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【即興超短篇(15)】 『我以外皆我師』 星ひかる著 道彦がある日、一見で入った居酒屋のトイレを拝借したときだった。 否応もなく一枚の貼り紙に目が止まった。 「我以外 皆師なり。」 読み人もなにも書かれていないが、宮本武蔵などを書いた吉川英治氏の座右の銘と思われた。 その日以来道彦はこの言葉が頭から離れなくなる。 ことあるごとに、この言葉になぞらえて物事をみる癖がついた。 例えば、道彦が駅のホームを歩いていると、前方からスマホをいじりながら歩いて来る人とすれ違う。 道彦は前を向いていたから避けてやることが出来たが、すれ違った先の道彦の後ろには、 これまたスマホをいじりながら歩いている人がおり、二人は見事衝突していた。 一人は鼻っ柱に相手の頭が当たったようで、鼻血が止まらず血まみれになっていた。 頭から突っ込んだ男は、よろけながらも態勢を立て直すと逃げだしていた。 ちょうど道彦の横を走り過ぎようとするところだった。 道彦の腕が走り去る男の後ろに振り上げた腕に上手いこと絡んだ。 それでも尚逃げようとする男を道彦は自分の懐に引き寄せて、絡んでいた腕を男の後ろ手にし押し潰した。 男は観念したようで、うっつぷしたまま動かなくなった。 ほどなくして駅員が現れ事情を話し引き渡した。 事故でなく事件となってしまった。 道彦もたまにスマホをいじりながら歩いてしまうこともあった。 「我以外、皆師なり。」 この事件に出くわして以来、歩きスマホはやらないようにしようと思った。 それから数日経ったある日の夜、道彦は久しぶりの連休がとれて、実家へ帰宅途中の電車に乗っていた。 少しほろ酔い加減の見知らぬ男二人組が道彦の立っている横に並んで話しをしていた。 始めから険悪な雰囲気の二人であったが、急に一人の男が声を荒げた。 「おめえはよ! 生意気なんだよ!」 「すみません!」 「あとでぶっ飛ばしてやるからな!」 そういうと先輩風吹かしている男がもう一方の男の胸ぐらを掴んでいた。 道彦はじっとみていた。 胸ぐらを掴んでいる男の目をじっとみた。 こんどは後輩らしき男の目をみたが、余程怖いのかなにも抵抗出来ないで怯えているばかりだった。 酔っぱらいの悪ふざけを通り越している、と道彦は感じた。 道彦は、胸ぐらを掴んでいる先輩風吹かす男の腕を掴んで、 「その辺でやめておけ。みっともないぞ」 とだけいって、その男の目を睨んだ。 余程、道彦の目が怖かったのか、その男は、おずおずとちょうど停車した駅で後輩を残し一人降りていった。 ときに人は弱い者に狂暴になる。 自分の弱さを隠すためにより弱い者を探してまでも自分の方が強いことを誇示したくなるようだ。 改めてそのみっともなさが身に染みた光景であった。 「我以外、皆師なり。」 その日の夜、道彦は夢をみた。 薄明かりの中に誰かが立っている。 武士らしいぼやけた人影だった。 夢の中の道彦は目を細めて、そのぼやけた人影に見入った。 宮本武蔵のようだった。 道彦にはそうみえた。 彼の口元が動くが、なにをいっているのか聞き取れぬまま、ふっと消えた。 ここで道彦は目が覚めた。 魚を焼く、いい匂いがしてきた。 その日道彦は実家に泊まっていたのだった。 ゆっくり起きた道彦は、久しぶりに母親の手料理で、遅めの朝食を摂った。 鯵のひらきと味噌汁とお新香にお茶碗一杯の白ご飯だ。 まるで精進料理のようだな、と思いながらも、母の手料理だ、ありがたく頂く。 今朝みた夢の宮本武蔵を思い出していた。 彼もこんな朝食を食べていただろうか、といまの自分と宮本武蔵を重ね比べてみて、 なんとも神秘的な気持ちになった。 食事も半ばに差し掛かったときだった。 この季節には珍しい蝿が一匹、道彦の食卓を旋回している。 「煩わしいのう……」 道彦は、一言そういうとじっと蝿の旋回するのを目で追った。 そして、しばし目を瞑り蝿の羽音を心の中で追った。 蝿が道彦の目の前を通過する、と心眼が蝿の姿を捉えた。 道彦は持っていた箸を心眼にみた蝿目掛けて突き刺した。 「よし!」 道彦は独り呟いた。 ゆっくり目を開けた。 箸の先に視線を向けた。 だが蝿の姿はなかった。 道彦の刺し投げた箸は、ただ空を切っただけだった。 蝿は道彦の目の前を八の字を書いて、そのまま開いていた窓から外へと飛んでいった。 道彦は宮本武蔵にはなれなかった。 「くくくくっ……」 道彦は肩を小刻みに揺らして笑った。 「あんたどげんしたと? 気持ち悪かね」 母の声だった。 母の道彦をみる歪んだ顔がおかしかった。 道彦は夢の中の宮本武蔵がなにをいおうとしているのかわかった。 「無茶をするでない!」 といっていたのだ。 自分は宮本武蔵ではない。 他人様に余り介入してはいけないよな、と思いながらも、 ときに道彦はいつも余計なことに首を突っ込んでしまっていた。 この母を悲しませてはいけないよな、と宮本武蔵は自分にいっているのだと、道彦は思った。 「はよ、ご飯食べんね! 片付かなくていけないよ」 母の自分を叱る、いつもの元気な声が、いまの道彦には心地好かった。 道彦は、最後の味噌汁を飲み干した。 少し味の濃い、いつもの母の味だった。 〈了〉 |
即興超短篇
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年末年始、お互い忙しくしていてなかなか会えなかった道彦と、
先日、ようやく会うことが叶った。 二人だけの新年会と称して、神田で落ち合い、酒を酌み交わした。 彼からまたいろいろと話を聞けたので、暫くはまた語れる。 今回ご紹介するのは、またいつぞやの居酒屋での話しである。 私のこの短篇を最初から読んでらっしゃらない方には、是非とも、 以前ここで綴ったことのある即興超短篇(4)をお読み頂いて、 これから綴ることを読んで頂きたい。 「ほたて」の話しである。 気が付けば、本当に久しぶりの短篇です。 では、どうぞ。 【即興超短篇(14)】 『ほたて』 星ひかる著 道彦は、いつもの居酒屋にいた。 いつものカウンターのいつもの席に着いた。 ここへ来るときの道彦は、大概が、その日の最初の客であった。 「へい、いらっしゃい」 マスターの張りのある声を聞くと安心する。 なにもいわなくてもビールが出てくるのも嬉しかったりする。 道彦は、一口にジョッキの半分を飲んだ。 きょうもビールが美味しい。 体調が良いことを確認する瞬間だ。 そんな道彦の姿をマスターも微笑み返してみてくれる。 ここに来ると心が晴れやかになるのは、このマスターが居てこそなんだ、 ということに、今更ながら道彦は気付いた。 「きょうは、ほたてが美味しいよ」 マスターは先ほど道彦に向けた笑みそのままにいった。 「そうねえ、じゃあ、きょうは刺身にして」 道彦とすれば、きょうは、ではなく、 「きょうこそ」の思いが強かったけれど、そのことをマスターは知らない。 「はいよ」 といったマスターは、道彦に背を向け、仕事人となった。 マスターが倒れた、と聞いたのが、つい半年前のことだ。 道彦は毎日のように、マスターの店の前を通っていた。 木曜日が定休日だったが、ほとんど休んだところをみたことがなかった。 それが一日休み、二日休み、ついには一週間、店のシャッターが閉まったままになった。 心配の種が芽吹いて花が咲きそうになったころ、ようやく店に灯りが戻った。 道彦が直ぐに店に飛び込んだのはいうまでもない。 「マスター、長い間、どうしちゃったの? 旅行にでも行ってたの?」 と席に着くなり尋ねた。 「倒れちゃった。脳梗塞になっちゃった」 とマスターは少し呂律の回らぬ口調で、顔半分が僅かに硬直をみせて、そういった。 道彦が店に入ってから、一人二人と、ぞくぞく客人が現れた。 気が付けは、カウンター席は満席になっていた。 「少しずつリハビリのつもりで店開けたんだけど、こんなにいっぱい来てくれて嬉しいです」 マスターは目に泪を溜めてしばらく上を向いた切りになった。 その日は、知っている客人も知らない客人も、みんな心が一つになった気がした。 「マスター、いままで頑張り過ぎたんだよ」 と誰からともなく声が漏れた。 みんな頷いていた。 それからは木曜日はきちんと休むようになった。 つい半年前のことなのに、いまのマスターの仕事人としての背中、顔つきをみていると、 遠い昔のような気がするな、と道彦は改めて、マスターの背中を見詰めていた。 「はい、ほたての刺身できたよ」 マスターは笑顔で道彦に差し出した。 道彦は、念願のほたての刺身を前にして思った。 そうか、ただ、マスターがいつもの笑顔で、いつまでも仕事人でいてくれれば、それだけで良かったのだ、と。 道彦がビールのお代わりをお願いすると同時に、独りの客人が入ってきた。 「いらっしゃい」 マスターの張りのある声が店に響いた。 道彦は刺身を一つ摘まみ口に運んだ。 やっぱり旨かった。 刺身にして正解だった、と独りほくそ笑んだ。 「きょうはほたてが美味しいよ」 マスターは、新たに来た客人をみていった。 「そうだなあ、じゃあ……、炙って」 はいよ、とマスターはまた背を向け仕事人になった。 道彦はまたマスターの背中を見詰めた。 やっぱり、炙ったほたてもいいなあ、と思った。 〈了〉 |
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『独りの冬』 星ひかる 12月を目前にしては暖かな夜、道彦は新宿にいた。 南口の開発が進む中、第一段階を終えた代々木駅まで続く歩道を歩いていた。 新宿南口はこれから第二、第三段階と開発が進められるようで、道彦のいた歩道の隣では大々的な工事がなされている。 ここ最近の東京の高層ビルラッシュは未だ終わりをみせない。 こんなにも棘にまみれる東京は、一体どこへ向かっているのだろうか。 道彦が感慨に耽ってみたとて、東京の街はどこもクリスマスモードに入っている。 ここ新宿南口の開発地区も数々のイルミネーションを施している。 数年前の電力不足はとうに忘れられた過去のものとなっていた。 道彦の前には数組のカップルが互いに寄り添い腕を組み歩いていた。 道彦はきょうも独りだった。 いつの頃からだろう、道彦にはクリスマスがやってこなくなった。 仕事を無理やり入れて、この誰もが楽しむはずのイベントを自ら遠ざけてもいた。 今年も仕事かな、と道彦は、前をゆくカップルの背中を見ながら思った。 溜め息をついた。 十年になるのか。 それまでの道彦は結婚していた。 子供はなかったが、かみさんと二人で互いの時間を持ちつつ、楽しく過ごしていた。 彼女は、クリスマスが大好きで、毎年誰もがそうしていたであろう、 いつもより少し豪華な食事をしたり、少しだけ贅沢に、とシティーホテルに泊まったりしていた。 道彦も彼女の喜ぶ顔をみるのが楽しみで、率先して店を予約したり、オープンして間もないホテルを取ったりしていた。 十年前のある日の日曜日だった。 二人どこにも行く予定のない日曜日の昼下がり、 「ちょっとそこまで買い物してくるね」 彼女は、そういったきり、二度と道彦の前には現れなかった。 かみさんは出ていった。 その日の夜、道彦は案外冷静でいた。 そんな予感もあったのかもしれない。 長い間夫婦をやっていると互いの考えていることは大方わかるものだ。 携帯電話にも掛けなかった。 道彦にはこういう日が遅かれ早かれ来ることがわかっていたし、きょうがたまたまその日だったのだ、と思っていた。 二人は夫婦になって八年、喧嘩をしたことがなかった。 端からは一見、仲の良い夫婦にみえただろう。 誕生日、結婚記念日、クリスマスに正月と、二人はいつも一緒だった。 彼女が出てゆく一週間前が結婚記念日で、新宿のシティーホテルに泊まったばかりだった。 一泊五万円を超える部屋だ。 彼女は大層喜んだがそれは一瞬だった。 道彦は彼女の笑顔の後ろに隠れている、もうひとつの顔を見逃さなかった。 黒い影をみた。 彼女に、その黒い影があることには、薄々感じていた。 きょうという日がやってくる覚悟を決めた瞬間であった。 玄関の白い靴箱の上に一通の茶封筒を見つけた。 彼女からの手紙が入っていた。 見慣れた彼女の字で、 「しばらく別居してください。独りの時間をください」 とだけ書かれていた。 彼女とはそのまま別居した。 あとは時間の問題だった。 結局は、その二年後、彼女の方から別れて欲しい、と連絡が入り、 道彦は送られてきた離婚届に判を押して、送り返しただけだった。 あっけないものだ。 別れた原因はいくつもあったが、直接の原因は道彦にある。 別居後、直ぐに別れた方がいいと思っていたが、それが出来ずに二年も続いていたのは、 道彦は特にそうだったが、まだ相手のことが好きであったからだった。 別れを自分の口から言い出せなかった。 道彦は、彼女が完全に自分の前からいなくなるという現実から逃げていたのかもしれなかった。 自分はなんて卑怯者なんだ、と思った。 愛して止まなかった彼女の口から別れをいわせてしまったことは、 生涯、己の汚点として心に残しておくことにした。 いいや、残しておくことにしたのではなく、消えることのない傷として心に刻まれたのだった。 道彦がいつも独りでいることと切り離せない事実が、ここにあった。 道彦は、光り輝く電飾の奥にある木肌に触れてみた。 冷たかった。 光りの奥には影があった。 道彦は彼女の表面の明るさに安堵するばかりで、その裏側にある本心と向き合うことをしなかったのだ。 電飾の木の向こう側に、空高く聳えるビルが小さな光りの中に浮かんでいた。 道彦が、別れた彼女と最後に泊まったホテルだった。 「そうだったな。きょうは、本当なら彼女との結婚記念日だったな」 道彦は呟いた。 この時期になると必ずここに来てしまう自分を笑った。 きっと彼女は自分とは別々の人生で幸せに暮らしていると信じていた。 そうあって欲しいと願った。 彼女が幸せになった事実をみないかぎり、自分はいつまでも独りでいる覚悟を持っていた。 道彦の横をカップルが通りすぎた。 幸せそのものの二人だった。 少なくともいまの道彦にはそう映った。 きょうのイルミネーションは、やけに眩しくて、ぼんやりしているな、と道彦は夜空を見上げた。 〈了〉 ※当初、タイトルを「恋人たちの季節」として話しを進めた。 恋人たちを羨ましく思う道彦、と話しは進むのだったが……。 しかし、やはり私の中の道彦は、そうはさせなかった。 書いてゆくうちに、きょうという日が、本編でも書かれているとおり、 私の以前の結婚記念日だ、と思い出すのだった。 断っておくと、一部の人には恐らく、 道彦=星ひかる と思っている方がいるかもしれないが、決してそうではない。 私と道彦は、誰よりも近くにいる存在である、というだけである(笑)。 笑ってしまったが、本当だ。 筋書き通りにいかない道彦の気持ちは、近い存在の私もハラハラさせるのである。 話しを元に戻すと、きょうという日は、やはり私には忘れられない記念日なのだった。 偶然にもその日に道彦が語ったことだった……。 きょうは、暖かな一日だった。 それだけでもなんだか嬉しかった。 ではね。 |
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『水と木と雨音と』 星ひかる 皇居のお堀をみていると何故か落ち着く道彦だった。 何時間でもみていられた。 でも最近は、お堀と道を挟んだ反対側には、新しいビルが乱立する傾向にあって、 以前ほどの静観さはない。 ただ水と木に囲まれた皇居は、本堂の姿こそみえないが、江戸の歴史を醸し出しているに違いない。 道彦には匂いしか感じることができなかった。 江戸の長きに亘る歴史を守ってきたのも、このお堀だったろう。 そう簡単には敵の襲来を自由にはさせない威厳のようなものを道彦は、ここに来るたびに思った。 しばらくただ水と木とまた水を視界に入れて歩いた。 空を見上げると薄黒い雲が一面を覆っていた。 もう少し天気が好ければ気持ちの好い散歩になったのに、と思いながらも、 しばし仕事時間を忘れることにしようと道彦は思った。 お堀と反対側にある、皇居をそれこそ襲来するかのように乱立するビルに目をやれば、現実に引き戻されてしまうだけだ。 このビルの群れを見るにつけ、道彦は東京にばかりこんなにビルをおっ建ててどうなるというのだろう、といつも思う。 政治には全く興味がなかったが、東京に一極集中するいまの政治経済の動きには違和感を感じないわけではなかった。 もう今年もあと僅かだった。 そう感じて眺める皇居のお堀は、どこか哀愁漂う。 まあ、考えようによっては、この大きなビルも、お堀に出来ない上からの襲来をかわす盾となり、一役買っているのだろうか、 と無理矢理に思考を修正してみるが、それは違うな、と道彦は独り笑った。 独りで歩くといろんな思考に巡り会う。 道彦は、一日に一度は独りの時間を作るようにしていた。 みんなでワイワイやるのもいいが、考えるときはやはり独りに限る、と独り合点してみせた。 いつも独りの道彦が思うことだった。 薄黒い雲からとうとう雨が落ちてきた。 あと少しで目的の地に着く。 さっきから疎ましく思っていた乱立するビル郡のひとつが、道彦の目指す場所に違いなかった。 結局、道彦も一極集中の東京に依存していた。 誰しもそうなのだろう。 理想と現実は違うのだった。 道彦のかけている眼鏡にも雨の水滴がかかるほどに降ってきた。 先を急ぎ始めた道彦の前を着物姿の女性が傘を揺らしながら歩いて向かってきていた。 この都会で昼間から着物姿の女性とは珍しいな、と道彦が思って眺めていると、 その女性と目が合ってしまった。 道彦は、何故か気恥ずかしさを覚えた。 「どうぞ、傘を……」 その着物姿の女性が声を発した。 「あ、いいえ、あ、あのすぐそこまでですから……」 声を掛けられた道彦の方がびっくりして、そう返すのがやっとで、その場を過ぎた。 「いいえ、うちこそ、すぐそこですから、どうぞ」 過ぎ行こうとする道彦を制して、その女性は、しかと目を見開き、目を合わせていうのだった。 道彦は、ただ呆然と傘を受け取るしかなかった。 受け取った傘を見詰めた。 いまどき珍しい和紙で出来た傘だった。 道彦には高価にみえた。 「どうもありがとう……」 お礼をいおうと振り返って着物姿の女性を探すが、 突然どしゃ降りになった雨に掻き消されてか、女性の姿はどこにもなかった。 それにしても奇特な方に出会ったもんだ、と道彦はまた傘を眺めた。 強い雨が傘に打ち付ける音が心地好かった。 もう一度、振り返った。 彼女はうちが近い、といっていたが、そこにはお堀と疎ましいビル郡しかなかった。 それ以外にあるとすれば、道彦の少し後ろに皇居へと続く小さな橋がお堀に架かっているだけだった。 彼女こそ濡れなかっただろうか、と道彦は、降り落ちてくる雨足を追いかけて、少し心配になった。 傘に打ち付ける音と、お堀の水に降り注ぐ雨音と、 ときどき木葉を滑り落ちる水音が、絶妙なリズムを奏でてくれた。 道彦は、ゆっくりとビルの中に消えていった。 〈了〉 ※今回の物語は、早く出来上がった。 初め、なにも考え及ばずにいた。 書き始めたら、あっという間に出来上がっていた。 いままでの最短時間かもしれない。 昨日のここでも書かせてもらった出来事を加味してみた。 道彦は、またどこかに出掛けてゆきます。 ちなみに、明日はゴルフらしいですよ。 ではね。 |
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前回書きました『じゃんじゃん横丁』ですが、冒頭の二行目、 「ただ通天閣界隈が懐かしかったからではない。」 この節で、私は、この表現のほかに、もうひとつ思った表現があります。 それは、大阪を懐かしむ表現でした。 真逆の意味をもつ表現です。 もしこの表現で物語がスタートしていたら、全然違う話しになっていたことでしょう。 どちらにするか迷ったあげく、私は前回、懐かしいのでは「ない」方を選び、 そして、道彦が大阪に来た必然を書いて行くうちにマスターのことを思い出し、あの通りの物語になりました。 それでは、もうひとつの表現にしていたら、どんな物語になるのか、なっていたのか、 それをこれから書いてみたいと思います。 私にもいまの段階では、全く想像がつきません。 というのも、私は小説を書く際、プロットを作成することはありません。 物語の始まりがふと頭に浮かび、冒頭を書き出します。 あとは、主人公の人生に沿って、それこそ行き当たりばったりに書いています。 破綻が生じるとまた頭に戻って読み直し、布石が打ってある部分を見付けられれば、更に進んでいきます。 こんなものを溜め込んでいると、いくつかは繋がって来るもので、 短篇が中篇、長篇となるのです。 小説を書く上では、プロットを書かない手法は、あまり望ましくない方法としていわれております故、ご注意ください。 人生は日々、選択の連続ですよね。 ああしていれば、こうしていれば……。 私の人生は、失敗の連続でした。 でもそれは、自分で判断した結果の選択であって、それもまた紛れもなく、私の人生なのです。 道彦は、どんな人生を歩いていくのでしょうか。 こういうのも即興ならではの楽しみなのかな、と最近思います。 私の小説の書き方は、プロットを作らない、と先ほど申しましたが、 それは、私の人生そのものなのです。 正に、行き当たりばったりなのでした。 最近は、その生き方を楽しむようにしております。 『もうひとつのじゃんじゃん横丁』 星ひかる 道彦は、通天閣に来ていた。 ここは道彦にとって、大阪に来た、と思わせてくれる唯一の場所だった。 なんば、心斎橋、梅田の新地と、大阪の繁華街は挙げればきりはないが、 道彦には、通天閣界隈こそが、大阪の原点に思えてならなかった。 なんばや心斎橋は、余りにも有名なため、観光地然とし過ぎているようにしか思えなかった。 東京とさほど変わらないとも思っている。 それに引き換え、通天閣というかじゃんじゃん横丁に入れば、そこは正に景色から空気から大阪そのもののような気が、道彦にはするのだった。 大阪のおっちゃんも、おばちゃんも、ここにいればいつでも会える気がしていた。 道彦が初めて通天閣に訪れたのは、まだ東京で仕事していた時期の大阪出張でのことで、いまから二十年ほど前になる。 それからほどなくして、転勤で奈良の地を踏むようになって、それからは休みの日には頻繁に通った。 初めて訪れたときの衝撃の一つに、床屋の安さがある。 カット、600円の看板が目に止まった。 300円足せば、髭剃りもしてくれる。 占めて900円で所謂、理髪サービスが受けられるのだった。 道彦は、物は試しと、理髪してもらう。 いつもは四千円近く払ってやってもらっていたし、当時の東京では普通の理髪店しか存在していなかったから、 大阪で初めて、900円のフルサービスを受けたときはドキドキしたものだ。 「はい、お客さん、お会計、900万円になります!」 お決まりの店主のギャグにも直ぐに慣れ、 「はい、では一千万円でお願いします」 と千円札を渡すようになり、いつの頃からか、道彦もこの町に馴染んでいた。 もう一つの驚きは、将棋屋があることだった。 将棋屋とは、将棋盤と駒を店側が用意をしている、いわば雀荘の将棋版である。 見ず知らずの人が対局するのが当たり前のフリーの将棋荘である。 道彦も少しやる口であって、興味を持って外から窓越しに対局をみるのだが、 年齢層は高く、誰も彼もかなりの腕前であった。 彼らには簡単には勝てないとわかっていたから、フリーで入ったことはなかった。 根こそぎ持っていかれそうで怖いのもあった。 そんな道彦も奈良を離れるときがきて、それ以来、早くも七年が過ぎていた。 旅行がてら久しぶりに訪れた通天閣、じゃんじゃん横丁は、様変わりしていた。 周りを圧倒するべく建てられた商業施設が、お前はもう古い、といわんばかりに通天閣を見下ろしている。 串カツや寿司屋や居酒屋、そして将棋屋が軒を並べてあった、じゃんじゃん横丁も、 いまではシャッターが所々閉まっている。 この町にも都市開発の波が押し寄せてきていた。 この地区の隣が、抗争や日雇い労働者で賑わう西成地区であることから、 イメージアップのための都市開発を急いでいる風だった。 いずれここもコンクリートジャングルになるのだろうか。 道彦は、しばし散策したあと、じゃんじゃん横丁に来ると必ず寄ることにしている、一軒の串カツ屋のカウンター席に着いた。 昼の三時だった。 元々、カウンターしかない店だ。 道彦の座った席の対面の席には、小学生の男の子を挟んで親子三人が座っていた。 父親はビールを飲み、母親は酎ハイを飲んでいた。 息子はひたすら串カツを注文し食べていた。 親子三人は、三人が三人とも笑顔で、それぞれ好きなものを注文し、またより一層の笑顔になる。 道彦もビールを注文した。 串カツとドテをつまみにもらう。 懐かしい味に頬も緩む。 ビールも旨い。 昼間から堂々と飲めるのもこの町ならではかな、と道彦は思った。 じゃんじゃん横丁の別名を新世界と呼ぶ。 ここは新世界なのだ、新世界はなんでも自由でいいのだ、と思った。 道彦は、串カツ屋を出ると、こんどは向かいにある、寿司屋の暖簾を潜った。 いつもの道彦のコースだ。 またビールを飲み、寿司をつまむ。 至福のときだ。 道彦のあと、また客が入ってきた。 さっきの親子三人連れだ。 母親が、まだ食べるのか、と息子に怒っているが、その顔には笑みで溢れている。 この町はいま勢いよく変わっている。 でもどんな変貌を遂げようと、道彦はこの町が好きだった。 この町の人々も、ここに集まる人達も好きだった。 道彦は、残りのビールを飲み干した。 夜の扉を開けたばかりの新世界を再び歩きたくなった。 いまのままの新世界は、あとどのくらい楽しめるのだろうか。 道彦は、きょうが自分にとって思い出の新世界は、悲しいが最後になるような予感が働いた。 あの親子三人にも、変わるときがあるかもしれない。 きょうはもう帰らないで、気の向くまま、自由でいようと思った。 形が変わろうが、もうひとつのじゃんじゃん横丁があってもいいと思った。 それでいいのだと思った。 〈了〉 ※書き終えて、思ったのは、なんだか、旅の思い出記事みたいになってしまったなあっていうことです(笑)。 今回は難しかった……。 やはり一度起こした物語がどこかに残っていて、やりにくかったですね。 ※じゃんじゃん横丁、新世界には、かれこれ四年は行っていません。 ですので、実際は、もう都市開発も進んでしまって、じゃんじゃん横丁も整理されてしまっているかもしれません。 また商業施設が建って、じゃんじゃん横丁もその箱の中に納められているかもしれません。 来年には、一度行きたいと思います。 いつも行く串カツ屋と寿司屋は、まだあるのでしょうか。 それを確かめにも行きたい。 きょうは書き始めが遅く、時間もかなり深夜に亘ってしまったので、この辺で失礼いたします。 明日、起きれるかなあ(笑)。 ではね。 |




