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およそ一月振りとなってしまいました……。
「道彦が歩けば物語が生まれる」
きょうの道彦は何処へ。 【即興超短篇(25)】 『こども心』 星ひかる著 道彦は東京郊外にある小学校を訪れていた。 友人の木村に会うためだった。 木村が教師になって二十五年が経った。 道彦も三十年前までは小学校の教師を目指していた。 木村とは大学の野球部時代からの付き合いである。 彼は教育学部、道彦は工学部だった。 当時の教育学部は定員も少数で狭き門である。 二浪していた道彦に、これ以上の浪人は体裁的にも経済的にも無理であったから、 無難に入れるところを選択した、いわば夢より現実をとったのだった。 木村とは卒業後もなにかと、お互い相談に乗ったり乗ってもらったりの善き友人だ。 その木村が、一度学校に顔出してくれないか、と切羽詰まった声で道彦に電話を掛けてきた。 なにがあったかは会ってからでないと話せない、とはなんとも、もどかしい。 道彦も彼のただならぬ声の調子と妙な切迫感とを感じつつ、心につっかえるものを抱え、ここまでやって来た。 東京郊外である。電車で片道一時間と少しの短いような長いような、中途半端な距離であったが、 道彦には、とてつもなく長い旅路に思えた。 こんなことなら、はっきりと用件を聞いておけば良かった、と後悔した。 いまどきの小学生とはどんな子供なのだろうか。 子供のいない道彦には、そんないまどきの子供とどう対峙すれば良いのかなんて、見当もつかない。 無理に気張る必要はないのかもしれないし、やはりある程度の緊張感は持って然るべきなのかもしれない。 道彦は、木村が先生をしている小学校の前に立った。 「あの木村が先生か……」 定期的に会っているが、こうして彼が教壇に立っている学校を目の前にすると、 なんとも不思議な気持ちになった。 道彦は独りごちているが、苦笑とも羨望ともいえる、複雑な気分に陥っていた。 木村は、どちらかといえば気の弱い音無しい性質の男だった。 親御さんにいろいろ苦情を突き付けられて、所謂モンスターペアレンツとやらに悩まされているのだろうか。 木村ならあり得ること、とも思った。 短い並木道を行く。いまは葉も何もかもが朽ち落ちて裸になった白樺だろうか、 学校らしさ漂う景観を過ぎるとその先には、厳重に閉ざされた横滑りの赤い門が道彦の前に立ちはだかった。 道彦は門番の警備員を見付けた。 いまどきの小学校はセキュリティも万全であった。 道彦は感心すると同時に昨今の善からぬ事件の数々が頭を過(よぎ)らないでもない。 「本日、木村先生と約束しております……」 と名を告げると、 「伺っております。あちらの入り口からお入りください」 と警備員は礼儀正しく頭を下げながら右手を水平に挙げ、校舎の左端の扉の方向を指した。 扉の奥には事務局らしき窓口があり、記帳すると入館証の札を渡され、備え付けの小さなソファに腰掛けて待つようにいわれる。 木村が迎えに来るらしい。 寛ぐ暇もなく木村は現れた。 白いシャツにスラックスを履き、青のジャンパーを羽織っている。 定番の男性教師の格好なのだろう、なんの違和感もなく、寧ろ様になっていた。 片や、道彦は一見スーツで決めているようではあるが、良くみると袖口はほつれが目立つ上に、お尻も擦れてガビガビだ。 全貌が顔から髪からヨレヨレであった。 「やあ、よく来てくれたなあ」 木村の屈託ない笑顔が眩しくみえた。 「おお、久しぶり。なにかあったのか」 道彦はずっと気になっていたことを口にした。 「まあ、とにかくこっち来てくれよ」 木村はほくそ笑むだけだった。 「いま俺な、クラブ活動の顧問、っていうか、指導というか、まあそんな類いのこと受け持っているんだけど、 それが最近立ち上げたクラブでさ、俺自身、昔ちょこっと、かじった程度の分野なもんでさ、 これは道彦が得意じゃん、って思い出して、きょうは、お前に先生になってもらおうと思ったってわけさ」 木村は長い廊下の右側をゆっくり歩きながら、それが常なのか静かに語った。 廊下の柱には、「廊下は静かに」の貼り紙が掲げられていた。 道彦は懐かしい気持ちになりながら、木村の話を聞いていた。 「俺に得意な分野ってあったかなあ」 木村の後ろ姿に向かって道彦は返した。 「あるじゃん」 木村はニヤリと口角を上げると、教室の扉を勢いよく開けた。 「こんにちは!」 言葉の空気の圧力を道彦は初めて感じた。 子供たちの元気な声だった。 十六名の元気な子供たち。 「はい、静かに。きょうは特別に先生を連れてきたぞ」 わーい、やったー、と子供たちはまた元気になる。 道彦はなにがなんだかわからない。 「これだよ」 木村は、なにかを掴んだ手をそのままに、道彦の顔の前に持ってきた。 紙相撲の力士だった。 普通の人には紙の人形か小さな紙切れにしかみえないだろう。 道彦だから直ぐにそれとわかったのだった。 「きょうは道彦先生が紙相撲の力士の作り方を教えてくれるからねえ」 木村は道彦の顔を横目で見詰めニヤリとし大声で叫んでいた。 「な、これはやっぱり道彦、お前にしか出来ないだろう」 と木村は更に微笑む。 道彦は小学生の頃から、大の相撲好きだった。 観戦だけでは飽きたらず、中学生からは紙相撲を趣味に持つようになった。 実際にスポーツとしての相撲をするのではなく、紙相撲というところが道彦らしい。 家で夜中に独り、菓子箱で作った自家製の土俵をトントン叩いては、朝までやっていたりした。 父母から何度も、うるさい、と怒られても、これだけは止められなかった。 作成した紙力士は三百を超えてあった。 序ノ口から横綱までの取り組みを延々やり続けては星取表を付ける、ただそれだけのことだったが、 それは本格的で完璧な作業であった。 幕内力士に至っては、決まり手も一番一番、記録していた。 力士一人ひとりの対戦成績も付けていた。 大学では野球部に入りながら、紙相撲同好会なるサークルを立ち上げた。 会員の一人ひとりがそれぞれに親方となり部屋を持っていた。 力士を作製すると新弟子となり、稽古をつける。 稽古というのは、紙やすりで作った土俵の上に足の部分を擦り付ける、摺り足をさせるのである。 土俵と紙力士を馴染ませるのが狙いで、これをすることで、紙力士には、本物と見紛うほどの粘りが生まれるのであった。 こうして鍛えられた新弟子が晴れて本土俵に上がる。 親方としての喜び、そのものを味わえる。 勝った負けたを繰返しながら出世すれば、関取にもなれるし、横綱にもなれるのだ。 「紙相撲なんて」と馬鹿にしていた者も、実際やらせてみると、かなりの確率でその面白さに嵌まってゆく。 力士が人間でなく紙、というだけで本物の相撲となんら変わらないシステムを道彦は作りあげた。 このサクセスストーリーの醍醐味はやった者にしかわからない。 その醍醐味に見事に嵌まった人物の一人が木村だということは、いうまでもない。 道彦、木村の卒業後、いまでもサークルとして存在しているのか知らないが、 昨今の相撲人気の低迷を鑑みるに消滅していてもやむ無しと感じている二人であった。 その人気の出なさそうな紙相撲を木村が小学生を相手にやろうとしている。 細かい星取表や記録を付けることは無理だろうが、紙相撲本来の楽しさを教えることは出来るかもしれない。 子供たちの道彦をみる瞳の輝きが眩しかった。 「先生、ここどうやって作るの」 「道彦先生、まわしは何色に塗ってもいいですか」 「先生、土俵がすぐに壊れちゃいます……」 道彦は、一人ひとりの質問や願いに丁寧に対応していた。 横をみると、木村と生徒が楽しそうに土俵を叩き合っている。 「なあ木村先生、これならなにも俺を呼ばなくてもお前で充分だったんじゃないのか」 道彦は、無邪気に子供と遊ぶ木村に声をかけた。 「いいや、これはやっぱり道彦先生じゃなきゃ」 木村は子供と向き合いながら道彦にいう。 「なら、最初からいえよ。変な電話しやがって、何事かと心配するじゃないか」 道彦も木村を見ず、子供に向き合ったままいった。 「最初からこの話し出してたら、道彦先生は来なかったろう、ねえ、ヒロシくん」 木村は子供に同意を求めておどけてみせると、こんどは道彦の方へ向き直り、ウィンクして舌を出してみせた。 「……そうかもな、ねえ、りかちゃん」 道彦も子供に笑顔を向けて、舌を出して応えた。 子供たちの笑顔をこんなにも間近でみるのは久しぶりの道彦だった。 何十年振りでする紙相撲はやっぱり楽しかった。 こども心が底から沸いてくるのがわかった。 「なあ木村先生、こんど大学に顔出してみるか。 いまはもうサークルもなくなってしまってるだろうけど、 万が一あったりしたら、それだけでなんか楽しくないか」 と言い終わったところで道彦は、子供たちに周りを取り囲まれた。 木村の方をみたが、木村もまた子供たちに取り囲まれていた。 道彦の声が届いたのかどうかわからない。 「まあ、どうでもいいことか……」 道彦は独りで行ってみようと思った。 子供たちの元気な声と笑顔だけで、きょうの道彦には充分だった。 〈了〉 |
即興超短篇
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「道彦が歩けば物語が生まれる」
きょうの道彦は何処へ。 【即興超短篇(24)】 『警笛』 星ひかる著 踏切の警報音が乾いた空気を切り裂く。 遮断棒はゆっくりと閉まってゆく。 道彦は閉ざされた踏切の前で待つことを嫌い、歩道橋を渡った。 普段ここは、朝夕のラッシュ時には開かずの踏切となることで、道彦の住む町では有名なところだった。 先を急ぐ人のための歩道橋が設置されている。 この日は土曜日で別段ラッシュがあるわけでもなかったから、 少し待てば電車は通り過ぎる。踏切は直ぐに開くはずだった。 だが道彦は歩道橋を行った。 踏切が開けば平坦な道を行けるのに、わざわざ数多くの階段を昇って歩道橋を行く物好きは、この日、道彦を除いて誰一人いなかった。 歩道橋の上に道彦一人がいた。真ん中辺りを過ぎるとき、それは線路の真上にさしかかるときだった。 けたたましい警笛音が鳴り響いた。きょうばかりは繰り返し発せられたように思う。 電車は、いま正に踏切内に滑り込む寸前のところにいた。 警笛音が道彦の鼓膜を殴り付けた。 視界は春の太陽光線のいたずらな乱射で見るもの総てが白く透き通ってみえた。 道彦の中では、辺りはしんと静まり返っていた。 形あるものはその総てが溶けてなくなるように、道彦の目に映るものは静寂の透明な中に歪んでみえた。 道彦は駅のホームに立っていた。 ここは遥か昔いた街、下北沢の狭い駅のホームだった。 道彦は証券会社の営業員だった。 信用取引の顧客の損金を受け取りに行くところだった。 時は一九九七年、金融ビッグバンと称して、大手銀行から証券会社から軒並倒産した時代。 その顧客林田は道彦の薦めもあって、銀行、証券会社の株式を次から次へと銘柄を変え空売り(からうり)をしていた。 始めは上手くいっていた。 僅かばかりの財産も築けた。 林田は味を占め、お金を更に注ぎ込んだ。 道彦も成績が上がる自分に酔いしれている。 いままでの五倍の量の資金で勝負した。 毎日が痺れた時間だった。 一秒たりとも油断がならない。 林田は一つの銀行に絞った。 道彦も了承した。 どうみても潰れる銀行だったから。 価格は六十円を切っていた。 林田と道彦は、そのタイミングを見計らい成り行きで売った。 百万株、空(から)で売った。 百万株の伝票を書く道彦の手は痺れて震えていた。 これだけの量となると機械での送信は出来なかった。 直接株式部に電話での注文だ。 「D銀行、売り、百万!」 道彦は、叫んだ。道彦は悦に入った。 一瞬、売り気配は付いたが直ぐに約定した。 売値は五十七円だった。 道彦は五十円は絶対に切る自信があった。 林田に直ぐに約定を伝えた。 五十一円になったら買い戻すよう申し入れて、また連絡する、と電話を切った。 その日のうちに株価は予想より早く五十円を切った。 「五十円切りました。買い戻します」 道彦が林田に電話でそう話すと、 「いや、もう一日待とうよ」 と林田はいった。 「ここは早めで勝負しましょう。数が数だけに上に転じるとヤバイですから!」 道彦は決済を渋る林田をなんとか促すのだが、当の林田は頑として譲らなかった。 「いやあ、大丈夫だよ。いいからいいから、明日にしよう」 結局、林田の言う通りにした。 その日の相場が引けた。 D銀行の終値は少し戻して、五十円だった。 道彦はその晩、会社仲間といつものように飲んで帰宅した。 家に着いたころには日付が変わっていた。 直ぐに寝床に就いたが眠れなかった。 胸騒ぎがした。 眠れない道彦は台所へいって水を一杯一気飲みした。 寝床に戻る途中のリビングにあるテレビを何気に点けた。 「経営が危ぶまれているD銀行に対し事実上、国が支援に乗り出しました。同時にF銀行との合併が検討されている模様です」 ブラウン管の中のニュースキャスターの声が道彦の耳に脳に虚しく響いた。 翌日、D銀行の株式は一億株の買いを集め、一日寄り付かぬままストップ高をした。 八十円で終わった。 一日で三千万円が吹っ飛んだ。 道彦は林田に、明日またストップ高なら追証になることを告げた。 追証、追加証拠金、その名の通り、損失分を追加で担保として入れなければならなかった。 林田はまだ冷静だった。 林田は明日には寄り付いてまた下がる、と思っている。 だがこのテコ入れは、公的資金の導入だ。 国が本気になったことを意味していた。 道彦はとんでもないことになった、と身体中の震えが止まらない。 翌日二日目も寄り付かぬままストップ高した。 百十円だ。 五十七円で売っている。 差し引き五十三円、五千三百万円の損失が生まれた。 その日の夜、林田が泣きついてきた。 だが道彦にはなにも出来ない。 林田の自宅を深夜に訪れた。 二人で失敗を振り返るが、なんの意味もないことだった。 道彦は頭を下げた。 自分が引き込んだことを悔いた。 林田が、泣いた。 道彦も涙した。 三日目もストップ高で終わった。 今度は値が付いたが林田の分は不出来だった。 終値はとうとう百六十円まできた。 この時点で損金が一億円を越えた。 たった六百万円を儲けに行って、いま一億円の損を生んでいる。 林田も、ケツの毛まで抜かれるんだな、と電話口で泣き笑いしていた。 道彦は笑えなかった。 四日目、D銀行の株式は、どうにか寄り付いた。 百六十八円だった。 林田の損金一億円が確定した。 林田に連絡をする。 「わかりました。なんとか用意しますが、出来るかどうか……」 林田は力なく応えた。 「道彦さんのせいじゃないから……」 林田の消え入りそうな声に道彦は涙が止まらなかった。 独り社内のトイレで泣いた。 道彦は、下北沢駅のホームに独り立っていた。 林田の損金を受け取りに行くところだった。 道彦は辛かった。 なんであのときもっと強く決済を薦められなかったのか、と自分を責めた。 電車を一本見送った。 「死んだら、いまより楽になるのかなあ」 動き出した電車の音に掻き消された道彦の声だった。 ホームにいる他人の幸せそうな笑顔が道彦の気持ちを更に憂鬱にさせる。 羨ましくもあり、憎くもあった。 次の電車は通過電車だった。 電車がホームに滑り込んでくる軽やかな線路の鳴く音がする。 道彦は、白線を跨いだ。 電車の警笛音が轟音となって道彦の鼓膜を殴り付ける。 何度も何度も……。 道彦は、歩道橋の上にいた。 電車が道彦のちょうど下を通過していた。 電車は最後の警笛音を発した。 道彦は生きている。 いいや、ここまで生きてこられた。 林田は生きていてくれてるだろうか。 林田の屈託ない笑顔がみえた気がした。 いまなら林田と会える気がする。 道彦の手には、空になった煙草のケースが握り潰されていた。 無くなった煙草を買いに行くところだった。 春の柔らかな日光と少しばかりの町の喧騒が戻った。 いまの道彦にはこれが一番、心地好かった。 歩道橋を下りて直ぐにあるコンビニへと足を急かした。 〈了〉 |
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「道彦が歩けば物語が生まれる」
きょうの道彦は何処へ……。 【即興超短篇(23)】 『ちんどん屋』 星ひかる著 道彦は神田にいた。 神田に長く住み商売している者からみれば、 「変わってしまった」 と云わしめるほど、この街は変貌を遂げている。 駅の高架工事から始まり都市計画が進められた。 道路拡張計画の煽りを受け、ガード下の一部の飲み屋街はいずれ消えてゆく運命にある。 道彦もたまに利用するがそこの老齢ママには、行くところがない、と顔を出す度に泣き言を聞かされる。 神田西口商店街にある行き着けの居酒屋ママの言葉を借りれば、 「ご近所さんが誰もいなくなった」 この言葉には、老舗が軒並み店を畳んでしまった一抹の寂しさを窺い知ることができる。 昔もいまも賑やかな夜の街神田ではある。 道彦のような新参者からみれば、神田は、まだまだ随所に昭和の香りを感じ取ることのできる街には違いないのだ。 ママはこうもいっていた。 「商店会も活気がなくなってねえ、集まればみんな愚痴ばかりなのよね。どうしたもんかねえ、なにかした方がいいかしらね」 飲みながらそんな話題をママに振られたが、道彦に妙案など生まれ出るはずもなく、話しはすぐに尽きたのを覚えている。 昼下がり、会社に戻る道すがら脇道を選んで歩く道彦がいた。 特段大きなビルも高い建物もない昔ながらの街並みをゆっくりと歩くのが、ただ好きなのだ。 路地から路地への角を曲がったときだった。 賑やかな太鼓と鐘のリズムと、それにあわせて奏でられるクラリネットのメロディーが、 間近に迫る春の日和の心地好い風とともに流れてきた。 ちんどん屋の一団に出くわした。 その音色は、街の喧騒を掻き消してくれるだけでなく、 道彦を始め、道行く人びとの心に脳天に響いているのは確かで、皆が皆、笑顔で一団を見送っていた。 道彦にしろ、ちんどん屋に出くわすのは、何処だったかの温泉地で見掛けたのが最後だった。 この大都会においては久しくみていないのは確かだった。 江戸の町娘に扮した一団の一人がチラシを配っていた。 パチンコ屋か何かの宣伝かとは思ったが、無理矢理笑顔を向けられると道彦も拒むことも出来ず受け取った。 「今夜待ってるわよ、道さん」 道彦は、名を呼ばれてぎょっとした。 町娘が手を振っていた。 それは居酒屋のママだった。 チラシには、商店街の店舗の紹介が刷られている。 道彦は、町娘に手を振り返し、しばらく呆然と立ち尽くしていると、 こんどは後ろから肩を叩かれた。 振り返った先にはこれは町娘と呼ぶには憚れるものの、 懸命の努力のあとが窺える、ガード下の老齢ママがいた。 「たまには顔見せなさい、道さん」 厚化粧がよく似合う町娘に、にっと笑顔をもらった。 みんな楽しそうにみえた。 ママ、やるなあ、いいや、よくぞやったなあ、と道彦も嬉しくなった。 道彦は一団の一番後ろからしばらく着いていった。 子供のころ、こんな感じでちんどん屋のあとに着いて、何処までも何処までも行ってしまった記憶が甦った。 のんびりとした昭和の一コマが懐かしくもある。 道彦は、自分も歳を取ったのだな、と笑った。 新しいものが出来れば古いものは消えてなくなるのもこれ摂理ではあろう。 ガード下がなくなるのも車社会の利便性を優先してのことだ。 なんでもかんでもスピードを追求し時間短縮を求める社会を道彦も良しとは思わない。 道彦は足を止めた。 クラリネットの音が遠ざかる。 町娘二人の踊るように跳ねる姿を見送った。 今夜は予定を返上しよう。 神田で、居酒屋のママのところと、ガード下のママの店、二軒の梯子酒確定だな、 と道彦は独り嬉しくなった。 暖かさを含んだ風が道彦の耳元を過ぎてゆく。 春はもうそこまで来ていた。 〈了〉 ※神田ガード下の店は、一部ですが、早ければ今年中にはなくなってしまいます。 狭いガード下にカウンターだけの小さな店が十軒近くが犇めくゾーンです。 (知る人ぞ知る!♪) 思いである方はお早めにお越しください。 ではね。 |
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「道彦が歩けば物語が始まる」
きょうの道彦は何処へ……。 【即興超短篇(22)】 『川底の権蔵』 星ひかる著 道彦は河原を歩いていた。 河原に来ると必ず思い出すことがある。 当時道彦は浪人二年目を迎えていた。 現役、一浪と大学受験に挑んだ道彦だったが、目指す大学という大学に毛嫌いされ、悉く門前払いにされた。 大学なんてクソ喰らえだ、行っても意味ない、とさえ思っていた。 だがいままた大学を目指し、二浪目の春を迎えていた。 それは、教育熱心な親に対する体裁を繕うためのものに過ぎなかった。 多摩川沿いにある図書館へ毎日のように通った。 勉強など一切した記憶がない。 図書館で借りた本を片手に多摩川の土手に座って読むのが日課であった。 天気の好い日には、土手に寝そべって日長過ごした。 道彦のいるところから少し離れた川縁には、もう定年を迎えたろう初老の男性が毎日のように釣りを楽しんでいた。 土手に寝そべっては本を読んだり、川縁の釣り人の様子を眺めたりする毎日が規則正しく時を刻み過ぎていった。 そんなある日、初老の釣り人の動きがいつもよりも増して大きいことに気付いた。 竿を高く上げたり斜めに引っ張ったりするのだが、大袈裟にみえるほどに激しかったのだ。 かなりの大物が架かったようだった。 遠くから眺めているだけの道彦の手にも力が入った。 十分もそうしていただろうか、釣り人の動きが鈍くなってきた。 それはあからさまに疲労からくるものとわかった。 道彦の身体は自然と動いた。 釣り人の隣に来た道彦は、 「お手伝いしましょう」 そういうと初老の釣り人の持っていた竿を引き継ぎ、やはり高く上げたり斜めに引っ張ったりした。 小さなリールを少しずつ巻き戻し、大物の魚を川縁に引き寄せる。 だが道彦の力でもなかなか引き寄せられない。 かなりの大物だ。 「権蔵かもしれん……」 初老の釣り人が呟いた。 「え? ゴンゾウ?」 道彦は釣り人の方をみる余裕もなく、声だけ発した。 「ああ、この辺りの川底の主だ。噂だけで、その姿をみたものはおらんが……」 初老の男性は、歳に似つかわしくない端正な顔をしていた。 顎に滴った汗を右手の甲で拭ってみせ、 「おい、青年、なんとしても権蔵の顔を拝むんじゃ、引き上げろ!」 道彦は掴んでいた竿に渾身の力を注ぎ高々と引き上げた。 道彦の勢いに負けた権蔵が、黒く濁った川面に、その巨体を跳ね上げた。 権蔵は宙を舞った。 初老の釣り人と道彦二人と対峙するようにこちらに体を捻った。 権蔵と目が合った。 目は光っていた。 二人を呑み込まんばかりの大口を開け放つ。 そして吠えた。 確かに道彦には権蔵の吠え声が聞こえた。 権蔵は川面に勢いよく叩き落ちていった。 道彦ら二人は、大きな水飛沫を浴びせられた。 権蔵が負けて飛び跳ねたのではなく、道彦が権蔵に嘲け笑われたのだった。 道彦は権蔵の飛び込んでいった川面に目をやった。 川は静かに流れているだけだった。 「みたか、いまの」 釣り人はゆっくりといった。 「ええ」 道彦は川縁に尻餅をついたままで動けなかった。 「吠えたな……」 「……ええ、確かに」 権蔵の吠え声は初老の釣り人にも聞こえていた。 その日から釣り人と道彦は友達になった。 毎日のように初老の釣り人友人の隣で本を読み耽っていた。 そんなある日のことだった。 「おい青年」 初老の友人は道彦をいつもそう呼んでいた。 「本ばかり読んで、勉強せんでええんか」 道彦の方は見ず、竿の先の鈴を見詰めていた。 「大学行っても意味ないし、どうでもいいんです」 道彦は初老の友人の端正な横顔に向かっていった。 「そうか、それも良かろう、それも、青年、お前の人生だ」 初老の友人はそういった切り、横顔を向け黙ったままだった。 太陽の光りに遮られて、その表情を読み取ることはできなかった。 道彦も前に向き直り、静かに流れる川面の音に神経を研ぎ澄ました。 その日を最後に初老の友人は、この川縁に来ることはなくなった。 道彦は、再び独りになった。 姿のみえなくなった初老の友人の腰掛けていた川縁に座って、川面の動きを目で追いかける日々が続いた。 本当に自分は、このままでいいのだろうか。 親への体裁とかなんとかいって、自分はただ甘えているだけじゃないのか。 道彦は権蔵の目の輝きを思い出した。 権蔵の発した吠え声と初老の友人がいった「お前の人生だ」という言葉が、 道彦の頭の中で共鳴していた。 道彦を独りにするために、あの初老の友人はここに来なくなったんだ、と道彦が気付いたとき、 あの嘲りの声と思っていた権蔵の吠え声は、励ましの声に変わった。 来年の春にはきっと、ここでまたあの初老の友人と笑顔で会うんだ、 静かに流れる川面に、姿のみえない川底の権蔵に向かって、 道彦は心の中で叫んだ。 何度も何度も叫んだ。 〈了〉 |
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きょうは猫の日なのですね。
バンくんとヒカルンが久しぶりに登場♪ もし良かったら、この書庫(即興超短篇)の第一話を読んでみてください。 【即興超短篇(21)】 『ぼくバンくん♪』 星ひかる著 ぼくバンくん、二十歳の猫なの。 もう足腰もよぼよぼになっちゃった。 おしっこに行くのも一苦労で、最近は、おばあちゃんに連れて行ってもらうことが多くなっちゃった。 さっきも行って来たんだけど、ぼくを連れて行くときのおばあちゃん、いつになく明るいのね。 これはひょっとして、ひょっとするなあ。 ヒカルンが来るんだ、とぼくにもわかったよ。 おばあちゃんは、いつもどこか寂しそうにしているんだ。 おじいちゃんは病気だから、その看病も大変みたいなの。 二人ともお年寄りだし、このぼくだってもうよぼよぼの年寄り猫だしね。 本当は自分のことだけで精一杯なはずだよね。 おっ、ヒカルンの足音が聞こえた。 おばあちゃんはまだ気が付いてないみたい。 ニャー! ぼくね、おばあちゃんの顔みて鳴いてあげたよ。 おばあちゃんがすぐに笑顔になったよ。 ヒカルンが来た。 ヒカルンはまたぼくの写真を撮っている。 こんなよぼよぼの姿、他人にみせられないから嫌だっていっているのに。 ぼくはきょうは炬燵でゆっくりしたいのに。 おじいちゃんをみたら、おじいちゃんまで笑ってるよ。 まあ、いいか。 きょうは久しぶりにヒカルンが来たんだしね。 ねえ、ヒカルン、ぼくを抱き上げてよ。 これはさすがヒカルン、いわなくてもちゃんと抱っこしてくれるんだ。 ああ、気持ちいいね。 ヒカルンの抱っこはなんでこんなに気持ちいいのかなあ。 二十年前の赤ちゃんだったころを思い出すんだ。 きょうもベランダに連れて行ってくれた。 もうすっかり暗くなってるね。 ヒカルンの好きな雲はみえないね。 代わりに少し大きな星がひとつ輝いてみえるね。 あと何回、こうしてヒカルンに抱っこしてもらえるかなあ。 あと何回、ベランダで雲と星をみることできるかなあ。 さっきまで寒くて堪らなかったのに、ヒカルンが来ると、 こんなにも家の中が暖かくなるんだから不思議だね。 炬燵なんかいらないね。 おばあちゃんもおじいちゃんもみんなベランダに出てきたよ。 きょうのお星様は一際大きくみえるね。 ぼやけてそうみえるのか。 なんでぼやけるんだろう。 うれしいのに。 ヒカルンはおばあちゃんの作ったご飯を美味しそうに食べて、 ご飯もおかわりまでしていたよ。 ヒカルンは立ち上がって、ぼくの頭を軽く触ると、そのまま帰っちゃった。 おじいちゃんはテレビを消しちゃった。 おばあちゃんは隣の部屋にまた戻って行っちゃった。 ヒカルンのいなくなった部屋も少し冷えて来ちゃったね。 ぼくはまた炬燵で寝るね。 ヒカルン、また来てね。 ぼく、きょうはもう眠るね。 まだふわふわしてるよ。 まるで抱っこされているみたいなんだ。 〈了〉 |




