 一人しか客が居ないのに、足取りは軽やかだった。 この店は不思議な店で、夜中の十二時を回ってからの方が忙しいのであった。 マスターの人柄にほだされたスナックや同業のママ連が、自分たちの店を終え足繁く通って来るのだった。 大抵が客を伴った来店になるから、狭い店はあっという間に満席になる。 マスターの動きは早い。 忙しくなる前の一渇きした喉を潤したくて仕方なかったようだ。 道彦のジョッキに泡の滴る新しいジョッキを押し当てた。 「いつもありがとう」 そういうと、道彦と斜向かう形で、カウンターに腰掛けた。 二人して壁掛けのテレビを黙って観ていた。 キャスターがきょうの事件を語っている。 新幹線の車内で焼身自殺した男のニュースだった。 「ひどい話だねえ」 道彦は独り言のように口を開いた。 マスターもビールに口を浸けながら頷いている。 ニュースは次の話題へ移っている。 過去の事件の続報だった。 数ヶ月前に起こった、少年が少年を殺した事件を振り返っていた。 「これも切ない話だよねえ」 厨房へと移動し、なにやら作業しているマスターの背中に向かって語りかけた。 「あいよ、いつもありがとうね」 マスターはそういって、道彦の前に刺身をくれた。 「いやいや、こっちの方が迷惑掛けっぱなしだから」 と道彦は照れ笑いしながら、最近めっきりボリュームを無くした頭を掻いた。 マスターが、たくさんのママたちから愛される所以は、こういうところなんだよな、 と道彦は納得し、刺身に箸を持っていく。 ニュースはスポーツニュースへと話題が変わって、さっきまでの神妙な顔は何処へやら、キャスターは満面の笑顔をみせていた。 「じゃあ、明日も早いから帰ります。マスターありがとう」 道彦の声にマスターも立ち上がった。 カウンターの上にお代を置いた。 「あいよ、毎度」 マスターは、お釣りを持って道彦の帰りを外まで見送ってくれた。 道彦はマスターから受け取ったお釣りを小銭入れに納め、家路へと急いだ。 五十メートルも緩い坂道を上っただろうか、道彦の行く先に、小学生低学年と思しき少年二人がその坂道を下りて来るところだった。 道彦とすれ違うそのとき、 「お前わかってんのか」 一人の少年が少し強い口調を吐いた。 道彦は子供の喧嘩か、言い争いか、と横をみた。 言葉を発していた少年がもう一人の少年の胸を拳骨で殴ったようにみえた。 道彦は、立ち止まった。 先ほど観た子供が子供を殺すニュースが頭を過った。 こんどは、足蹴りするのがみえた。 蹴られた少年はなにもいわないが、脅えているのがわかる。 もう我慢がならなかった。 道彦は、二人に歩み寄っていた。 「おい、なにやっているんだ。いまなにした」 道彦も少し強い口調になる。 「なにもしてません。じゃれ合っていただけです……」 殴った方の少年がいった。 殴られた方の少年は無言で俯いている。 「大丈夫か」 と道彦が殴られた方の少年に声を掛けるが、少年はじっと道彦を見詰めるだけだった。 駄目だな、と思った。 「お前は、さっさと家へ帰りなさい」 道彦は、じゃれ合っているだけ、といった、にやけた顔の少年に向かって、住宅地の方へ指を差していった。 無理矢理にも引き離すべきと感じたのだった。 しばらくその少年も動かなかったが、道彦の顔も怖かったのかもしれない、諦めて走って帰っていった。 道彦は、走って行く少年の姿が、通りを抜けて消えるのを見届けた。 傍らには小さな少年が無言で佇んでいた。 「よし、ちょっと、おっちゃんに付き合ってな」 道彦は、少年の手を取った。 少年は素直に手を繋いできた。 少年の手は小さくて冷たかった。 道彦は、またマスターのところへ戻った。 「マスター、お友だち連れてきたよ」 おどけてみせた。 「どこの子?」 マスターが驚いた顔をして聞いた。 「そこでね、友達と喧嘩していてね、もう一人の子を帰したはいいんだけど、 まだその辺にいて、変にやられたりするといけないから、少しだけここで待機ね」 と道彦は簡単に説明した。 「マスター、取り敢えず、この子に水ちょうだい、それと僕はいつものね」 マスターは、あいよ、と水とビールを用意してくれた。 少年は、小さな身体をもっと小さくして座って、道彦の顔をじっとみていた。 じゃあ乾杯、と道彦がジョッキを掲げると、始めて笑顔をみせてくれて、水の入ったコップを手に取った。 「お腹、空いてないのか……」 道彦がいうと、少年は、大丈夫です、と答えた。 「そうか、いまいくつだい」 道彦は、ビールジョッキを口に運びながらきいた。 「中学三年です……」 「えっ」 道彦だけでなく、マスターも声を上げて驚いた。 とても中学三年にはみえない。 小学三年の間違いではないか、と耳を疑ったからだ。 「マスター、焼そば作って」 道彦の声は裏返っていた。 この子になにか食べて欲しかった。 「さっきの子は友達かい」 道彦は少年に尋ねた。 「ハンドボールクラブで一緒です」 きょうはその帰りだった、と続けた。 いじめに合っているのか、聞いていいものかどうなのか、子供のいない道彦は迷ったが、 「おっちゃんもな、小学生のころ、いじめられてた時期があったんだ……」 口は勝手に話し始めていた。 少し酔っていたのかもしれない。 マスターが玉ねぎを刻むまな板の音が心地好く響く。 「でもな、中学から野球部に入って、少しだけ強くなったかな。 そこでも、いじめられたりしたけど、逆にいじめたりもしたかなあ。 野球しているうちに、いろんな経験して、気が付けは直ぐに大人になっちゃうよ」 と道彦は笑った。 少年も笑った。 「それにしても中学三年とは思えないなあ。ちゃんとご飯、食べてるのか」 と道彦は少年の肩を撫でた。 本当に小さくて、柔らかくて、こんな身体で、ハンドボールなんかできるのかなあ、と本気で思った。 静かな店が急に、マスターがフライパンを踊らせて賑やかになった。 母親はちゃんとご飯食べさせているのだろうか、と感じながら、 道彦は少年の横顔を見詰めていた。 「あいよ、焼そば出来たよ」 マスターの声に道彦の想いが弾かれていった。 「お、出来たよ、さあ、これ食べな」 皿ごと少年の前に置いた。 少年は、じっと焼そばをみていた。 次に、道彦の顔と焼そばとを交互に見比べ始めた。 「いいの?」 道彦は、なにもいわず頷いた。 ありがとう、といって少年は、割り箸を勢いよく二つに割いて、 これも勢いよく、焼そばを口いっぱいに頬張った。 道彦の頬を一筋、生暖かいものが伝った。 マスターは、道彦に新しいおしぼりを手渡す。 道彦が、礼を言おうとマスターをみると、マスターの目の端にも光るものがみえた。 どうしてなのか、わからない。 大の大人が二人揃って。 少年の焼そばを食べる姿が、そんなにも健気にみえたのだろうか。 「ご馳走さまでした」 少年の元気な声だった。 マスターが、美味しかったかい、といいながら、少年におしぼりを渡していた。 道彦は、ビールを飲み干した。 「もう遅いから帰るか」 道彦は少年に帰りを促した。 「はい、ありがとうございました」 「頑張れよ、困ったことあったら、いつでもここにおいで、ね、マスター」 と道彦はマスターをみて、少年をみていった。 少年は、礼儀正しくお辞儀をして、店を出ていった。 「もう少しの辛抱だからね。味方はたくさんいるからね。直ぐに大人にだってなっちゃうんだからね」 別れ際、道彦は少年と握手を交わした。 さっき冷たいと感じた小さな手は温かだった。 客はまた道彦一人になった。 「マスター、おかわりちょうだい、マスターも一緒に飲もうか」 と道彦はおどけたつもりだったが、おしぼりを瞼から手離せないでいた。 「あいよ」 マスターの声が、静かな店に響いた。 きょうはやけにマスターの声が綺麗に響いて聞こえる夜だな、と道彦は思った。 〈了〉 今回は、実体験した、ほぼ(90%)実話を事実に沿って書きました。 私の物語のほとんどがこの体ではありますが、今回のが一番事実に近い物語となりました。 私はこの少年のことがいまでも気になります。 余計なことをしてしまったのではなかろうか。 反って、より酷くいじめられていたりしてないだろうか、とか思います。 お節介じじい、だったかなあ……。 ではね。 |
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バンくんに会ってきました♪ 【即興超短篇(32)】 『ぼく、バンくん、二十一の夏』 星ひかる著 ぼく、バンくん、このあいだ、二十一歳になっちゃった。 二十一年前の三月、まだ肌寒い昼下がり、冷たくて寒くて、寂しくて淋しくて、 独りで泣いているところをぼくは、ヒカルンに抱き上げられた。 あれからもう二十一年も経ったんだね。 早いような、長いような、あっという間だった気もする。 でもやっぱり二十一年の時間には、いろんなことがあったね。 きょうはいつもより身体が楽なんだ。 こういうときは、いつもなら決まって、ヒカルンがやって来るはずなんだけど、 もう夕方近くなるのにまだ来ない、ということは、違ったのかなあ。 きのうまでは、ずっと、なんだか身体全体がだるくて、 夜も全然眠れなかったから、いまになって、なんだか眠くなってきちゃったよ。 ヒカルンのいない昼下がりの我が家は、いつも静かなんだ。 おじいちゃんもおばあちゃんもお昼寝しているし、テレビも消えているし、 聞こえてくるのは、おじいちゃんのイビキくらいなものかなあ。 ときどきベランダに雀の夫婦が挨拶に来てくれるけど、きょうはそれもない。 ああ、ぼくも本当に眠くなってきた。 辺りが急に暗くなってきた。まぶたが重いよ。 暗がりの中にぼんやりと白い二つの影がみえた。 それは、天国のヘレンお姉ちゃんと、ロンお兄ちゃんだと直ぐにわかった。 ぼくは、ビックリするのと懐かしいのとで、声を掛けるんだけど、なにも返してくれないの。 ぼくは、思いっきり、ミャーって泣いてみたの。 だけど、だけど、お姉ちゃんもお兄ちゃんも、ぼくの方をじっと見つめるだけで、一声も応えてくれないの。 寂しくて、淋しくて、この感覚は、そう、あのときと同じ。 ぼくは、竹やぶでのことを思い出していた。 ヒカルンの温かな手のひらに乗ったときみたいにふわふわした気分になった。 お姉ちゃんとお兄ちゃんに向かって、もう一度、ミャーと声をかけたんだ。 すると、ヘレンお姉ちゃんとロンお兄ちゃんが二人して、歯を剥き出してぼくを威嚇するんだ。 昔、かまってほしくてじゃれついたときに、あっちへ行け、と怒られた時みたいに。 ぼくがビックリして目を伏せた瞬間、二人の姿は消えていたんだ。 ああ、どうして……、お姉ちゃんお兄ちゃん、ぼく寂しいよ。 ぼくは泣きつかれてしまって、またいつの間にか眠っていたみたい。 なんだか暖かくなってきた。 顔も身体も手も足も、心までも、暖かく温かな気持ちになってきた。 ぼくは目が覚めた。 そこには、ヒカルンの笑顔があったんだ。 台所ではさっきまで昼寝ばかりしていたはずのおばあちゃんが、 忙しそうに動き回っている。 でも、どこか嬉しそうな顔をしていたよ。 ソファーで眠りこけていたおじいちゃんも起きていて、 手には、この間、お習字の検定でもらったという、二段の賞状を持っている。 ヒカルンは、すごいね、よかったね、と嬉しそうに声をかけていた。 おじいちゃんも照れながら笑顔で応えていた。 また、いつもの我が家に戻ったね。 おばあちゃんは、ヒカルンのご飯作りに忙しいんだけど、 ぼくのご飯も用意してくれていて、 ぼくは、ヒカルンに頭を撫でられながら、美味しくご飯を食べていた。 食べ終わってぼくは、ヒカルンの顔を見上げた。 これが合図となって、ヒカルンはぼくを抱きあげ、いつものようにベランダに連れて行ってくれるんだ。 ヒカルンは夕焼けに染まるたくさんの雲を眺めていた。 ぼくも一緒に空に視線を移したんだ。 またヘレン雲だ、とヒカルンがいうかも知れないから、ぼくは先に見付けてやろうと思って、キョロキョロしてたら、 いたんだ、ヘレンお姉ちゃんとロンお兄ちゃんが。 ぼくはヒカルンに、「あそこ、あそこだよ」ってミャーミャー泣いて知らせるんだけど、 ヒカルンは全然違う方をみている。 お姉ちゃんもお兄ちゃんも尻尾を降っていた。 僕たちに「バイバイ」の挨拶をしているみたい。 ヒカルンは、ぼくを下ろして、煙草に火を点けた。 ヒカルンは赤い空に向かって、気持ちよさそうに煙を吐いていた。 身体にはあまり良くはないらしいけど、ヒカルンが好きなんだから仕方ないか。 ぼくがミャーミャーと怒ってもいうこと聞いてくれないしね。 家の中をみてみると、テーブルには、既にヒカルンのご飯がお膳されていて、 おばあちゃんはおじいちゃんの側に寄り添いながら、一緒にテレビを観ている。 ぼくは、ヒカルンの足下に背中を押し当てて、ヒカルンの口から放たれる白い煙を目で追っていた。 きょうは久しぶりに気持ちのいい一日だったよ。 今夜は、ゆっくり眠れそうだね。 もう少し、あともう少しだけ、こうしていたいけど、良いですか、 ヒカルン。 〈了〉 |
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道彦が歩けば、物語が生まれる。 【即興超短篇(31)】 『太陽と雲と白球と』 星ひかる著 道彦は、地元のソフトボールチームの大会会場に来ていた。 「道彦さん、きょうは、ありがとうございます。メンバー足りなくて……。 でも考えてみたら、飲み会ではいつも会ってるんだし、と思って声かけさせてもらいました」 一人のチームのメンバーが笑いながら道彦に声をかけた。 名前はわからない、いいや、忘れた。 昔から人の名前を覚えるのが苦手な道彦だったが、最近はそれが富に激しくなってきている。 チームのメンバーは皆、若かった。 三十から三十五が中心で、五十に近いのは、監督と道彦くらいなものだった。 道彦は中学から大学まで野球部である。 弱い野球部で、道彦自身、さほど上手いわけでもなかったが、 ソフトボールくらいなら、とある程度の自信はあった。 けれども、若いメンバーで構成されているチームだっただけに、あまり表だって参加するのもどうか、と憚れた。 多少の遠慮の気持ちもあった。 こういうと、いままで試合に出場して来なかったことへの言い訳じみて聞こえるが、 本当は、ただ面倒なだけだったと、道彦は、きょう来てみて改めて思い反省もする。 酒が飲めるとなれば面倒がらずに何処でも顔を出すくせに、と道彦は我ながら恥ずかしくもあった。 メンバーのみんなにしてみたら、ただの迷惑な幽霊部員であったに違いない。 天気は、道彦のソフトボールデビュー戦を祝うかのような快晴であった。 ひとつきりの白い雲が、気持ち良さげに浮かんでいた。 道彦は、グラブを嵌めてボールを握り、もう一度、青空を見上げた。 十八の頃に感じた、あの懐かしい風を思い出す。 青春の殆どの時間を白球に費やしたんだ、道彦のボールを握る手に力が入った。 一丁、やったるか、いままで参加してこなかった罪滅ぼしをしてやろう。 道彦の気持ちは既に、高校球児に戻っていた。 「道彦さんは、七番セカンドでお願いします」 さっきのメンバーの子が告げた。 監督はきょう、休みのようだ。 監督の代わりに呼ばれたのは明らかだった。 ならば気持ちも楽だ、いくらなんでも、あの監督よりは、自分の方が動けるだろう、と道彦は胸を撫で下ろした。 試合は初回から乱打戦の体だった。 道彦の初打席は、二回に巡ってきた。 先頭打者だ。 恥ずかしくも緊張しているのがわかった。 足も小刻みに震えている。 気持ちは若いままでも、身体は世間の荒波に揉まれた四十九の老体であったのだ。 初球、力一杯、振り抜いた。 打った球は、ピッチャーの足元をゴロで抜けて、そのままセンターに点々と転がってくれていた。 ヒットだった。 チームメートのみんなが、やんやの喝采をくれた。 「初打席初ヒットですよ、道彦さん」 道彦も無邪気に嬉しかった。 だが手首が痛い。たった一振りで手首を痛めるのは、単純に年なのか、ただの運動不足なのかはわからない。 いいや、どちらもだろう。 この道彦のヒットを皮切りに、チームは逆転した。 その後、道彦はヒットを続けて打ち、途中まで三打数三安打の活躍であった。 だが、乱打戦の試合はそのままにシーソーゲームとなり、最終回を迎えたときには、ひっくり返されていた。 道彦のチームは、一点差で負けていた。 最終回、道彦の四回目の打席はやって来た。 二死一塁。 道彦が凡退すれば、試合は負けて終わる。 最後の打者にだけは、なりたくなかった。 やはり負けたくはない。 道彦は初回の緊張が嘘のように、無心でいられた。不思議な気分でもあった。 若かりし頃にも、こんな気分を味わったことはない。 試合前にみたポッカリ浮かぶひとつきりの白い雲は、まだそこにあった。 目の前には、その雲と同じ白い色をした、大きなボールが浮いていた。 道彦はそのボール目掛けて、水平に金属バットの芯をぶつけるだけでよかった。 球は、ライナーでピッチャーのすぐ横を過ぎ、そのままセンターの前に落ちた。 ヒットだった。 「道彦さん、すごい。四打席連続ヒットですよ」 チームメート全員が踊っていた。 ここでホームランを打てないのが、道彦らしいのかもしれないが、ただの非力によるものだ、仕方ない。 道彦も久しぶりに興奮した。 さあ頼む、打ってくれ、とバッターボックスに立つ、チームメイトに祈った。 道彦がホームに帰れば、逆転サヨナラ勝ちだ。 打者も緊張しているに違いなかった。 いいや、一番緊張しているのは、他ならぬピッチャーだった。 ボールが二つ続いた。 三球目、ピッチャーの投じた球はほぼ真ん中に来ていた。 「よっしゃあ」 道彦は叫んだ。 バッターが驚いたように道彦をみた。 バットは振り遅れ気味だったが、道彦に入れられた気合いと共に振り抜かれた。 ボールは地を這うように道彦の後ろを通過し、そのまま二塁手のグラブを掠め、ライトの前まで転がっていく。 見事な一二塁間のヒットだった。 道彦は猛ダッシュを試みる。 前を行く走者が三塁ベースの手前で速度を落としているのがみえた。 ホームに突っ込むか悩んでいるようだった。 次の打者は九番バッターだ。打順を考えたら、この機を逃したら同点のチャンスが、ぐんと減るのは明らかだ。 「ゴー、ゴー、ゴー」 道彦は前の走者に向かって叫んだ。 道彦は既にセカンドベースを蹴っていた。 それをみた前の走者は、驚いたように、また速度を上げて三塁ベースを蹴った。 ホームを駆け抜けた。同点だ。 ライトがあらかじめセンター寄りに守っていたのを道彦は見逃さなかった。 ソフトボールでは、引っ張り打ちが当たり前だから、右バッターの場合は、大方守備位置は左寄りになるのだった。 道彦はライトをみた。 ようやくボールに追い付いて、ちょうど捕球しようとするところだった。 道彦は三塁ベースの手前だ。 「一か八かだ」 道彦はそう呟いて、三塁ベースを駆け抜けた。 が、四十九の足はもう限界に来ていた。 頭では走っているが、身体が着いていかない。 普段運動もしていない四十九の身体とは、こんなものなのだ。 足が回らない。 それでも道彦は懸命にホームを目指して腕を振る。 あの夏の日と同じように駆ける。 十八のあの夏の日と同じように走る。 道彦の前には相手チームのキャッチャーが立ち塞がった。 既に捕球態勢に入っている。 道彦はキャッチャーの足下に僅かに覗くホームベース目掛けて足から滑り込んだ。 道彦の身体は土埃沸き立つ中をすり抜けていた。 妙に軽く感じた。 道彦の身体は、太陽に向かっていた。 あの白い雲が近付いて来る。 気持ちが好かった。 「なんだろう、身体がすうっとするなあ。こんなにも心がスッキリするのは何故なんだろう」 道彦はわけもわからず楽しくなった。 白い雲の向こう側へはなにがあるのだろう、急に興味が湧いた。 あの白い雲の向こう側へ行かねばならない気がする。 この気持ちは抑えられなかった。 とそのとき、足を強い力で引っ張るものがいた。 道彦は自分の足下をみた。 「うわっ、なんだこれは」 道彦は思わず叫んだ。 そこにはさっきまで自分がソフトボールをしていたグラウンドが、 遥か下に小さくみえるのだった。 道彦の足はぐんぐんと引っ張られた。 ホームベースのすぐ真上まで引っ張られていた。 そこには、人だかりが出来ている。 その輪の中に一人の男が倒れていた。 白髪頭の中年男性だった。 老人にみえなくもない。 道彦はその倒れている中年男性の顔近くまで来ていた。 正面から横からまじまじとみてみる。 道彦は息を飲んだ。 それは、紛れもなく道彦本人だった。 「え、なに、なんだこれは」 道彦は自分の顔と向き合った。 「ああ、こんなに頭、真っ白なんだ、僕は。こんな頬の隅に染みも出来ていたんだね、この僕は」 道彦は、自分の顔を初めてみた気がする。 普段、鏡でしかみていない自分の顔と、ここに横たわる顔は、まるで別人であった。 道彦は何故だか自分の顔が哀れに思えた。 いいや、みればみるほどに、いとおしく感じてもくる。 涙が出てきた。 道彦は自分の顔を手で擦ってみた。 ついには思わず、頬擦りをしていた。 そのときだった。 頭がズキッとする感覚に襲われたかと思うと、道彦はホームベースの横に倒れていたのだった。 滑り込んだときに勢い余って横に飛ばされた道彦は、頭を打って脳震盪を起こしたのだった。 道彦は目が覚めた。 先ほどまで追いかけて近くまで来ていたはずの白い雲が、遥か上空に小さくみえた。 道彦の視界はやがて、大勢のチームメイトの顔に埋め尽くされた。 「あっ、道彦さん、気が付いた」 「大丈夫ですか、大丈夫ですか」 みんなが口々に道彦の顔をみて叫んでいた。 「あれ、僕はなんでここにいるの」 道彦は、自分が何故ここにいるのかがわからなかった。 「道彦さん、記憶戻りませんか。ソフトボールですよ。いま道彦さんがホームインして、僕たち勝ったんですよ」 虚ろだった道彦の目にも徐々に力がみなぎってきた。 「ああ、そうか……、よかった……」 道彦はそういうと、また暫く目を瞑った。 さっきまでのことを思い出そうとするが、思い出そうとすればするほど、頭が痛くなる。 道彦の前には、歓喜するみんなの姿があった。 道彦は独り、空を見上げた。 ひとつきりの白い雲は、いつの間にか消えて無くなっていた。 眩しい太陽と青い空があるだけだった。 「そうか、きょうはいい天気だったんだね」 道彦がそういうと、道彦の側に寄り添うチームメイトの一人が、一緒に空を仰ぎみて、 「そうですね、いい天気ですね」 そういって、手をかざし、眩しそうに目を細めていた。 道彦はその彼の仕草をみながら、彼の名前を必死に思い出そうとするのだが、 すぐに諦めた。 きょうは、なにもかもが幻であったことにしようと思った。 〈了〉 |




