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普遍的な人間像などというものは存在するのか?
経験主義の父といわれるイギリスの哲学者ジョン・ロックは人間が身体を所有する意味とは他人からいじくられることのない自然権を持っている事だと主張している。
同様にフランスの人権宣言は自由、所有、安全、圧制への抵抗のすべては人間の有する権利とした。現代哲学における構造主義では現象に潜在する構造を抽出し、その構造によって現象を理解しようとする中で人間(human)とは時代・文化・社会によって形づくられるものであるといわれている。そこに国家の所有すなわち権力と個人の権利の拮抗が発生する。
厚生権力の発生と臨床医学の真の目的を検証する。
「病気をしたら病院へ」いう発想が生まれたのが18世紀末。なお西洋においては、ホスピタル=医療より慈善が優位とされる伝統的医療を行う病院、クリニック=近代的医療を実施する病院と区分けされてきた。
18世紀末のフランス革命から19世紀末に至る時期に民主主義によって近代市民社会が成立しその思想は現代社会においては違法でない限り放任され、新自由主義のもと極めて大きな格差社会や人種差別社会を生み出されつつある。政治における権力と人間の有する権利の拮抗が本来の政治のあるべき国民生活の自由な姿を変えつつある。
厚生行政の権力構造をよくよく凝視すると目の前の個人を病気の苦悩から解放することではなく、その病気によって死ぬ病人を統計上において減らすこと。社会の諸身体の生命活動の総量を増加させることである。そこにはヒューマニズムという自由の権利の欠如が認められる。生活スタイルの多様性、独自性こそが本来の健康であるはずだが、厚生権力は治療に最適化・画一化された生活スタイルを強いる。「健康」が自己目的化している。自由で平等であるはずの人々を規制する権力である。
人々は「健康」という理念を媒介にして、自ら進んで隷属しようとする思考が生じている。「医学は私のこの身体には関心がない」と知りながら、厚生権力には抵抗しがたい。臨床医学は「生とは死の因果に他ならない」という新たな思想を生み出し、「人間であるとはどういうことか」という思考の枠組みが変更されつつある。
我々は厚生権力に踊るAI=人工知能かもしれない。
日常生活では「人に迷惑をかけない限り何をしてもよい」というベンサム的立場が支持され、放置される傾向にあるが、その結果として、他人に強引な関わりをする人々(クレーマーやストーカー、無差別殺人など)が増えているようにも思われる。こうした人々を「異常者」として隔離し治療することで、社会に残された人々は自らを理性的主体と感じ続けることが出来る。しかしながら、そうした理性は、狂気のトラブルに直面しないよう厚生権力によってお膳立てされた舞台で演じる「自由・平等な個人」でしかないのではないか?
そこでいう「理性的」であるとは、社会から排除される非理性的態度を取らないよう考慮をした上で振舞うという態度に他ならない(理性の共犯関係)。厚生権力が狂気の現象を街の中から排除した結果、自分にとっての「死」や「生」の意味に、誰も直面しない、その意味で理性的であることができないような社会になってしまったのではないか?
どんな人々が社会の一員として適切かは、いまでも文化・社会・国・時代などによって極めて多様なものである。医学によって「正常」とされる精神など、仮説的理論に基づいた空虚な総体でしかなく、医師の活動、厚生行政にとって都合の良い精神、暗黙に根ざされた隷属させるのに理想的な人間像――そして数ある展望や観点のうちのひとつ――に過ぎない。現代の人々は「病気か/健康か」の二元論的思考の中にあって、自由で平等な理性的主体の責任や義務、それらを支える真・善・美の価値について語ることがいかにして出来るのか?我々は3分間治療の厚生権力に踊るAI=人工知能かもしれない。
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