学者と称する専門家に告ぐ
21世紀に入り、外れ続ける学者と称する専門家の予言、それでも信じ続ける私たち。先行き不透明な時代こそ、専門家の言うことを真に受けてはいけない?予測に関する、心理的・社会的なトリックを解明してみたい。
最近の人間は、生まれてまもなく、自然と機械の区別なく、ネットワーク化されたデジタルメディア環境に取り囲まれます。機械のネットワークは、人間のネットワークとは区別されず、すべての幼児を抱懐するように、みずから意図より早く、優しく反応します。そんな中で「自然」と呼ばれてきたものの残酷さや不気味さが、姿を消しつつあります。
そうしたデジタルメディアの自然が、生まれてくる子供の心に受けいれられていくのですが機械とともにあるのがポストモダン(近現代)状況であったものから、そうした「自然」の状態で反応するより先に反応する機械の調子狂いや、あるいはアンドロイド的なっている他人が機械と違う反応に出会ったとき、ひとは激しく狂いはじめます。ストーカーやクレーマーやさらには無差別殺人を試みる人たち、ちょっと出来事がきっかけで機械の自然から排除されたと感じとって、絶望的感情を抱くのです。これを「知識の脱知識化」と呼べないでしょうか。
このような人間の現象を「人間の脱人間」とすれば、機械とともにあったポストモダン(近現代)状況の学者と称する専門家をアンドロイド的要素のない予言のない専門家は全くの「奇異なことを喋る人形」と成り果てることは当然です。
そして世界の中心は分散化して、それぞれが多様な方向へと異なる速度で動いていきます。この「世界の脱中心化」が、それぞれの地域が向かう方向のどれがメジャーになるかという意味での未来が不明になり、どこよりも早いことがどこより遅いことで、互いが周回遅れのトップランナーになってしまいます。
そんな中で20世紀の人間(老人)は子孫へ何を残しますか。
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