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『国家と宗教』南原繁
終戦直後に二度も東大総長になった政治学者の処女作。現代文庫ではなく青色文庫に収められるのは、古典というより単に古いという感覚からか。
内容は、全四章に第三版で追加された補論を含む。この補論は著者自身が緒論であり結論であるとも云っている。 全体の基底となる第三章のカント論は、1927年著者38歳の時の論文であり、以下第一、二章のプラトン論と第四章のナチス批判は開戦に相前後して『国家学会雑誌』に発表されたものである。年譜に明らかだが、そのうちには美濃部達吉の天皇機関説事件、矢内原忠雄の辞職、大内兵衛らの検挙、河合栄治郎の発禁処分、同平賀譲総長らの粛学処分、津田左右吉らの検挙という学問と軍国主義が鬩ぎ合った一連の騒動が挟まっている。 しかし、本書に天皇制批判や軍国主義批判は見られない。同時にその礼賛も一切ないものの、それでも一瞬「ナチス的精神の時代的意義を汲むに吝かではない」との最後の文言には冷やっとするかもしれないし、マルクスとマルクス主義批判でははっきりと容赦がない。当時の共産党員や共産主義者、三木清や戸坂潤らに同情の余地、その表現の余地があるという事もない。京都学派は海軍と密会を重ねて別の路線を探っていたのに対して、それらとはまた独立して政治神学が深められていた事だけは明確である。 デカルトに触れられる事は全くないものの、デカルトとカントが神と人間の問題を完全分離したとすれば、それを人間の側に引き付けて人間を神にしようとした、人間自身が神になろうとした事においてはヘーゲルもニーチェも同根とした上でそのボタンの掛け違いをカントやプラトンにまで遡っている、或いはそこに遡るに留まっているとも云える。 或いは、プラトンの『国家』の後半部、ホッブズの『リヴァイアサン』の最終部が悪魔論、悪霊論であるように、本書にもその端々にはデモーニッシュなものに対する危険意識が明確になくはない。単に戦後というのではない大戦以降の大衆や冷戦以降の紛争の時代にあり得べき政治哲学の一つの手掛かりにはなろう。 |
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