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『駄菓子屋のお婆さん』 星ひかる 懐かしい風に誘われ、道彦は風上に向かって歩いていた。 どこか記憶の奥底にみたことのある景色と匂いを感じる。 小さな角を曲がると、そこには、寂れた駄菓子屋が一軒現れた。 道彦は、一瞬、頭のてっぺんに痛みを感じた。 痛みというよりは衝撃波を受けたようだった。 記憶の奥底にある引き出しが開かれた。 それは本来、閉ざされたままにあるはずの引き出しだったのかもしれない。 六歳の道彦が駄菓子屋の前に佇んでいる。 彼は、店の中をそっと覗いている。 道彦も六歳の自分と一緒に、中を覗いてみるが、暗くてよくみえない。 彼は、店の中程にある一つの棚の下辺りを見詰めたまま微動だにしなかった。 道彦も彼と同じく音を立てることなく、その姿をみていた。 六歳の自分が動いた。 首を横に向け、店の更に奥をみていた。 道彦もまた彼と同じく店の更に奥をみてみるがなにもみえない。 いいや、二つの小さな光りがみえた。 そのときだった。 彼、六歳の自分は突如その場を立ち去っていた。 道彦は、彼の走る後ろ姿を見送った。 その右手には、なにか青いものがヒラヒラとしているように、道彦にはみて取れた。 道彦は、またさっきと同じ痛みを頭のてっぺんに感じた。 道彦は、思い出していた。 六歳の頃、スナック菓子のおまけのヒーローもののカードが流行っていた。 そのカードを何枚も保管できるホルダーが欲しくて欲しくて仕方なかった。 しかしそれを手に入れるには、カードとは別に、当たりくじを引かないとならないものだった。 そのホルダーがあの駄菓子屋にはあった。 道彦は六歳の頃、そう、この駄菓子屋で、そのホルダーを盗んだのだった。 道彦は、自分の仕出かした過ちを記憶の奥底に封印していたのだ。 四十年以上もの間、忘れるという形で。 道彦の目の前には、先程と変わらぬ風景があった。 寂れた駄菓子屋が道彦の目の前にあった。 そうだ、あのときのことを謝ろう、今更ではあるけれど、自分にケジメを付けよう、 と道彦は思った。 あのときのお婆さんはもういないだろうが、その息子なり娘がいるかもしれない。 道彦は、駄菓子屋に足を踏み入れた。 店には、昔ながらのお菓子や玩具が、ところ狭しと並んでいる。 道彦は、本来の目的を忘れて、懐かしさの余り、色とりどりの駄菓子や玩具たちに、見入ってしまっていた。 「道彦ちゃんね? 道彦ちゃんじゃないの!」 自分の名前を呼ばれ驚いて、声のする方に顔を向けると、 道彦は息を飲んだ。 そこには、あの六歳の頃と同じ、座布団の上に座っている、駄菓子屋のお婆さんの姿があった。 四十数年前と何ら変わらない姿のお婆さんが、そこにいた。 道彦は、腰が抜ける思いでいた。 辛うじて、お婆さん、と声に出していえた。 まだ生きてたの、と道彦の消え入りそうな声。 お婆さんに届いたかどうかは、直ぐには、わからなかった。 「やっぱり、道彦ちゃんね」 お婆さんの屈託のない笑顔が、道彦には眩しかった。 「冗談きついやあね。わたしゃ、お婆ちゃんの娘。でも、わたしも、もうお婆ちゃんやけどね」 皺だらけの口を大きく開けて、高笑いする娘のお婆さんは、快活であった。 姿はお婆さんであったが、話振りや笑い声は若かった。 「なんでぼくの名前を知ってるの」 道彦は、一度引いた血の気が戻り、それに従って、思考も戻ってきていた。 「なあにを、子供んときとおんなじ顔しちょって、なあんばいっちょるの」 娘お婆さんはまた豪快に笑う。 散々笑い散らかすと、すっと奥に引っ込んで、直ぐに戻ってきた。 その足取りも若さを感じた。 「道彦ちゃん、これ覚えておるけ?」 娘お婆さんの手には、青いヒラヒラのホルダーがあった。 「ひっ!」 道彦は気絶しそうになったが、呼吸を整えて言葉を繋いだ。 「それ、ぼくが盗んだホルダー……。どうしてここにあるの……」 「覚えていやしたけ、よかった。そう、一度は道彦ちゃんが盗んだホルダーや……」 「一度?」 道彦は娘お婆さんがなにをいっているのかわからない。 「そう、一度。一度は盗んだけど、そのあと直ぐにお母さんと道彦ちゃんと店に来て、あんたは泣きながらお婆ちゃんに謝って返しにきたの、覚えてらんのけ?」 道彦は記憶の奥底を探るが、その記憶は何処にもなかった。 道彦は首を横に振った。 「お婆ちゃんは、盗んだのは悪いことだけど、正直に返しに来た道彦ちゃんを大層誉めてたんよ」 道彦は手にしていた鞄を落とし、膝に手をついて聞いていた。 「こんど道彦ちゃんが来たときに、このホルダーをプレゼントしたい、っていって取っておいたんよ、お婆ちゃん。 でも道彦ちゃんはあのあと直ぐにね、引っ越して行っちゃってね、渡せないでいたのね」 道彦は肩を震わせた。 「でも良かった……。こうして無事、このホルダーが道彦ちゃんの元に届いたから……」 お婆ちゃんも喜んでるよ、といって、奥の部屋の更に奥にある仏壇に、娘お婆さんは手を合わせた。 道彦の目にもぼやけていたが、お婆さんの遺影が映っていた。 道彦は駄菓子屋を後にした。 手には、青いヒラヒラのホルダーがあった。 道彦は振り返り、遠くにみえる駄菓子屋をもう一度この目に焼き付けた。 深く深く頭を下げた。 脳天にまたあの衝撃波を感じた。 おぼろ気ながら、お婆さんの笑顔がみえた気がした。 首筋を優しい風が過ぎるのを感じた。 〈了〉 |
即興超短篇
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星ひかる 道彦は、いつもの居酒屋にいた。 いつものカウンターの席でいつものビールを飲んでいた。 マスターが、きょうはホタテが美味しいよ、と勧めるので、貝付きのまま炙ってもらった。 道彦は、独りだった。 いつものこと。 二杯目のビールを飲み干したとき、一人の客人が入ってきた。 軽く会釈を交わす。 そういつも見慣れた客人の一人だった。 彼もまた独りだった。 彼もまた、いつものカウンターの席に腰掛け、いつものビールを飲んでいた。 マスターに、ホタテが美味しいよ、と勧められている。 さっきと違うのは、彼は、刺身にしてもらっていたことか。 刺身も良かったな、と道彦は、隣の客人が口に入れるホタテの切り身を目の端で追いかけていた。 きょうは忙しかったの、とマスターが声を掛けてくれた。 いつも通りですよ、と道彦は笑い、 三杯目のビールを注文した。 独りのときは、三杯までと決めている。 明日も早いんでしょ、マスターが問いかけてきた。 隣の客人も聞き耳を立てながら、一杯目のビールを飲み干していた。 そう、いつも通り早いよ、と道彦はジョッキを持ち上げながら答えた。 隣の客人は、静かに飲んでいた。 道彦も声を掛けたことはない。 三杯目のビールもあと二口で終わろうとしていた頃、 扉の開く音がした。 三人目の客人が入ってきた。 彼もまた独りだった。 彼ともこの店で何度かみたことのある顔だった。 いつものカウンターの席で、いつものビールを注文していた。 マスターに、ホタテが美味しいよ、と勧められている。 彼は、勧められたホタテをどう調理してもらうのか、道彦はビールを一口飲みながら聞いていた。 この客人も刺身にしてもらった。 道彦は、やはり刺身が良かったか、と何故だか悔しくなった。 こうなったら、もう一つホタテを頼んで、刺身にしてもらおうか、と考えていたときだった。 再び、扉の開く音がした。 また客人が入ってきた。 彼もまた独りだった。 いつものカウンターの席で、いつものビールを注文していた。 マスターに、ホタテが美味しいよ、と勧められていた。 彼は、じゃあ、それもらおうか、といった。 道彦は、息を飲んだ。 マスターにどうする、と聞かれている。 じゃあ、炙って、と答えた。 道彦は、意味もなく、小さく拳を握って、最後の一口のビールを飲み干した。 喉をならしながら、飲み干した。 マスターに勘定をお願いした。 いつもの勘定を払い店を出た。 道彦は、今夜はぐっすり眠れるような気がしていた。 明日は、焼き鳥のママのところへ行こうと思いながら緩い坂道を登っていた。 その足取りには、どことなく力強さが感じられるものだった。 今宵も数多くの独りの男が、独り酒を飲んでいる。 そう、いつもの通り、いつものこと。 〈了〉 |
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星ひかる 10月10日。 福山は、誕生日のこの日、独りで必ず訪れる店があった。 誕生日を独りで過ごすのも今年で三年目になる。 店の前に着いた。 もう三年か、福山は心の中で呟いた。 「あら〜、福山さん……」 ママはそういうと、少し遠い目をし、 「そうだったわね。もうそんな季節なのね」 福山の顔を懐かしい思いで見つめる目と同時に、悲しい表情を浮かべた。 福山は、手を挙げ、笑顔をみせて席に着いた。 ママは、福山のグラスにビールを注ぐとすぐ、誰もいない隣の席に、ウイスキーの水割りが半分入ったグラスを置いた。 「沙希ちゃんは、ちょっとのウイスキーがいいのよね〜」 そういったママは、目頭を押さえながら厨房の方へ下がっていく。 「ママ、ありがとう」 福山は厨房へ声をかけた。 「沙希、もう三年も過ぎたんだな。今年も来れたぞ」 福山は、誰もいない席に向かって、小さく語りかけると、 テーブルに置かれたウイスキーグラスに、自分のビールグラスをそっと重ねた。 福山は、グラスのビールを一気に飲み干した。 「なにもないんだけど……」 と、ママは、沙希の好きだった、野菜の天ぷらを持ってきてくれた。 「沙希ちゃん、なんで死んじゃったのかなあ……。あっ、ごめんなさい、私……」 「いいんだよ、ママ。きょうは沙希の命日だ。沙希の思い出話ししよう」 福山は、気を遣うママに笑いかけた。 「そうね、そうしたら、私も頂こうかしら」 ママはグラスを持ってきて、自分でビールを注いだ。 「沙希ちゃんみたいないい娘が、なんであんな事故に合わないとならないのか、ずっと考えていたの」 世の中、理不尽なのよ、といって、ママは、ビールグラスを沙希のグラスの縁に合わせた。 福山はビールをもう一本、と注文した。 「きっと、急いでいたのね、福山さんの誕生日なもんで、慌てていたのね」 沙希は、この店が気に入っていた。 その店で、福山の誕生日を祝うために、自慢のフルートを聴かせようと約束していた。 福山もフルーティストだった。 沙希にフルートを教えたのも福山だった。 福山が沙希に課題として出した曲を彼女は妙に気に入り、腕もかなり上がっていた。 福山に上達した自分をみてもらいたいのもあったのだった。 だが、沙希のフルートは聴けぬままに終わった。 小さな交差点を渡ろうとしていた沙希は、ダンプカーと出会い頭にぶつかり、帰らぬ人となった。 店のすぐ近くの交差点だった。 あと数十メートルの距離だった。 時間になってもなかなか来ない沙希を心配していた福山が聞いたのは、 けたたましい救急車のサイレンの音だった。 胸騒ぎのした福山は外に飛び出した。 そこには、うつ伏せの半身に倒れた女性の姿があった。 すぐに沙希とわかった。 小脇には、しっかりとフルートを抱きかかえていた。 しっかりと、しっかりと、抱っこした子供を守るようにして、沙希は倒れていた。 救急隊員が到着し、沙希に抱きかかえられていたフルートのケースが離された。 そこには青いリボンが施されていた。 福山への誕生日プレゼントだった。 沙希、沙希、こんなものを守るために、死んだのか! 福山は絶望の縁に立たされ、このことが余計に、彼を苦しめるのだった。 「福山さん、これ覚えているわよね」 差し出されたものは、あの沙希に抱えられていたフルートのケースだった。 青いリボンもそのままにあった。 福山は、このリボンをどうしてもほどくことが出来ないでいた。 「……もちろん……」 自分のところには置いておけない、とママに預けていたのだった。 福山は、久しぶりに沙希から手渡されるはずだったフルートのケースを手に取った。 心にずしりと来るのを感じた。 「ねえ、福山さん、聞いてくれる?」 ママは福山の目をじっとみている。 「私ね、もうこの店、たたもうと思っているの。この通り、お客さんいないでしょう」 ママは、福山しかいない店の中を見渡しいった。 「いいところ年内ね。もう来年はないわ」 ママは一旦、目を伏せた。 福山は黙って聞いている。 ママは沙希の遺品となったフルートケースを手に取って、優しく撫でた。 「だから、もうこれも、私には、預かれないのよ。来年はないの……」 ママの福山をみる目が鋭く光った。 「ここにあってはならないの。これはあなたの物なの」 いつになく語気の荒いママの声が誰もいない店に響き渡った。 それは福山の胸に突き刺さるものでもあった。 逃げてはいけない、現実を受け入れろ、 福山の耳奥底に響き渡った。いいや、自分に言い聞かせるものだった。 福山は青いリボンに手をかけた。 滑るようにほどけた。まるで福山のその手を待っていたかのようだった。 キズひとつない、新品のフルートがあった。 沙希が命を投げ出して守ったフルートがそこにあった。 ママが横から覗き込んだ。 「素敵なフルートねえ。どう? 吹いてみてよ」 「いま?」 「もちろん、いまよ。この店の最後に、私の思い出になるような曲をね」 福山の手は、もう震えてはいなかった。 渾身の限りで、沙希が好きだった曲を吹いた。 たった一人の客であるママは、エプロンで顔を覆い尽くして、うずくまりながら聴いていた。 沙希のために注いでいたウイスキーグラスが、氷の融け落ちる音を放った。 その席に確かに沙希は座っている。 福山は、沙希の息吹きを感じた。 〈了〉 ※注釈 この物語は、この10月から私と一緒に働くことになった、フルーティストFUKUさんのエピソードを元に作成しました。 先週末の10月10日(金)、仕事帰りに、 「実はきょう誕生日なんですよねえ」とFUKUさんが恥ずかしそうに私にいうのです。 それじゃあ、飲み行くか! と誘ったんですね。 その日は、ワルイージさんとも飲み行く約束してたので、いつもの季の味さんへ。 めでたく合流して、一息つくと、ママがFUKUさんの隣の誰もいない席に、この物語同様に、ウイスキーグラスを置くんです。 なにかな? と聞くと、三年前の10月10日、FUKUさんの誕生日の日にお友だちの女の子が亡くなったんだという。 誕生日なもんですから、やはり忘れられないと、いつもこうして、お供えのグラスを置いているんだ、と。 そして、この舞台となっている季の味さんも、この場をお借りしてお話しすると、正に今月で店を締めることになってしまいました。 それには同席されたワルイージさんも大変驚いておりました。 ママは違うところで店をやりたいと、いま店を探しているのですが、先立つものもあるし、 私は焦るな、といって、同じ読売ランドの私の別の行き着けの店の従業員として雇ってもらえるよう紹介しているところです。 ママは、人が好すぎて、商売が下手なんですね。 お客さんは入っているんですけど、お金取らないから、それは儲からないよ。 私ら毎週来る常連からは取れるんだけど、たまにしか来ない人には、来てくれただけでも嬉しいから、 と1000円で、とか、サービスしまくりで儲からないんですね。 なんどいっても直さない。 頑固なママなんですね。 それじゃあ、ってんで、四十年このランドで店をやって来た、いいや、やって来れたマスターに商売とはなんぞや、 を習った方がいいよ、と勧めているんです。 まあ、頑固なママですから、この先どうなるか知れませんが、 しばし、黙って見届けようかと思ってます。 今回の物語は、 ・三年前の10月10日の誕生日の日に女友達が亡くなった。 ・舞台となっている店が、その店を近く畳む。 この二点が合致されて思い浮かんだストーリーです。 それ以外は、フィクションですので、よろしくお願いいたします。 長い注釈で、申し訳ありませんでした。 ではね。 |
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美智子は、赤坂見附の弁慶橋にいた。 弁慶橋の上を走る高速道路の高架の下で降りしきる雨を凌ぎ、寒さに震えながら、 美智子はいつまでも来ることのない、勇作を待っていた。 お互いまだ若かったのもあるが、二人付き合っているのかいないのか、微妙な距離にあった。 卒業後、互いに就職して、少し落ち着いた頃、勇作から話があるから、 と呼び出されていたのだった。 美智子にしてみれば、告白を期待しての待ち合わせのときだった。 だけど勇作は来なかった。 七年振りに同じ場所に立った美智子が目にしたもものは、 かつて、好景気の象徴の如く、またその残像残骸として、そびえ建っていた、 あの赤坂プリンスホテルが跡形もなくなっている現実だった。 ただの工事現場になっていた。 美智子も三十に手が届くところまで来ている。 この歳まで独身でいるのも、ひょっとすると、勇作のことが忘れられずにいたからかもしれない。 七年の重みを感じながら、美智子は弁慶橋の上で独り、溜め息を吐くのだった。 蝉が地下深く暗い土の中で、希望の光りを見る日を待っている七年間と思えなくもなかった。 美智子は鞄からスマホを取り出して時間をみた。夜の七時を回っている。 また、ふられたのかしら、と美智子は心の中でもう一度溜め息を吐いた。 勇作から突然電話が掛かって来たのが、一週間前だった。 美智子も律儀なのか未練があったのか、勇作の電話番号を消せないでいたし、 勇作も勇作で電話番号を変えないでいた。 スマホの画面に「勇作」と表示されたときは、正直驚いて、出ていいものか迷った。 だが未練が勝り、美智子は電話に出ていた。 「はい、もしもし……」 声になっていたかどうだか覚えていない。 「……美智子か……」 七年振りに聴く勇作の声だった。 身体が火照ってゆくのがわかった。 「はい……」 「久しぶりだなあ、元気にしてたか?」 根が明るい勇作だった。ときに能天気に感じるときがあるが、美智子はそんな勇作が好きだった。 あの端正な顔付きが、脳裏に浮かび、美智子はいますぐにも会いたい気持ちで、次の言葉を待った。 「卒業以来だな。なあ、会えないか」 「……」 美智子は、言葉が出せなかった。 「またあの赤坂見附の弁慶橋で……」 勇作の声は消え入りそうなくらい小さかった。 美智子は思った。 勇作はあのときの約束を忘れてはいなかった、ただなんらかの事情で、あの日あのときのあの場所へ来られなかったのだと。 当時美智子はふられたことが表にあって、確認もなにも出来なかったし、したくもない気持ちでいた。 これでまた元の二人に戻れるかもしれない。 「……私も、会いたい……」 美智子は既に火照った身体の持って行き場所が見当たらないでいた。 「そうか、ありがとう……、じゃあ、一週間後の同じ日の夜の七時に、弁慶橋で」 そういうと、勇作の電話は切れた。 最後に、美味しいものでも食べよう、という、明るい勇作の声が、 美智子の神経という神経を刺激した。 美智子は、雨降る弁慶橋の高架下で、勇作を待っていた。 七年前のあの日と同じだ。 貸しボートと釣り場があるが、この雨で人の気配がしない。 もうすっかり日も暮れてしまった。 美智子はスマホに再度目をやる。 八時になろうとしていた。 「あのときと同じ、またふられたみたい」 美智子は呟いた。 こういうときはこちらから携帯に連絡なんてしないもの、と美智子は気張っていた。 もう帰ろう、と横断歩道を渡ろうと向きを変えた。 信号が青に変わる。 向こう側から、百キロはあろうかという巨体を揺らしながら、 頭の髪も薄くなったサラリーマン風のおじさんが走ってくるのがみえた。 美智子はなにをあんなに慌てているかしら、という思いでみていると、 その男は、丁度真ん中の分離帯のところで、急に止まったかと思うと、 胸を掻きむしるように苦しんで倒れた。 側にいた女性が悲鳴をあげた。 周りにいた人たちが集まって来て、 「おい! 大丈夫か! 大変だ! 心臓発作だ、救急車を呼べ!」 と一人の男性が叫んでいた。 美智子もその一部始終をみていた。 人だかりができたその場所の横を過ぎた。 一瞬、倒れた巨漢の男と目があった。 その男の瞳は、雨のためか、汗なのか涙なのかわからないくらい、 ぐちゃぐちゃになっていて、醜くもあった。 美智子にはまともにみることが出来なかった。 勇作にもふられ、こんな事故にも遭遇し、きょうは散々な一日だ、と美智子は、その場をにげるようにして去っていった。 でも、勇作から電話が掛かって来てからの一週間は、夢のような毎日だった。 また勇作にふられたのは癪にさわるけど、気まぐれな彼のことだ、またどこかで会えるような気がしていた。 美智子は、もう一度、中央分離帯の人だかりに目をやった。 先ほど、救急車と叫んでいた男性が、倒れた巨漢の男になにかいっていた。 「おい、しっかりしろ! 名前はいえるか! おい!」 男はまだ苦しんでいる。 「う! ん、あ、ゆ・う・さ・く……」 「え! なに?! ゆうさくか! 勇作さん、しっかりしろよ、もうすぐ救急車くるからな〜!」 男性は叫んだ。 だが、美智子に、その声が届くことはなかった。 雨はまだ降っていた。 七年と七日前と同じ雨だった。 《了》 |
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二十年前に、竹藪で、泣いているところをヒカルンに見付けられて、おじいちゃん、おばあちゃんのところに連れて行かれたの。 いまでこそ、おじいちゃん、おばあちゃんになったけど、そのときはまだまだ若かったよ。 いまのヒカルンくらいの歳とそう変わらないね。 ぼくもそれだけ年取ったんだね。 いまは腰も立たなくなっちゃったよ。 きのうヒカルンが久しぶりに来て、ぼくの写真撮るんだよ。 こんなヨボヨボの姿なんか誰にもみられたくないから、ぼくは抵抗するつもりで泣いたのに、 ヒカルンは、ぼくが嬉しくて泣いていると思ってるんだ。 ほんといい性格してるよ。 こっちはいくらおいぼれても、いつも綺麗きれいにしていたいんだから。 それがぼくたち猫族の決まりなんだから。 ああ、でもほんと久しぶりにヒカルンの顔みたなあ。 前から老けていたけど、いま酷いんじゃないか? 老けたも老けたけど、ちょっと疲れてるんじゃないか? そうだそれより、ヒカルンの彼女は来ないのか? 確か、エリカっていったかなあ、あのコはいい匂いするんだ。 いままでのヒカルンの彼女の中では一番だな! 二人しか知らないけど。 そんなに女の子にモテそうな顔はしてないしな。 でも、もうだいぶまえに死んじゃったけど、ヘレンお姉ちゃんは、ヒカルンが大好きだったよなあ。 ヒカルンが最初の彼女と結婚して、家からいなくなったときなんか、ずっとずっと泣いてたらしいんだ。 ぼくは、その彼女と結婚したばかりのヒカルンの新しい家の前で見付けられて、この家にやってきたから知らないけど、 ぼくより十個上のロンお兄ちゃんが、そう教えてくれたよ。 ぼくが初めて、この家に連れられたとき、ヘレンお姉ちゃんが、 ヒカルンのことばかりみていたのは、 なんとなく覚えてるよ。 ヘレンお姉ちゃんは、怖かったけど、ロンお兄ちゃんは、ほんと優しかったなあ。 いつもぼくのわがままを許してくれて、ぼくが眠くなると、そばに来てくれて、優しく舐めてくれたんだ。 ロンお兄ちゃんも死んじゃった。 もう十年前になるのか。 ぼくももうすぐ、ヘレンお姉ちゃんとロンお兄ちゃんに会えるかなあ。 ヒカルンが、少し前、ぼくに話してくれてたこと思い出した。 ぼくが、ベランダでタバコ吸ってるヒカルンの傍にいったとき、 ヒカルンが、上を向いてなにかいっているんだ。 「バン、ほら、あの雲さあ、ヘレンに似てないか?」 ぼくも上向いて、雲をみるんだけど、いったいどの雲のこといってるのかわかんなくて、 ニャー、と声をかけたら、 「ほら、あれだよ、でも、ロンの方に似てるかなあ」 またぼくは、ニャー、と声をかけたよ。 ヒカルンもこっちをみたんだけど、なんか目に光るものがあった。 ヒカルン、どうしたの? なんか辛いことあったの? ぼくが、ニャーニャー、いうもんだから、ヒカルンは火の点いたタバコを灰皿に潰すと、 ぼくを抱き上げて、部屋に連れて行っちゃったの。 そのときヒカルンの目の下を舐めてあげたんだけど、塩っぱかった。 ヒカルンはぼくを優しく抱き上げて、いつも、ぼくの眠る布団まで連れていってくれたの。 ああ、あのときと一緒だ。 二十年前、冷たい竹藪から抱き上げられたときと。 ぼくもあのときは、なんだか目頭が熱くなっていたよ。 きのうもヒカルンは、腰の立たないぼくを抱き上げて、ベランダに連れていってくれたの。 最近はめっきり外の景色見てなかったから嬉しかったよ。 ヒカルン、ありがとう。 ヒカルンはまた上向いて、やっぱり雲みていた。 ヒカルンは、ヘレン雲とロン雲を探しているのかなあ。 ヒカルンには悪いけど、ぼくには、ヘレンお姉ちゃんとロンお兄ちゃんが見えるよ。 家の中をみたら、おじいちゃんはテレビ観て笑っている。 おばあちゃんは、台所で、ヒカルンのご飯を作ってる。 いつものヒカルンのうちの光景だね。 よかったね、ヒカルン。 ぼくもヒカルンのうちに来ることが出来て、幸せだったよ。 ありがとうね。 《了》 |




