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やっと朝の運転も慣れてきた頃、橋を渡ってすぐに右折したところで、後ろからパトカーに呼び止められた。 No,English.と言って、やり過ごそうとしたのだが、 「英語ができないで、なぜスクールバスのドライバーができるんだ。」と言ってくる。 まだ英語を話せるとまではいかなかったか、面と向かっての会話ならだいぶ理解できるようになってきていた。 制限速度は、きちんと守っているし、その外は特権の塊みたいなスクールバスである。運転免許証も問題ない。What"s ploblem?(何が問題か)と聞くと、右折禁止のところを曲がったのだという。しかし、ここは木下さんに教えてもらった通り、毎朝走っているところなのだ。だいたい交通標識をみかけない。 なにやら怪しい様子に、幼児数名が泣き出した。サングラスをしたポリスは、困った顔をしながら、 What do you say hello in Japanese? (日本語でハローは、何て言うの?)と聞いてきた。 「こんにちは」だと答えると、ポリスはサングラスを上げて、幼児に向かって「コンニーチワ!コンニーチワ!」と笑顔で呼びかけた。ところが、幼児の鳴き声は一層大きくなり、さらに泣き出す子が増えてしまったのだ。 Forget it!…「行ってしまいなさい」という意味だととらえ、その場を去った。 翌日、交通標識を調べたが見当たらなかった。数日後に、やっと発見した。右折禁止の標識は、なんと橋の途中に立っていたのだ。もちろん右側に。日本じゃ左側と正面にあり、地面にも書いてあるよなと思いながらも、その標識のある理由が納得できなかった。 ※ 標識の画像は、赤信号の時に右折禁止という意味。ニューヨークではマンハッタン以外は赤信号でも、安全が確認されれば右折してもよいところが多い。
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ニューヨーク物語
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いきなり失敗してしまった。朝8時に家を出て、最初のピックアップが8時15分。ハイウェイを乗り継ぐなどして幼稚園には、9時に着く予定だった。 しかし、到着したのはなんと11時だった。 木下さんと一緒に練習した時は、5分ほど遅れることはあったが、ほとんど定時に到着していた。ところが、信号機が壊れていたことで、回り道をすることになり、道に迷ってしまったのだ。携帯電話もナビもない、当時のこと…、途方にくれてしまった。 公衆電話をかけたくても、幼児を乗せたまま運転席から離れることは固く禁じられている。 それでも、なんとか走り回って次の家を見つけることができた。ところが、時間がずれてしまっているため、幼児の家やアパートへ行っても、玄関先で待っていず、アパートの4階から降りてくるのを待たなければならないなどという悪循環が起きてしまった。 3時間近くもかかって幼稚園に着いたときは、数人の幼児が、吐いていた…。園長は、烈火の如く怒っていた。なにしろ、年少組の子は12時には、帰りのバスに乗るわけで、この日の保育の時間は1時間しかないことになってしまう…。 バケツとモップでバスの中の掃除が終わると、すぐに年少組の帰りのバスの運転。その直前に、他のアメリカ人のドライバーと打合せ。もちろん通訳なんて誰もしてくれない。欠席や親が迎えに来ることもあるので、コースと乗っていく幼児の確認をしなければならないのだ。もちろん通訳はいない。 年少の幼児を家に送り届けたあとは、再び幼稚園に戻って、簡単に食事をすませてから、保育活動に参加し、2時半に年長組の幼児を送り届ける。これは、順調に行き、3時半には間借りしているレゴパークの家にもどれた。 その後、地下鉄に乗ってマンハッタンへ行き、6時から深夜まで皿洗い。 一週間前はホームレス同然だった男が、今は二つの仕事をもつことになったのだ。
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考えてみれば、アメリカの幼稚園のスクールバスのドライバーになるなんて…。私の好きだった格闘家で、「熊殺し」の異名をもつ空手家ウィリーウィリアムズのあこがれていた職業でもあったのだ。彼はいったいどうしているのだろうか。 アントニオ猪木と異種格闘技を闘った後、極真会館を破門になり、このころはストーブ屋をしているとの噂があったが…。 驚いたことに、ウィリーはその後格闘技界に復帰し猪木とも再戦したいたようだ。ただし、かつての面影はなく、自分の全盛期よりも強いと言っていた大山倍達にさえ、「歯の抜けた老いぼれ」とまで酷評されていたようだ。 そして、さらにびっくりしたのは、彼が現在はバスの運転手になっているとのことだった。 今回は、脱線してしまったが、治安の悪かった80年代のニューヨークでスクールバスのドライバーをするのは簡単なことではなかった。園長先生からは、何かあったら責任をとって死んでほしいと冗談で言われていた。 道に迷うのは普通のこと。交通違反でポリスに捕まったり、交通事故を起こしたり、ハプニングだらけだったけど、楽しいこともたくさんあった。そのことを少しずつ書いていきたい。
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翌日、8時ちょうどに木下さんがやってきた。30代前半の真田広之似の好青年だった。今は、ニュージャージーで、空手を教えているという。 このときから4年後の1988年に、『ニューヨーク恋物語』という田村正和主演で、井上陽水のリバーサイドホテルという主題歌が使われてドラマが放映された。このときに真田広之がマンハッタンの幼稚園に勤務する坂下正弘というスクールバスのドライバーとして出演していたと記憶している。偶然だったのだろうか…。 木下さんの指導は厳しかった。まずはブレーキ。とにかく2歳半から5歳未満の幼児を乗せているので、シートベルトをしているものの、急ブレーキは厳禁。確実に座席から滑り落ちてしまう。乗り降りのドアは手動で開けるのだが、必ず周囲を確認し、保護者の有無と不審者がいないことを確認してから開閉する。スクールバスが停車している間は、赤のランプを点滅させ、周囲の車が停車か徐行するのを確認する必要もあった。 もっとも混乱したのは、故障している信号機が多いことだ。コンピュータ制御になっているのだが、信号自体は上から釣り下がって揺れている…。 最悪の場合は、コースを変更する必要がある。そうなるとナビなんてない当時のこと、地図を片手に一方通行の多い道を行ったり来たりすることになる。 その困難さを克服できたのは、子どもたちとお母さん方との出会いだった。ほとんどが日本人や日系人ということもあって、日本人の私が新しいドライバーになることをとても喜んでくらたのだ。 「これは、やるっきゃないな…。」 窮すれば通ず。方向音痴のはずの私が、複雑なニューヨーク、クィーンズ区の道を3日でマスターし、気がつけば、アメリカに来てわずか2週間にしてスクールバスのドライバーになってしまったのだった。
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どうも、このブログが重くてパソコンを替えるまでは書き込めそうにないと思っていたのですが、またぼちぼち書き始めます…。 スクールバスの運行は、一日3回。朝に自宅から1時間ほどかけて園児をピックアップして9時までに幼稚園へ載せて行く。昼は12時に年少組を家へ送り、2時半に年長組を送る。私の他にJimmyとJackいうアメリカ人の運転手がいて、彼らは朝と臨時の時のドライバーだった。 私の前任者は、シンガポール人だったが、母国に住む母親が病気のため、すぐにでも帰りたいとのことで、私が引継ぎをしたのは一日だけだった。 まず、朝のコースに驚く。ただでさえ複雑で一方通行の多いニューヨークのクィーンズ地区を高速道路を3本も乗り降りして行かなければならないのだ。しかも治安が悪いことや交通安全の観点から、必ず子どもの家やアパートに横付けにしなければいけない。およそ10ヶ所を5分以内の誤差でピックアップしろというのだ。 「無理だ。」 何しろ、私は日本でも一年半しか運転したことがない。しかも広々した北海道の田舎道を。さらには、右ハンドルも、右側通行も、オートマチック車もはじめてなのだ。おまけに、私は方向音痴なのだ。多くの幼い子どもの命を預かるスクールバスの運転手なんて…。 「絶対、無理。」 滅多に絶対と言う言葉を使わないようにしている自分も、さすがにこの時は無謀だと思った。 そして、断るなら早い方がいいと思った。 自分の車まで貸してくれて、野良犬のような自分に救いの手を差し伸べてくれた園長さんには、申し訳ないが、正直に女園長に告げることにした。 おとなしく皿洗いの仕事を続けて、帰りの旅費が貯まったら、年内にはロスアンゼルス経由で帰国しようと思った。せっかくのチャンスだが、あまりにも自分の能力を越えている。危険が多すぎる。 翌日は、以前運転手をしていた日本人が私のステイ先までスクールバスで迎えに来ることになっていた。
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