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初めて訪れる家でもない。それどころか、暗闇でも簡単にドアを開け、部屋まで辿り着くことができる。それくらい勝手知ったる家――6畳ふた間の古いマンションだけど。しかし、大阪の街の中心地――梅田にも難波に出るのにも便利。 いつもそう思っていた恵子だった。
その恵子が、ふたたびこの家に戻ってくることとなった。
まさか、自分がここに足を踏み入れることなんかない。
恵子は、そう思っていたのは火を見るよりも明らか。
今も勝手知ったる元我が家にもかかわらず、玄関の前でもじもじしている。
昨日からもう既に八時間以上は経過している。にもかかわらず、いまだ目を腫らし、涙が溢れ出ている。
玄関のところどころペンキのはがれたドアも、あの時のまま。
だが、そんなことなど気づいてはいないだろう。
背中を丸くし、俯いたような格好。そして身体全体が揺れている。
涙が枯れることなく、ずっと泣きじゃくったままだからである。
ようやくコンバースのバスケット・シューズを履いた小さな左足をゆっくりと動かした。もちろん前へと。玄関に足を踏み入れようとしたとき、ガタンガタンと環状線が通り過ぎる大きな音が鳴り響いた。
このマンションのすぐ横手が高架になっており、環状線やJRの電車がひっきりなしに走っている。だから、この近所の住人はこんな騒音にも慣れっこ。
久しぶりに聞いた騒音に、恵子はびっくりしたわけではない。ただ勇気を持って家に入ろうと思った気持ちが、萎えてしまった。
「わたし、本当にここに入ってええん?」
恵子は足を止め、後ろを振り返った。
「入ってええから、一緒に帰ってきたんやろ?」
「それは、そうなんやけど・・・・・・」
「恵子。お前の家は、どこにもないんやで。お前の帰るところはここなんや。ここが、俺と恵子のウチや」
恵子の手をぎゅ〜っと握りしめながら、少し白い歯をのぞかせながら、健吾はそう語った。いつものように熱く。そして力強く。
*今日の会話in English
"Is it really okay if I get in?"
"You're coming back with me, if I would like to let you in."
"That's right. But..."
"Keiko. Your place is nowhere else but here. This is the place for you and me to live."
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短編小説「代償」
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