ho-ho-ho雑記

2019年春ー鳥啼魚の目は泪

全体表示

[ リスト ]

А ヾ蕎陲砲弔い董覆弔鼎)


ところでダマシオは、感情について、新しい概念を提示する。それは<背景的感情>。そしてダマシオは、感情を整理して、感情には情動的な感情と背景的な感情があるという。情動的感情というのは、一次の感情と二次の感情に見合った形の感情だ。前もって構造化されている身体状態と、対の形で感じられるもの、たとえば、喜び、悲しみ、恐れ、怒り、嫌悪の五つ。
「そうした情動のうちの一つに身体がしたがっているとき、人間は喜び、悲しみ、恐れ、怒り、あるいは嫌悪を<感じる>。注意は実質的に身体信号に向けられ、その結果、身体風景の一部が背景からわれわれの注意の前面へと移行する。」
そして、二次の情動に見合った形の感情は、外界(社会)との関係で後天的に形成されてきたものだ。「
幸福感やエクスタシーは喜びが、憂鬱や沈思は悲しみが、パニックや臆病は恐れが、それぞれ変化したものである。」これらの感情は、<認知状態の微妙なあや>と<情動的身体状態の微妙な変化>が結びついて、生まれたもの。また<複雑な認知の内容>と<前もって構造化されている身体状態の上に起こる変化>との結びつきが、自責の念、当惑、他人の不幸を喜ぶ気持ち、復讐心を私たちにもたらす。

背景的感情

ところで、私たちはのべつくまなく情動的な状態にいるわけにはいかない。もしそうなら、私たちは日常生活を遂行しえなくなるだろう。ある面、情動状態というものは特別なものだ。絶えず、失恋したり、飛び上るほどの喜びがある筈もない。それらは特別な情動的な状況であり、どちらかというと稀な非日常的な部類に入るものだ。では、普段はどんな感情をもって私たちは、日常を生きているのだろうか?
それが、ダマシオのいう、背景的感情なのだ。ダマシオは言う。

「…そう呼ぶ理由は、それが情動的な状態においてではなく<背景的な>身体状態で生じているからだ。それは、生そのものの感覚、存在の感覚である。」
「背景的感情は、先に述べた情動的感情にくらべて範囲が限定されているので、それが心地いいものとして、あるいは不快なものとして知覚されることはあるにしても、ひどくポジティブだったりひどくネガティブだったりはしない。確実なことは、われわれが日常最も頻繁に経験しているのは情動的感情ではなく
、この背景的感情であるということ。われわれは背景的感情をかすかに意識しているが、その質に関してすぐ報告できるほどには意識していない。…背景的感情は、情動の<はざま>を支配する身体状態に対応している。」

「われわれが、喜び、怒りなどの情動を感じているとき、背景的感情は情動的感情にその座を奪われてしまっている。背景的感情は、情動に揺り動かされていないときにわれわれが抱いている、身体風景のイメージである。」

では、その私たちが抱いている身体風景のイメージとはどんなものなのか。ダマシオの言う、もしその身体風景のイメージがなけれべ、<自己の表象のまさに中心部分が崩壊する>というような、背景的感情、あるいは、身体風景のイメージとはどんなものなのか。


二種類の身体風景のイメージ、あるいは身体マップ

「現在の身体状態の表象は、島領域と頭頂領域の複数の体性感覚皮質で、そしてまた辺縁系、視床下部、脳幹で生じている。左右両半球のこれらの領域は、右半球が左半球を支配しながら、ニューロン結合により調整されている。」

「現在の身体状態についての合成された表象は、皮質下と皮質の多数の構造に分布している。内臓状態からのインプットのうちのかなりの部分は、<地図化されていない>と言ってもいいような状態にある。ただし十分に地図化されているインプットも多く、だからこそわれわれは胴や四肢の痛みや不快感を感知できる。内臓領域に対して作られるそうした地図が外界に対して作られる地図より厳密さを欠いていることは確かで、おもに<関連痛>という現象例を挙げてそれが誇張されてきた(関連痛というのは、たとえば、心筋梗塞時に左腕や腹に痛みを感じたり、胆嚢に疾患がある時左肩甲骨に痛みを感じること)。」

「一方、筋肉や関節からのインプットに関して言えば、それはトポグラフィ的に地図化された構造になっている。<オンライン>のダイナミックな身体地図に加えて、一般的な身体構造に関する最も安定した地図もある。おそらくそれが、いわゆる自己受容(筋肉や関節の感覚)と内受容(内臓の感覚)を表象し、われわれが抱いている身体イメージの基盤を構成している。それらは<オフライン>の(すなわち指示的な)表象だが、それらは活性化されると体性感覚皮質でトポグラフィ的に構造化され、現在の身体状態に関するオンラインの表象と協力し、われわれの身体が今どうかではなく、どのようになろうとしているかを教える。」

ここでダマシオが暗示しようとしていることは、現在の身体状態に関する、<オンライン>のダイナミックな身体地図のほかにもうひとつの身体地図を持っているということだ。それは自己受容や内受容、つまり内臓感覚を中心としたような、包括的な、全体的な身体地図。<オフライン>という言葉が、休眠中ということを言っているのかがよくわからないのだが、多分、休止ということではなくあまり活発ではないという意味だと思うのだが…。もうひとつ推測して言わせてもらえれば、<オンライン>のダイナミックな地図というのは、視覚や聴覚といった、主に知覚を中心とした身体地図ではないだろうか…。とりあえずここは、ダマシオが二つの地図を示唆しているということに注意だ。そして思い出してもらいたいのは
、感情というものが、メンタルイメージと、それに対応した身体状態の並置だったということを。そしてダマシオが暗示しようとしている背景的感情にとっての、メンタルイメージが、身体に関するものだということ。しかし、メンタルイメージとして、自分の現在の身体風景を眺望するのは、とても難しい。

「なるほど、人間は一時も欠かさず身体のすべての部分を意識しているわけではない。視覚、聴覚、触覚を通しての外的な出来事の表象と内的に生み出されたイメージによって、われわれの注意が現在の身体的表象からそがれてしまうからだ。しかしこのように、注意の焦点が通常ほかのところー適応的な行動をとるのに最も必要とされているところーにあるという事実は、身体的表象が存在しないということを意味しない。突然、痛みやちょっとした不快感が起これば、焦点がそこに戻されることからも、容易にその存在を確かめることができる。」

「人は背景的身体感覚の存在にほとんど気付かないが、それは身体の特定の一部を表象しているのではなく、身体のほとんどすべてについての包括的状態を表象しており、継続的なものである。そのような、止めることのできない身体状態の表象があるからこそ、<ご気分はいかがですか?>という具体的な質問に、気分がいいとかあまりよくないとか、すぐ返事ができるのである。」

現在の身体の背景的な状態が、きまって継続的にモニターされているものならば、それを普段意識できないでいるとしたら、それらは、無意識的な領域で起こっていることだとするしか考えようがない。何故なら、ダマシオの定義によれば、感情は、まず意図された熟考があってメンタルイメージが形成され、そのあとに、身体の状態が並置されるものだからである。私たちは、普段、現在の自分の身体状態について、どうなっているのかというような意識的な熟考をまずしない。私がそれを感じることが出来ないでいるとしたら、現在ただ今の私の身体状況をメンタルイメージとしてイメージし、それに伴って、現在の私の身体状態を並置しているのは、脳自体しかいない。なぜそんなことを脳はしているのか、もちろん、生存の最適化のためである、としか言いようがない。
ダマシオが何故背景的感情というものを着想し得たのか。それは彼が臨床医でもあるからだろう。幻肢者や、とくに先に述べた病徴不覚症の患者を彼が診たことが、彼にこの発想をもたらしたようだ。

「この種の表象に対する一番の証拠は、…幻肢である。外科的に腕を切断されてからでも、患者は失った腕がまだそこにあるかのように思っている。彼らは存在しない腕の想像上の変化―特定の動き、痛み、温度などーを知覚することができる。失った腕からのオンラインのインプットが存在しないので、その腕に対する指示的表象からのインプットが優勢になるというのが、この現象に対する私の解釈である。言い換えれば、それは以前獲得した記憶の想起を通しての再構築である。」

以前に獲得された、身体状態の包括的な、全体的な身体マップが、長期記憶のどこかの部屋に存在するということ。それは<オフライン>としての存在で、神経回路のどこかに休眠しているのか、うすら明かりのような状態で無意識的に、常時点描されているのかは不明だが、とりあえずそうした包括的な身体マップがあって、そこにある腕(じつは失われているのだが)からの指示的表象、すなわちインプットが優勢になって、失われているにもかかわらず(オンラインからのインプットが存在しないにもかかわらず)、まだあるかのように幻肢患者は思ってしまう。ということは、さらに言えば、私たちの神経回路における身体的な表象は常に、二重的だと言えないか。つまり神経的回路における、身体の各部位の表象は、その部位と、背景的な、包括的な、全体の身体マップ上のその部位との二重的な表象になっているのではないのだろうか。ダマシオが提示した、私たちが普段、非情動的な身体状態で経験している背景的感情というものは、脳それ自体が無意識的領域で形成した身体に対するメンタルイメージと、現在の私たちの身体状態の並置だということではないだろうか。

病徴不覚症

最後にダマシオが、その背景的感情という概念を着想したと思われる、病徴不覚症についてのダマシオの言説を聞いておこう。

「この病徴不覚症のような脳損傷パターンは、身体状態の地図化に関わっている領域相互のやり取りを不能にしてしまう。それらの領域そのものを破壊してしまうこともしばしばある。身体の右半分と左半分からのインプットを受け取っているこれらの領域は、すべて右半球にある。その中心的な領域は島、頭頂葉、そして両者の連結部を含む白質に、さらには、視床、前頭皮質、基底核と行き来する連結部を含む白質にある。」

「背景的感情という概念を使えば、私が病徴不覚症で起きているのではないかと思っていることを説明することができる。病徴不覚症患者は、現在の身体状態のインプットをうまく利用することが出来ないから
、自分自身の身体表象を最新のものに更新することが出来ない。その結果、体性感覚システムを通してそっこくかつ自動的に、自分自身の身体風景が変化していることを認識することが出来ない。一方彼らは依然として、自分自身の身体がどのようものであったかというイメージ、すなわち、今や過去のものとなったイメージを、心の中で形成できる。かってその身体は申し分なかったわけで、彼らが語っているのはそれについてである。」

「彼らは身体の一部ではなく、ほとんど身体全体についての情報が、場合によってはその双方の情報が欠如しているところが違う。最新の身体信号が欠如しているので、運動障害について非合理的な報告をするだけでなく、自分自身の健康状態に関して場違いな情動と感情を持つようになる。……事実を示し、それをもとに自分の状態を推論するように仕向けると、自分が置かれている新しい状況を一時的には認識する。しかしその認識はすぐに忘れ去られる。つまり感情というものを通して自然にしかも自動的に生じたものでなければ、心の中に維持されないということである。」


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事