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北海道創生!連綿たるオフォーツクのアイヌ人の文化を学び環オフォーツクの平和と繁栄を!

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樺太の歴史








樺太の歴史

氷河期には大陸と陸続きだった。古代以前は続縄文人(南部に進出)や、オホーツク文化人(日本書紀に記される粛慎)などが存在し、鎌倉時代以降は南部にアイヌ民族や和人が進出、東岸中部にウィルタ民族(アイヌ民族は「オロッコ」と呼んだ)、北部にニヴフ民族(ニヴヒとも。アイヌ民族は「スメレンクル」と呼んだ)などの北方少数民族もいた。

日露競合前

中国、朝鮮の古書(山海経海東諸国記)には、いずれも「日本の北(又は領域)は黒龍江口に起こる。」と記載。また、飛鳥時代斉明天皇のころ行われた蝦夷征討・粛慎討伐の際、阿倍比羅夫が交戦した幣賄弁島は樺太との説もある。
  • 640年 - 「流鬼」(オホーツク文化人?)がに入貢。
  • 660年(斉明天皇6年)3月 - 阿倍比羅夫、『日本書紀』に記される粛慎を討つ。比羅夫は、粛慎に攻められた渡島の蝦夷に大河のほとりで助けを求められ、幣賄弁島まで追って粛慎と戦う。能登馬身龍が戦死するもこれを破る。



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  • 1284年1286年 - 元、聶古帯(ニクタイ)を征東招討司に任じ、骨嵬征伐が20年ぶりに実行される。
  • 1295年 - 日持日蓮宗の布教活動の為に樺太へ渡り、本斗郡本斗町阿幸に上陸し、布教活動を行ったとされる。
  • 1297年永仁5年)5月 - 蝦夷沙汰職・蝦夷代官安藤氏蝦夷(樺太アイヌ)を率いて外満州黒龍江流域に侵攻しキジ湖付近で元と交戦
  • 1308年 - 吉里迷を仲介として、骨嵬が毛皮の朝貢を条件に元朝への和議・帰順を申し入れた。以降、骨嵬と元朝の戦いは終了。
  • 1336年1392年南北朝時代)の具足甲冑)が樺太から出土している。
  • 1368年 - 元が中国大陸の支配権を失い北走、満洲方面を巡って新興のを交えての戦乱と混乱が続き、樺太への干渉は霧消する。
  • 1411年 - は進出した黒龍江(アムール川)下流域、外満州のティルに奴児干都司設置。周辺諸民族に対し冊封を行う際、樺太北部3箇所の先住民首長にも名目的に衛(羈縻衛)指揮官の称号を付与[15]。これを介し南樺太以南に住むアイヌ民族と交易する(山丹交易も参照)。
    • 1410年 - 北樺太東岸トゥイミ川流域の先住民(ウィルタ)首長が明に朝貢、兀列河(ウリエホー)衛の指揮官の称号を授与される。
    • 1412年 - 北樺太西岸リャングルの先住民(ニヴフ)首長が明に朝貢、嚢哈児(ナンハル)衛の指揮官の称号を授与される。
    • 1428年までに、樺太中部幌内川流域の先住民(ウィルタ)首長が明に朝貢、波羅河(ポロホー)衛の指揮官の称号を授与される。
  • 1435年 - 奴児干都司が廃止され、樺太北部3衛の先住民は明への朝貢から解放される。
  • 1485年 - 樺太アイヌの首長が、蝦夷管領安東氏の代官武田信広松前家の祖)に銅雀台を献じ配下となる。
  • 1593年 - 豊臣秀吉松前慶広に先住民であるアイヌの保護を行うとともに、諸国から集まる人々を取り締まり、従来どおりこれらから税を取り立てる権利を認めた。
  • 1603年 - 松前藩によって宗谷利尻礼文・樺太を司さどる役宅が置かれた。

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以下に幕府が把握した北蝦夷地(樺太)のアイヌ人の人口と、明治政府が把握した樺太人員の本籍人口をまとめる。


1808年 - 江戸幕府が、最上徳内松田伝十郎、間宮林蔵を相次いで派遣。松田伝十郎は樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の国境標を建てる。 1809年 - 間宮林蔵は樺太がであることを確認し、呼称を北蝦夷地と正式に定める。松田伝十郎が樺太アイヌ住民の問題解決に貢献[19]した。また、山丹貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。
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1821年 - 幕府、全蝦夷地を松前藩に返還する。 1848年 - ロシアの東シベリア総督ムラヴィヨフは海軍軍人ゲンナジー・ネヴェリスコイにアムール河口部およびサハリン沿岸の調査を依頼。間宮海峡を初めて船舶で通過した。


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日露の領土競合時代

  • 1853年
    • ロシアが、北樺太北端クエグト岬に露国旗を掲げ、領有を宣言。同年秋、ネヴェリスコイ海軍大佐は久春古丹にムラヴィヨフ哨所を築き、国旗を掲揚し樺太全島の領有を宣言。哨所を築いた場所に日本人の倉庫があったのでこの建物を接収した。
    • ロシア使節プチャーチン来日。長崎に於いて樺太・千島の国境交渉と交易を求め、日本全権筒井肥前守川路聖謨と交渉したが決裂。北緯50度線分割案も検討されたが、日本に属するアイヌの居住地(西岸は北緯50°より少し北のホロコタン(幌渓、露名:ピレオ。樺太西岸におけるアイヌ居住地北限)以南、東岸は北緯48.5°のフヌプ(元泊郡元泊村婦礼)以南)は日本領、それより北もロシアの支配が及ばない無主地として国境交渉。当時、樺太の住民は南部の日本人(アイヌ及び和人)、東岸中部以北のウィルタ、北部のニヴフのみ。間宮海峡対岸の外満州でさえ清国領であり、ロシア領ではなかった。
  • 1854年(嘉永7年)千島列島、全樺太島やカムチャッカ半島までも明記した「改正蝦夷全図」なる(加陽・豊島 毅作)

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  • 1854年(嘉永7年)5月18日、クリミア戦争の影響を受け、ロシア船4隻が来航し駐留のロシア兵を撤収してクシュンコタン(久春古丹)を去った。
  • 1854年(安政元年) - 日露和親条約により、日露国境を樺太島上で定めず是までの仕来りによることを決定した。
  • 1855年(安政2年) - 樺太を含む蝦夷地は再び公議御料(幕府直轄領)となり、秋田藩が白主と久春古丹に陣屋を築き警固を行った。
  • 1856年(安政3年) - 幕府、樺太東岸の中知床岬長浜郡外知床村)以北および西岸のノタサン(野田郡野田町)以北を樺太直捌場所とした。箱館奉行所の支配組頭・向山源太夫が5〜8月に樺太の調査のため訪れている。
  • 1857年(安政4年)
    • 越後出身の蝦夷地御用方・松川弁之助が東岸のオチョポカ(富内郡富内村落帆)に漁場(ぎょば)を開拓する。
    • 北緯48度の地峡の両端にあたる西岸・クシュンナイ(久春内郡久春内村)と東岸・マーヌイ(栄浜郡白縫村真縫)に少数のロシア兵が定住し、はじめて日露両国人の部分的な雑居状態が生じる。これを除くと、当時、樺太に居住するロシア人はニヴフ居住地の北樺太西岸・オッチシ(落石、露名:アレクサンドロフ・サハリンスキー)に12名のみである。
  • 1858年 - 幕府は大野藩土井利忠に北蝦夷地警固と開拓を命じた(大野藩準領ウショロ(鵜城)場所)。ウショロ場所には、名好郡やホロコタン(幌渓、露名:ピレオ)も含まれた。同年、クシュンナイ周辺が箱館奉行石狩役所の直捌場所となった(石狩御直場所)。
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  • 1859年 - ムラヴィヨフは、自ら軍艦7隻を率いて品川に来航。樺太全土は露領と威嚇、主張したが、1859年(安政6年)7月26日、虎ノ門天徳寺における江戸幕府とムラヴィヨフの会談の席上、幕府は外国事務掛遠藤胤統酒井忠毘を通してこれを完全に退けた。
  • 1862年 (文久2年)
    • 安房勝山藩、藩士渡辺隆之助を派遣、東岸のシスカ(敷香郡敷香町)に漁場を開設。東岸でフヌプより北に居住するアイヌは60名で、多来加湾岸は東岸におけるアイヌ居住地北限であるが、特に多来加湖周辺ではニヴフやウィルタと混住していた。
    • 勤番所、クシュンコタン、シラヌシ、西トンナイ(真岡郡真岡町)、ワーレ(栄浜郡白縫村輪荒)、クシュンナイの5ケ所となる。
  • 1865年 - 岡本監輔が、樺太最北端ガオト岬(北緯55度)に至り、「大日本領」と記した標柱を建てる。
  • 1867年 - 樺太島仮規則調印。樺太全島を日露雑居地[22]とされた。以降、ロシアは囚人を送込み軍隊を増派して北緯48度以南や日本の本拠地である樺太南端・亜庭湾岸までの軍事的制圧に着手。
  • 1869年頃 - 北蝦夷地を樺太と改称
  • 1870年2月13日 - 樺太開拓使が開拓使から分離して、久春古丹に開設される。
  • 1871年8月7日 - 樺太開拓使を閉鎖し、開拓使に再度統合する。


1880年代の樺太へのロシアの流刑者。

全島のロシア領期


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南部の日本領期

  • 1905年(明治38年)9月5日 - 日露戦争勝利後のポーツマス条約締結により、北緯50度以南の樺太島(南樺太)がロシアより日本領に復帰。行政機関として樺太民政署が設置される。
  • 1907年(明治40年)4月1日
    • 樺太民政署の発展的解消により樺太庁発足。
    • 樺太ニ施行スヘキ法令ニ關スル法律(明治40年法律第25号)施行。

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  • 1908年(明治41年)3月31日 - 内務省告示にて、地名を日本語式漢字表記に変更。
  • 1911年(明治44年) - 三井合名会社が樺太国有林の伐採権を得る。
  • 1913年(大正2年) - 樺太守備隊廃止。以降、国境警察隊が国境警備を担当。
  • 1915年(大正4年)6月26日 - 勅令第101号樺太ノ郡町村編制ニ関スル件により、17郡4町58村が設置される。
  • 1918年(大正7年) - 共通法(大正7年法律第39号)(大正7年4月17日施行)1条2項で樺太を内地に含むと規定[27]され、終戦まで基本的に国内法が適用されることとなった。
  • 1920年(大正9年)
    • 5月1日大正9年勅令第124号(樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件)[28]公布。樺太に施行される法律に勅令により若干の地方的又は種族法的な性質を有する特例を設けるとされた。ただし、勅令第124号廃止まで内地に準ずる扱いは変わらず。
    • シベリア出兵の際尼港事件の発生を受け、7月、この事件について責任と賠償を求め、サガレン州派遣軍を派兵し北樺太を占領[29][30]する。
  • 1923年(大正12年)

転載元転載元: 美しい国と心と土と水を護る

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こんにちは 通りすがりの者です。
現在、家系図作りをしており、祖父が樺太に住んでいたため
WEB検索し、たどり着きました。樺太の情報はWEB上でも少なく
このようなブログはありがたいです。また寄らせていただきます。 削除

2019/4/3(水) 午後 9:54 [ 通りすがり ] 返信する

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