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『畿内・近国の戦国合戦』福島克彦
俳諧の祖、宗鑑の素性は実際は判っていない。
生まれたのは草津だろうな、大山崎に住んでいただろうな。 連歌師の集まりで配膳役をしたり、新古今集、伊勢物語、犬菟玖波集等々をひたすら書き写して生涯を過ごしたんだろうな。 晩年は四国の香川県観音寺にて没したのだろうな。 これくらいである。 ただ、新古今集で第一に認められている写本を筆写し、犬菟玖波集のそれは十指を下らないということは、主に筆で書くばかりしていた、辻邦生のようにただひたすらたえず書く人生だったことは間違いないだろうし、筆跡からして人麻呂に云われるような芸能集団の固有名という可能性も殆どないだろう。 これに対して、宗鑑の時代はどうだったのか、に応えることのできる初めての書が出た、それが本書である。応仁の乱以降の戦乱の過酷さは、特にここ京都においてただ困難を極めていただろうことが詳らかに判るものになっている。 よって、近江から来た宗鑑は、京都で文化的に粋な仕事に従事し刻苦勉励していたものの、戦乱の世を避けて四国に渡り生涯を一貫して能筆家として過ごしたと想像できる。同時代の宗祇や宗長からすれば、その足跡が一切辿れず、京都と四国以外の何を知っていたかも定かではないのは、どちらなのかで大いにイメージが違ってくるものの、今の段階で少なくとも確認できるのはこれだけだ。 武士と城郭の在り方が、織田信長の登場で統一への機運を一気に高めていく丁度手前で、いまだ、政治と軍事の混沌にあって、文化を志向していた一人の人間がどんな相貌を保っていたかということは、定かならぬ伝承と散逸してしまっている夥しい書筆断片によってしか伺う事は出来ないものの、将来、『山崎宗鑑とその時代』という書物が書かれるとすれば、その「時代」の部分の輪郭がやっと本書によって形を視た。 |
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