北総文学

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朝妻桜 ……(3)

朝妻桜 ……(3)
                   松谷 順子
 
キリシタンの弾圧によって父母を失った女が遊女となり、弟とは知らずに恋した侍と桜の散るころ殉教することを約束し、奉行に願いでて満開の桜の下で散ってゆく哀話
 
桜吹雪
小石川に入獄して落着くと、朝妻には少しずついろんなことがわかってきた。
あの奉行が彼の名高いキリシタン弾圧をしている井上奉行であること。そしてこの小石川の切支丹牢というのは、井上奉行の元別邸だったのを改造して使われていることなどを知った。
さらにその奉行白身も、以前はキリシタンたったが転んで棄教をしたので、キリシタン信者の弱点や転び方を、誰よりも心得ていることなどを、朝妻は獄の番人や、隣の牢の老囚人から少しずつ教えてもらった。
それにしてもあんなに立派に成長した米市は、これから将来もある身だろうに。
わたしが棄教をして米市が助かるならば、奉行のいうなりになった方がいいのではあるまいか。
いや、それが奉行の策略かも知れぬ。
はたして米市は自分が姉であったことをもう知ったであろうか。米市はまた廓へ来ただろうか。
米市はあの日「桜の散るころそなたと共に天国へ参りたい」といっていたではないか。
天主さまも、その願いをお聞き下さるかも知れぬ。
いろいろの思いが終日朝妻の脳裏をゆきつ戻りつしていた。
数日が経ち、格子戸が開いて牢番人に朝妻は呼びだされた。
「朝妻、速刻奉行殿がお目どおり下さるとのお沙汰じゃ、すぐ出でよ」
廊下までくるといつしか時の候は春で、明るい日ざしが降りそそいで暖かになっていた。
朝妻は外の人柱にくくりつけられた二度の〝夜晒の刑〟にもどうやら耐え、やつれはてて蒼白さが目立ったが、脂粉のないその顔はいっそう悲しげな美しさを深めていた。
引きだされた朝妻をみて、さすがの井上奉行も心動かさるるものがあったのか、この女を処刑するのは、如何にも惜しく残念に思えてきた。
「どうだ朝妻、おぬしの心は変らぬか。転ぶ気にはなれぬか。わしがそちを助けることはできぬのか」と、もう一度たずねた。
「はいお奉行さま、お願いがございまする。朝妻は疲れました。もう天国の父母に会いとうございます。ただし長い間遊女だったゆえ、この身が汚れているのが悲しゅうござります。願わくばどうか処刑を、桜が散るときまでお引き延ばしくださりませぬか。花吹雪にこの汚れた身を隠し、あの世へ旅立ちとうござりまする」
「ほう、桜の花散るときとな。よし承知したぞ。わしの特別のはからいによりそちの命を桜のころまでわしが預かろう……」
そんな言葉のとり交わしがあって、朝妻は再び牢に戻された。
その間奉行からはなにかと朝妻に、特別の差し入れもあったが、朝妻はそれらに手をつけることをしなかった。
そしてその春の三寒四温の天候を繰り返した一か月後、約東どおり朝妻は再度奉行に目どおった。
「お奉行さま、朝妻の桜吹雪に包まれたいとのわがまますぎた願いのおとりなし、世にも有難きお情け誠にかたじけなく存じまする。いまは、もうなにも申すことも思い残すこともござりませぬ。どうぞ存分にお仕置きくださりませ」
「朝妻、もう一度聞くが、わしがそなたの力になれることはほんとうにないのか」
奉行は顔をのぞき込むようにして焦って言った。
「はい、このはした女にお奉行さまのお情け有難く存じまする。どうか辞世の句をよませてくださりませ」
と、いうと経木をもらい筆をとった。
〝旅立ちの 道づれ歌う
     山がらす
  髪のかんざし 花ふぶき″
と、詠じた。
朝妻がそうしたためおわると、どこからともなく風が起こり、いままで満開だった桜が急に、朝妻をうす紅に包むかのように、はらはらと散りはじめた。
「天主さま朝妻は間もなくみ許に参ります。どうぞ米市にご加護下さいませ」と祈った。
そして朝妻は牢番人に介錯を頼むと、自らを十字に掻き切って命果てたのだった。
ときに寛永十七年(一六四〇年)の春のころであった。
その桜の樹を、のちに井上奉行が「朝妻桜」といい伝えたという。
桜の樹はすでに枯れていまはないが、小石川切支丹屋敷跡から中野区の蓮華寺の庭に移された碑文には
「官これを憐れみ、花の発するを待つ。
而して刑後、その樹を朝妻桜と呼ぶ」
と、刻してある。
 

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