読書のあしあと

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書評35 小川洋子

『博士の愛した数式』

(新潮文庫、2005年)


第一回本屋大賞を受賞し、読売文学賞まで受賞して、大ベストセラーになった本書。今年一月には映画化され、しかも主役が私の大好きな寺尾聡と深津絵里ということで、以前から小川洋子自体も好きだった私としては、映画も観ないわけにはいかないと思った。

そこで映画を観る前に原作を読んでおこうと手にとった、というわけです。


【著者紹介】
おがわ・ようこ 1962年生まれ。小説家。
早稲田大学第一文学部文芸科卒業。兵庫県芦屋市在住。2006年1月、本屋大賞を受賞した『博士の愛した数式』が映画化され話題を呼ぶ。『薬指の標本』がフランスで映画化されるなど海外での評価も高い。阪神タイガースのファンとしても有名。
1988年「揚羽蝶が壊れる時」で海燕新人文学賞、1991年「妊娠カレンダー」で芥川賞、2004年『博士の愛した数式』で読売文学賞・本屋大賞、同年「ブラフマンの埋葬」で泉鏡花文学賞をそれぞれ受賞。他の著書に『密やかな結晶』(講談社文庫)、『薬指の標本』(新潮文庫)、『貴婦人Aの蘇生』(朝日新聞社)など多数。


【本書のあらすじ】
[僕の記憶は80分しかもたない]博士の背広の袖には、そう書かれた古びたメモが留められていた──記憶力を失った博士にとって、私は常に“新しい”家政婦。博士は“初対面”の私に、靴のサイズや誕生日を尋ねた。数字が博士の言葉だった。やがて私の10歳の息子が加わり、ぎこちない日々は驚きと歓びに満ちたものに変わった。あまりに悲しく暖かい、奇跡の愛の物語。(新潮文庫裏表紙より)


お勧め度:★★★★★

【本書の感想】

<全体の感想>
「面白い」とか「一読の価値がある」ではなくて、「ずっとこの世界に浸っていたい」と思える本に久しぶりに出会った。読売文学賞・本屋大賞ダブル受賞もダテではない。まぎれもなく、後世に残る名作になるだろう。
以前から小川洋子は私にとって、現代の作家の中では1,2を争う好きな作家で、中でも『密やかな結晶』(講談社文庫)がお気に入りだった。が、本書によって間違いなく現代日本作家No.1になった。

思うに、この作品の魅力は三つある。第一に、惹きつけられる登場人物。第二に、作品の輪郭を細部まで構成する、「数学」というファクター。第三に、登場人物と「数学」が織りなす、作品の世界観。これらは相互に絡まりあっており、補完関係をなす。以下、順を追って感想を述べていきたい。


<登場人物の魅力>
物語の中心人物の一人、「博士」は80分しか記憶がもたない病気である。その本業は数学者であるが、病気のために毎日“Journal of Mathematics”誌の懸賞論文と格闘して過ごす。しかし80分後には記憶が17年前に戻ってしまうために、生活に必要な事柄を記したメモが体中に貼り付けられている。

そんな博士は、とても繊細な人だ。私は文系人間だが、博士の描写には理系人間ならではの繊細さがよく表れていると思う。
彼の家で家政婦として働き始めた「私」は、名前をきかれる前に誕生日や靴のサイズをきかれる。博士が挨拶代わりに数字を持ち出す理由を、「私」はこんなふうに考える。

何を喋っていいか混乱した時、言葉の代わりに数字を出すのが博士の癖なのだと判明した。他人と交流するために博士が編み出した方法だった。数字は相手と握手するために差し出す右手であり、同時に自分の身を保護するオーバーでもあった。……それさえ着ていれば、彼はとりあえず自分の居場所を確保できた。(14項)

また、博士が大ファンの江夏豊の野球カードをプレゼントを渡したときの様子はこうである。

プレゼントを贈るのは苦手でも、もらうことについては博士は素晴らしい才能の持ち主だった。……彼の心の根底にはいつも、自分はこんな小さな存在でしかないのに…という思いが流れていた。数字の前で跪くのと変わりなく、私とルートの前でも足を折り、頭を垂れ、目をつぶって両手を合わせた。……博士はリボンを解き、しばらくカードを見つめ、一度何かを言おうとして顔を上げるが、ただ唇を震わせるだけで何も語らず、まるでそれがルート自身であるかのように、あるいは素数そのものであるかのように、いとおしくカードを胸に抱き寄せた。(275─276項)

博士はとても繊細で、一つひとつの物事を大切にする人だ。パンが焼き上がる過程にも、料理の盛り付けにも、一枚の野球カードにさえ難しい証明と同等の「美しさ」を見る。
こういうところを読むと、普段見過ごしていることや見慣れている数字が、見ようによってはいかに美しくかけがえのないものであるかが身にしみる。


魅力的なのは博士だけではない。「私」の息子は博士によって「ルート」と名付けられるが、この息子がなかなか賢い。もちろん歳相応の無邪気さはあるのだが、80分しか記憶がもたない博士に話を合わせ、数学の話を聞いてやったり、おとなしく頭をなでられたりしているところなどは、自分が10歳ならとてもできない芸当だ。博士と「私」の関係は、ルートを介すことによって徐々に馴染んでいくことになる。
それ以上に、博士を信頼しなかった「私」に対してルートが腹を立てて泣き出す章などはルートが主人公になった感さえある。

こういった、それぞれに魅力的な人物が物語を進めていく。


<「数学と文学の結婚」>
「博士」のモデルであり文庫版解説を書いている数学者・藤原正彦は、本書の魅力を「数学と文学の結婚」(「解説」291項)と表現した。
小川洋子(の描く博士)の手にかかれば、無味乾燥な数学もたちまち世界を彩る色彩画である。

「私」の誕生日からくる“220”と博士の腕時計の裏に刻まれた数字“284”が友愛数であることをはじめ、博士は身近な数字に意味を見出していく。

普段使っている言葉が、数学に登場した途端、ロマンティックな響を持つのはなぜだろう、と私は思った。友愛数でも双子素数でも、的確さと同時に、詩の一説から抜け出してきたような恥じらいが感じられる。イメージが鮮やかに湧き上がり、その中で数字が抱擁を交わしたり、お揃いの洋服を着て手をつないで立っていたりする。(90項)

純粋で繊細な博士が教えてくれる数学の世界は、文系の人間でもわかるほどに美しい。


<文体と世界観>
魅力的な登場人物と「数学」という主役が本作品の世界観を作る。冒頭に書いたように、「ずっとこの世界に浸っていたい」と思えるのは、この世界観に由来する。

例えば、ルートがタイガースの選手のデータをノートにまとめている場面での、博士とルートの会話。

「規定打席はどうやって求めたらいいの?」
「試合数に3.1をかければいい。小数点以下は切り捨てるんだ。」
「四捨五入しなくていいの?」
「ああ、そうだよ。どれ、見せてごらん……」
博士は本を閉じて椅子に置き、ルートのそばにいく。メモ用紙がさわさわとつぶやく。博士は片手を食卓につき、もう片方の手をルートの肩にのせる。二人の影が重なり合う。椅子の下で、ルートが足を揺らす。私はオーブンにパンを入れる。やがて、野球中継の始まりを知らせる音楽が聞こえてくる。……
「今日は絶対負けられないんだ」ルートは毎日そう言っている。
「さぁ、先発は江夏かな」博士は老眼鏡を外す。……
私たちはマウンドへ向かう先発ピッチャーの、スパイクの足跡を思い浮かべる。パンの焼ける匂いが、食堂中に満ちてくる。(226─227項)

柔らかい文体で、静かだが幸せな三人が描かれる。それは何でもない日常だが、読んでいてこんなに心地よい場面はない。

こんな場面もある。
夕食のために卵を割る「私」の手元をじっと見つめる博士に我慢できず、「私」が「何か、ご用でしょうか…」とたずねると、博士の口から思いがけない言葉が飛び出す。

「君が料理を作っている姿が好きなんだ」博士は言った。私はボウルに卵を入れ、菜箸でかき混ぜた。好きだ、という言葉が耳の奥でこだましていた。そのこだまを鎮めるように、できるだけ頭をからっぽにして卵に集中しようとした。調味料が溶けても、だまがなくなってもまだ、箸を動かし続けた。(206項)

こういう雰囲気は、小川洋子特有の、透明感のある柔らかい文章だからこそ作れるものだと思う。決して三人の登場人物と「数学」というファクターだけで可能な世界ではない。以前から小川の文体は好きだったが、本書でそれを再確認した。


<おわりに>
そのほか、色々考えさせられる部分もある。
80分しか記憶がもたない博士は、毎朝服についたメモによってその事実を確認し、闘わなければならない。しかし自分の中で気持ちの整理をつけても、また80分後にはその残酷な事実を知らされ、同じ葛藤を繰り返さねばならないのである。この博士の姿は、短評4・荻原浩『明日の記憶』で主題化された、「記憶の喪失を自覚する」という恐怖をどう受け止めるのかという問題を思い起こさせる。

さて、以前から小川洋子は好きだったが、本書も期待に違わず好きな作品になった。ベストセラーは読まない方だが、本書がベストセラーになった理由もわかる。映画も観るのが楽しみになってきた。
これを機会に小川洋子を読み直してみようかな。

閉じる コメント(18)

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私も原作を読んで,映画を観ました。で,記事を5本も書いてしまいました。「ずっとこの世界に浸っていたい」という感覚,わかります。数学と野球の取り合わせ。博士と少年と家政婦の取り合わせが“友愛数”的なのかもしれません。

2006/8/24(木) 午前 8:23 NONAJUN 返信する

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NONAJUNさん、コメントありがとうございます。5本も記事書かれたんですか(笑)、すごい思い入れですね。でもそれもわかる気がします。私も分割書評にしようと思ったのですが、一気に書いてしまいたくて、一回で終わらせました。本棚にしまう時に「また読みたいな」と思いながらそっと並べました。

2006/8/24(木) 午後 3:41 大三元 返信する

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訪問&トラックバックありがとうございます。私が記事を書いたときに「博士の愛した数式」や「博士が愛した数式」(この間違い多いんです)への感想をあっちこっちのブログを読みましたけど,小説の方のレビューとしては大三元さんのものは出色だと思います。私の方からもトラックバックします。

2006/8/24(木) 午後 4:52 NONAJUN 返信する

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映画を観たらまた記事をアップして下さいね。

2006/8/24(木) 午後 4:53 NONAJUN 返信する

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論点が絞られていてとてもわかりやすい書評ですね。確かに一本の筋が通っている!強烈!ではないですが、何気ない日常の世界観に浸っていたい小説ですね。私も、博士が料理している「私」の姿を見ているところが印象的でした。「美」を認識できる人は、日常のどんなところにも見つけ出せるのだろうなあと思って。私もトラックバックさせてくださいね。

2006/8/24(木) 午後 10:30 mepo 返信する

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>NONAJUNさん:「出色」との言葉、ありがとうございます。私は文学自体はあまり得意ではないので、読み方も感想も未だ修行中です。皆さんにも何か感じてもらえるような記事を書いていきたいものです。今後ともご批判・叱咤激励よろしくお願いします。

2006/8/25(金) 午前 0:12 大三元 返信する

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>NONAJUNさん:私は映画に関しては文学以上に不得意なので、まともな感想が書けるかどうか…(苦笑)。でも、観たら拙いながらも書いてみようとは思っています。

2006/8/25(金) 午前 0:13 大三元 返信する

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>mepoさん:コメント&トラックバックありがとうございました!実はmepoさんのコメントで100comentです。私自身、こういう「美」の感覚はあまり持っていないと自己分析していますので、博士みたいな人は本当にうらやましいと思いました。それでも、できるだけ身の周りに「ある」美を「発見」していきたいものですね。

2006/8/25(金) 午前 0:17 大三元 返信する

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はじめまして♪コメント&TBありがとうございました。とても詳しく深い作品評でじっくりと読ませていただきました。これは原作も映画もよかったですね。数字の美学が感じられて普段自分がいるのとは違う世界を堪能できました。TBお返しさせてくださいませ。

2006/12/6(水) 午後 4:36 choro 返信する

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>Choroさん:こちらもコメント&トラックバックありがとうございます。この本は映画を観るために読んだんですが、実はまだDVDプレイヤーが壊れっぱなしで観れてないんですよね〜。。。そのうちテレビでやらないかなぁと期待しているんですが(笑)。

2006/12/6(水) 午後 6:56 大三元 返信する

初めてお邪魔いたします。トラバありがとうございました。拙い記事ですがこちらからもTBさせていただきます。この作品周辺のことなども実によくお調べになっているのですね。今後もいろいろ教えていただきたいです。よろしくお願いいたします。

2006/12/11(月) 午後 0:43 しろねこ 返信する

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>しろねこさん:コメント&トラバありがとうございました。こちらこそ基本的に取り上げる本はマイナーなものばかりですが、今後ともよろしくお願いいたします。

2006/12/11(月) 午後 2:52 大三元 返信する

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大三元さん、コメントとトラックバックありがとうございます。
とても優しい気持ちになりました。
この作品の世界が感じられました。

2008/2/11(月) 午後 8:44 miffy_toe 返信する

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>すてさん:古い記事にコメントありがとうございます。この本はまさに「名作」の名に相応しいですね。

2008/2/11(月) 午後 10:50 大三元 返信する

TBありがとうございました^^
こちらからもTB、ファンポチもさせていただきますね☆

2008/5/2(金) 午後 7:17 [ - ] 返信する

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>U_Uさん:トラバ&ファン登録ありがとうございました。今後ともよろしくです。

2008/5/3(土) 午前 2:19 大三元 返信する

「博士の愛した数式」、、、私も気に入った本でした♪
居心地の良い空間が書かれていました。。。
(*^-^*)/~

2010/1/18(月) 午後 10:45 さ ん ぽ 返信する

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>さんぽさん:トラバありがとうございました。さんぽさんも気に入られたのですね。これは本当に名作ですよね。

2010/1/18(月) 午後 11:10 大三元 返信する

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