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【即興超短篇(20)】 『宴のあと』 星ひかる著 道彦は目が覚めた。 時計は午後の三時を回っていた。 きょう仕事は休みだった。 頭はぼうっとしている。 また飲み過ぎてしまった。 まず鞄があるかどうかを確認する。 鞄はあった。 スーツはいつものところにハンガーにきちんと納まっている。 コートもマフラーと共にあった。 酔っ払って意識なく家に辿り着いて、服や鞄はきちんと脱いでいる。 靴下とワイシャツは、ベッドの足下に脱ぎ捨てられていた。 道彦は台所へ行って煙草に火を点けた。 紫煙が換気扇の回っていない台所に充満する。 誰も煙草の煙が臭いだの、煙いだのいうものがいない静かな家だった。 三口ほど吸って灰皿に火を押し潰した。 道彦は、最後に財布を確認する。 財布はスーツの内ポケットにあった。 中身を確認して道彦は目を伏せた。 またやってしまった。 一万円札が三枚あったはずだったが、財布には一万円札どころか千円札もなくなっていた。 昨晩は友人知人らと久しぶりに飲んだ。 楽しくて調子に乗った道彦は、二軒三軒とはしご酒をした。 二軒目の途中までの記憶はなんとなくあるが、それ以降の記憶は飛んでいる。 携帯電話にメールの着信があった。 友人の一人からだった。 「昨晩はお疲れ様。すっかりご馳走になりました。ありがとう。」 いつものことだが、いつもの癖で大盤振る舞いをしてしまったようだ。 さて、給料日までまだ一週間あるなあ、どうしようか、 道彦は考えた。 考えてみたとて、振る舞ったお金は戻ってはこない。 取り敢えず、スーツとコートのポケットをまさぐり整理をした。 レシートと共にくちゃくちゃになった五千円札が出てきた。 樋口一葉が笑っていた。 くちゃくちゃの五千円札を持ってまた台所で煙草に火を点けた。 この五千円でなんとかなるな、一先ずの急場しのげそうだ、 と道彦はこんどは、ゆっくりと煙草一本を吸いあげた。 風呂に入って道彦はスッキリした気分になっていた。 なにもかもを忘れてしまうくらい気分は晴れやかだった。 本日三本目の煙草に火を点けた。 時計は午後の五時を指していた。 せっかくの久しぶりの休みをまた無駄に寝て過ごしてしまった、 と道彦はきょう一日の自分の行動を後悔していた。 辺りはまだ明るかった。 道彦は外へ出た。 先ほど、コートのポケットから出てきた五千円札を財布に収めた。 樋口一葉が少し怒っていた。 いいや、諦めに近い表情だったかも知れない。 道彦は徐々に暮れ掛かる町の中へ消えて行った。 〈了〉 道彦にお金を持たすと碌なことに遣わない……。 ┐('〜`;)┌ というお話し……。 なんとなく昨日の私と似ています、がね(笑)。 気のせいでしょう、たぶん。 ではね。 |
即興超短篇
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【即興超短篇(19)】 『お江戸の道彦』 星ひかる著 道彦は日本橋を渡っていた。 その日本橋からは夜空が見渡せた。 満天の星空だった。 明らかに東京の星空とは違っていた。 はて、日本橋の上は高速道路が走っていて空は見えないはずなんだけど、と思ったが、 橋をよくみると、その橋は木で出来ていた。 道彦の頭の上にはちょんまげがあった。 服もどこかおかしい。 着流しの絣(かすり)だった。 変に思うものの道彦は意気揚々と夜のお江戸の町を歩いていた。 お江戸の道彦もやっぱり独りだった。 行く先は決まっているようで、勝手知ったるが如く、少しの迷いもなく歩く姿は現代の夜の道彦そのものだった。 汚れてぼろぼろになった暖簾を潜った。 「いらっしゃ〜い。道の旦那、きょうもご機嫌ねえ」 そこにはいつも通っている焼き鳥屋のママがいた。 ただ違うのは、頭には日本髪を結っている着物姿のママだったことだ。 道彦はおそらくそこがいつもの席なのだろう、店に入ると一直線に奥の席に着いていた。 なにもいわなくともお銚子が出てきた。 いつもはビールのはずなのに、やはりここは華のお江戸なのだった。 道彦はママに、いやおかみさんに、お酌してもらったお猪口を手に取ると、一気に喉に掻き込んだ。 「いやあ、このいっぺーがたまらんなあ」 普段そんな台詞など吐いたこともない道彦だったが、すらすらと粋なお江戸言葉が出る。 「まいど!」 と奥の厨房なのだろう、そこから顔を覗かせて道彦に声をかけたのは、 なんといつもの居酒屋のマスターだった。 「きょうはホタテが美味しいよ」 いつものマスターの、いいや、ご主人の言葉だった。 道彦は、はた、と考えた。 きょうはどうしてもらおうか。 「じゃあ、刺身にしてもらおか」 道彦がいうと、ご主人は、妙な物をみる目になって、 「おかしなこというね、こんなの刺身で喰えるわけないじゃない。きょうの道の旦那は、どうかしちゃってるねえ」 と笑ってホタテを持つ手を振っていた。 そこには乾燥したホタテの貝柱があった。 そうだった、ここはお江戸だった、と道彦も笑って返した。 「もう水で戻したのがあるから煮付けにするよ」 マスター、いいやご主人はそういって奥へ引っ込んだ。 着物姿のママ、いいやおかみが、最近、新撰組の連中が盛んに町をうろついて物騒になった、 というので、道彦も知ってる新撰組の名前を出したりしてみたが、 おかみにはそこまでの興味はないようだった。 庶民が政治に疎いのは、いつの時代も同じなのだ。 話題はいつの間にか、相撲の話しに移ったり歌舞伎の役者の話しになったりしていたが、 最後には、景気が良くならないの、とこぼしてみたりして、こと経済に関しては、 どの時代でも、そのときどきに生きる人たちにとっては悩みの種のようだ。 ご主人がホタテの煮付けを持って出てきた。 ホタテの貝柱に玉ねぎにこんにゃくに人参、色和えにさやえんどうが乗っかっていた。 肉じゃがのホタテ版のようだったが、これが、ホタテ貝柱のエキスがいい出汁になって旨かった。 おかみさんが私もいただくよ、とお銚子とぐい飲みを持ってきて、最後には、奥のご主人も呼んで、 さしずめ三人の宴会になった。 独りのお江戸の道彦だったが、やっぱりここでも楽しかった。 「おかみさん、勘定」 と道彦は帰り支度をした。 「はいはい、いつもすまないねえ。これよかったらもらって」 と手渡されたのは神田明神の白い御守りだった。 まだ真新しく、つい最近に商売繁盛を祈願してきたらしかった。 道彦は勘定を払おうと、着物の袖の下をまさぐるが、お金がない。 懐、着物の隙間という隙間を探すがお金が出てこない。 おかみも段々顔が険しくなってきているのがわかった。 さっき景気が悪くて困っていると話していたばかりで、食い逃げされたのでは一大事、といわんばかりに目尻がつり上がっていた。 道彦も冷や汗を掻く。 「あった!」 道彦は叫んだ。 おかみの顔もほころんだ。 道彦の顔もほころんだ。 道彦は、やっと見付け出した、くちゃくちゃになった一万円札を手渡した。 「道の旦那〜、冗談はよしてよ〜、なんだい! この紙切れは!」 ああ、ここはお江戸だった! 道彦は天を仰いだ。 奥からマスター、いいや、ご主人が血相を変えて出てきた。 道彦は、ハッとして、目が覚めた。 夢をみていたようだ。 ほっとした。 寝汗は酷かった。 いまみた夢を思い出してみた。 焼き鳥屋のママの着物姿、ホタテの煮付けを作ってくれた居酒屋のマスター、 あの二人、案外お似合いだったなあ、と道彦は思った。 二人とも連れ合いに先立たれている。 こんど仲を取り持ってみようと道彦は独り笑った。 力の入った手に、道彦は、なにか違和感を感じた。 みるとその手には、黒ずんでぼろぼろになった四角い布地のものが握りしめられていた。 なにか字が書いてある。 なんとか読み上げてみて、ぎょっとした。 それは、「商売繁盛神田明神」と読み取れた。 〈了〉 パロディーでした(笑)。 夢落ちなんで恥ずかしいですが。 (捕捉 完全なる夢落ちはいけないので、最後ぼかしました。 ただの夢だったのか、本当に江戸時代に行っていたのか……。) 少なからず、この私のブログを通して私の行動を知っている方には楽しめたでしょうかね♪ 時代考証とかなにもしてないです。 私には時代小説は書けないと思った。 結構、これはこれで書いている私は楽しんでましたが♪ ではね。 |
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【即興超短篇(18)】 『坂道』 星ひかる著 道彦は坂道に佇んでいた。 狭く細い坂道、長く果てしない坂道、人生とはそういう道を行くことなんだ、と思う。 登りもあれば下りもある、緩やかな傾斜もあれば、急で険しい坂道もある。 坂道を見下ろすことは、そこが当面の頂上であろうか。 前を向けば、先には更なる上があろうか。 頂上からの眺望はときに人を感動させることもあるが、道彦には思い当たらない。 寧ろ恐怖を感じるのだった。 苦労して懸命に坂道を登った。 行き着いた先が頂上と思って辺りを見渡すと、その先には更に険しい道のりが待っていた。 道彦はそれを目の当たりにして後退りしていた。 一歩、二歩と後退った。 下り坂は楽であった。 遂には、すいすいと行ける楽な道を率先して探すようになっていた。 下り坂は、どこまでも続いた。 より加速した。 勢いを持って運び出した足は、下りの傾斜に更なる勢いを増す。 傾斜が徐徐にきつくなってきた。 このままでは危険だ、と察知するのだったが、時既に遅かった。 運ぶ足はやがてもつれて転倒し、坂道を転げ落ちるが如く、道彦の人生もまた堕ちていった。 長く勤めた会社を退職し意気揚々と事業を立ち上げて、三年が経ったころだった。 無計画に進めた事業は、そのとき既に行き詰まりをみせ、大破し、道彦には借金だけが残った。 道彦の人生は正に墜ちるところまで墜ちた。 親にも兄弟にも、友人にすら会わす顔がなかった。 だが堕ちてみてわかったことがある。 人生も坂道も、どんなに険しくとも、登りの方が楽だったのだ。 一歩一歩着実に足さえ運んでいれば前へ進んで行ける。 疲れたなら立ち止まって休めば良かった。 ときどき後ろを振り返って、いま来た道を再確認することもできた。 道彦はそのことにやっと気付いた。 ゆっくりと着実に一歩前に進むことの大切さを知った。 坂を下ることは一見楽であるが、その傾斜次第では、 一度足を運び進めれば、その速度は加速し、制御不能になるのだった。 方向を変えてなんとか緩やかな傾斜の道を探すのだが、 制御不能のパニックに陥っているときに、周りをみる余裕などなかった。 そのまま永遠と転げ落ちてしまう道しか残されていなかった。 道彦は、転げ落ちて、倒れて、ようやく止まったのだ。 いいや、止まれたのだった。 止まって、その行く末の先をみると、更なる奈落が待っていた。 道彦は前に向き直った。 そこには、いま転げ落ちて来たばかりの険しい登り坂があった。 道彦は坂の先を見仰いでみた。 眩しかった。 頂上はみえない。 遥か遠くにあるのか、ひょっとしたらないのかもしれなかった。 道彦は後ろを振り返った。 そこは奈落ではあるが、心折れた道彦を誘うように、一見緩やかにみえる下り坂があった。 明らかに後ろを行く方が楽に思えた。 だがその先を行くことは、墜ちるところまで堕ちる人生を意味していた。 道彦はもう一度だけ、前に向き直った先にある眩しいばかりの頂上を見上げた。 光りの乱射でなにもみえないと思っていたが、心を落ち着かせて、目を凝らしてみると、そこには、 父と母の顔があった。 弟もいた。 友人の幾人かが笑顔で手を振っていた。 道彦は歯を喰い縛ってみせた。 道彦は、ゆっくりとではあったが、一歩前へ足を踏み出した。 それは人生をやり直すための一歩だった。 〈了〉 今回の短篇は、道彦を坂道に立たせて、なにを思っただろう。 一行で道彦を坂道の途中に立たせ、二行目を書いた時点で、ささー、と書き終えることができました。 ところが、読み直してみると、あれ? 辻褄が合わない……。 これじゃあ、ダメだ、とまた、一から書き直しました。 道彦の思いが目まぐるしく変わるのでした。 通常、一発でだいたい書き上げられるのですが、初めての難産となりました。 まだ思いはたくさんありますね。 また語りますね。 いいや、道彦に語らせますね(笑)。 ではね。 |
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【即興超短篇(17)】 『喫茶店の怪』 星ひかる著 仕事の合間を見付けては、道彦はよく喫茶店を利用している。 混雑時は極力避けて、午前の早い時間だったり昼下がりだったりする。 静かに独りの時間を過ごすのが好きだった。 でもときに、大声で話す二人組がいたりするのは致し方ないと諦めているが、 許せないと感じるのは、携帯電話で一人大声をあげている輩に出くわしたときだ。 二人でする会話はさほど大声でなければなんとも思わないのに、 一人電話でする大声は何故にこんなにも人を不快な気分にさせるのだろうか。 一方通行の言葉しか聞けないからか。 それはまるで、答えのない計算式を解いているような如く、もどかしい気分にさせるものなのかも知れない。 きょうも道彦はいつもの通り喫茶店で、ゆったりとした時間を過ごしていた。 それは、ほんの数分だけであったが。 道彦の平穏な時間を切り裂く大声が店内に鳴り響いた。 「ああ! どうも牛蜜物産の川島です〜! 竹川様、いまお話し大丈夫ですか!」 店内に道彦を除いて他に三人いたが、その誰もが牛蜜物産の川島なる某の方をみた。 不快を露にした表情であるのは当然のことか。 道彦とてやはり同じ気持ちでいた。 道彦は鞄から手帳型ノートを取り出した。 ノートに、「牛蜜物産」「川島」と書き、その下に「竹川」と矢印で結んだ。 「竹川さん、先日はどうもありがとうございました。うちの社長の梅沢も喜んでおりました。 ところでこの間、お話し頂いた『ワイの串焼き』の件、どうなりそうですか? ええ、全国チェーン展開計画の件です。なんとかうちで全面的にやらせて頂けないでしょうか」 『ワイの串焼き』というのは、道彦は入ったことはなかったが、都内に何ヵ所かある居酒屋のことだった。 串一本が五十円から百円で、その低価格に考えられないボリュームが顧客に受けていた。 串焼き屋というとオヤジの店というイメージだが、そこの店内は明るく清潔感もあるとかで女性にも評判だった。 女性が集まる店にはこれ必然、男性も集まるわけで、『ワイの串焼き』は、この不景気と酒飲み人口減少の時代、 異例中の異例で、いまや飛ぶ鳥落とす勢いを持っていた。 そこもいよいよ全国展開しようとしているのか、と道彦は思った。 一度行っておかねばならぬな、とも思った。 ふむふむ、道彦は再びノートに書き込んだ。 「ワイの串焼き、全国展開へ」 牛蜜物産の川島は、ワイの串焼きの全国チェーン展開に何らかの形で入り込みたく、 ワイの串焼きの幹部であろう竹川に営業をかけている、牛蜜物産の社長の名は梅沢で、少し前にその梅沢と共に接待で飲みに行ったかなんかだろう。 「こんなところか……」 と、道彦はペンを煙草に持ち変えて火を点けた。 いま東京において、外で煙草を吸えるところも、ほぼなくなった。 道彦に限らず煙草吸いの多くは、自分の行く先々のテリトリーのどこに喫煙所があるか、ということを把握してないとならなくなった。 やっと見付けた喫煙所も久方ぶりに訪れるてみると撤去されていた、なんてこともしばしばで、 煙草吸いの人間にはなんとも生きづらい世の中になった。 そういう事情もあってだろう、道彦が喫茶店をよく利用するようになったのは。 このいろいろな人間が集まる喫茶店では時折不思議な出来事に遭遇もし、それはそれでひとつの人間模様が観られたりして面白くもあった。 「もしうちに決めてくだされば、全部の厨房器具は他社より三割はお安くできます。保証期間も通常五年をその倍の十年で約束できます!」 牛蜜物産の川島は言い切っていた。 えらい景気のいいこといっているが大丈夫か? と道彦の方が心配になった。 とはいえ道彦はすかさずノートの「牛蜜物産川島」と書かれた横に、「厨房器具営業」と付け加えた。 更に「価格は交渉次第三割引き」と記した。 「ありがとうございます! 山下様にご連絡すればよろしいのですね! ありがとうございます」 どうやら、牛蜜物産の厨房器具販売営業の川島は、ワイの串焼きの全国展開推進の長である山下なる人物に引き合わせてもらえる算段を取り付けたようだ。 大きな仕事が舞い込みそうになり、川島は笑顔になっていた。 道彦を含め他の三人の客は、眉間に皺を寄せていたのは、必然だったろうか。 「ではすみません、連絡先を……、はい、繰り返します。090の2××5の6○○3ですね、ありがとうございました」 川島は電話を切った。 三人の客の眉間の皺もなくなっているようにみえた。 道彦は、山下と書いた横に川島の叫んだ電話番号を書き入れた。 道彦は改めていままで書き込んできたノートを眺めた。 結構な組織図が出来上がったな、と思った。 また煙草に火を点けた。 せっかくお金出して入った喫茶店だ。 一本の煙草では勿体ないとも思う。 貧乏性だな、と道彦は独り笑った。 さて、このノートどうするか。 いま書いたページをノートを痛めないようにそっと千切った。 まあ、いまの自分には必要のない情報だな、と二つに折り畳んだ。 道彦は席を立った。 後ろを振り返って、忘れ物がないか、さっきまで腰掛けていた席を確認した。 いつもの癖だった。 そこには、飲み干したコーヒーカップとその横に、 先ほど折り畳んだノートの切れ端があった。 貧乏性の道彦にもその切れ端は捨て難いとも思わない、どうでもよいものだった。 道彦が背を向けた瞬間、その切れ端がフワッと浮き上がり、窓際のテーブルと壁の隙間に滑り落ちて行ったが、 そのことを道彦は知らない。 牛蜜物産の川島はまた携帯電話を持ち、どこかに連絡しようとしている。 道彦は既に店の外に出ていた。 川島の声が外に漏れ聴こえていた。 〈了〉 |
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【即興超短篇(16)】 『浅草寺と月から』 星ひかる著 道彦は二十年振りに浅草寺を訪れていた。 冬の夕暮れどきだった。 二十年前に訪れたときは大晦日の夜、年明けをここで迎えた。 お正月の初詣ででもあり物凄い人だかりでゆっくりとすることも出来ず、行列の波に委せてお参りをするだけで、周りに目を配る暇などなかったと思う。 きょうは二月ということもあり、人出もさほど無かろうと、ゆっくりまったりこの都会のお寺を堪能しようと足を運んだのだった。 陽も暮れかかるころ、仲見世通りを進んで行くと、ライトアップされ一際輝く五重の塔が目に飛び込んできた。 二十年前にもこんな華やかな光景であったか道彦には思い出せないでいた。 空に目をやると満月も近いのだろうか、それとももう過ぎたのだろうか、丸いお月様がぽっかりと浮かんでいた。 その先にはこれは二十年前には絶対になかったと言い切れる東京スカイツリーが聳え立っていた。 古(いにしえ)と新(あらた)の調和に感慨深い気分を味わうことの出来る、この一時を道彦は独り楽しんでいた。 二十年前には仲間大勢とやって来た。 少しお酒も入り賑やかに過ごした。 二十年の月日を経て道彦は独りだった。 賑やかさの思い出は誰と来た、という記憶は忘れずに残っているが、 そのときなにを想いなにを考えていたのかは、その思い出の中にはない。 独りで訪れたところは、いつのときも自分がどんな心境でなにを想いなにを考えその場所に立っていたのか、 一挙手一投足の隅々までもが総て心に沁み残っている。 かつて道後温泉に独りで出掛けたときもまた同じような想いで、道彦はいたのだった。 仕事に行き詰まり、人に疲れていた。 夏目漱石が書き残した闊達な坊っちゃんに無性に会いたくなったからだった。 道彦はそのとき坊っちゃんに会えたのだろうか。 そのときは坊っちゃんが泳いだ風呂にも浸かり、坊っちゃんが歩いた町並みを歩いて、会えた気になっていたが、 いまにしてみるとまだ会えていないのではないかと感じていた。 四国の地へ足を踏み入れたのは後にも先にもそれが最初で最後だった。 浅草寺に来て何故に道後温泉のことを思い出したのかは道彦自身にもわからなかったが、 あのときもきょうと同じように月が輝いていたからなのかも知れない。 二十一世紀の道後温泉はどうなっているだろうか。 あのときと同じに月は輝いていてくれているだろうか。 道彦は無性にまた道後の町に足を運びたくなった。 あのときと同じ月をみに行こうと思った。 〈了〉 |




