読書のあしあと

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書評41 佐藤俊樹

『00年代の格差ゲーム』

(中央公論新社、2002年)


玄田有史『仕事の中の曖昧な不安』を読んでから、ちょくちょく「格差社会論」関係の本を読んでいる。その流れで本書を古本で見つけたので買ったきた。

佐藤俊樹のことは『不平等社会日本』の著者として知っている人が多いのではないだろうか。私自身もその一人であり、その後の佐藤の「格差社会論」を知りたくて本書を読んだ。


【著者紹介】
さとう・としき 1963年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科助教授。専攻は比較社会学、日本社会論。
東京大学大学院社会学研究科博士課程中退。東京工業大学工学部社会工学科助教授を経て現職。『不平等社会日本』により、宮台真治や大澤真幸らとともに新世代を担う社会学者として評価されている。サブカルチャーについても造詣が深く、かなりのアニメファンでもある。
著書に『近代・組織・資本主義――日本と西欧における近代の地平』(ミネルヴァ書房、1993年)、『ノイマンの夢・近代の欲望――情報化社会を解体する』(講談社選書メチエ、1996年)、『不平等社会日本――さよなら総中流』(中公新書、2000年)、『桜が創った「日本」――ソメイヨシノ 起源への旅』(岩波新書、2005年)など。


【目次】
1 大衆憎悪社会
2 階層の閉域、言葉の閉域
3 00年代の格差ゲーム
4 暴力の現在形
5 横断されるメディア


【本書の内容】
“平等神話”の崩壊後―─それはすでにはじまっている…『不平等社会日本』を超え、犀利な「言葉」が私たち自身の「欲望の現在形」をうつしだす。(中央公論新社紹介より)


お薦め度:★★★☆☆

【本書の感想】

<全体の感想>
どこかで佐藤俊樹のことを「クールに現状分析する社会学者」と評していたのを読んだことがある。確かに佐藤はどの著作でも、一貫して社会から「一歩引いて」冷静に分析するスタンスを取っている。本書のタイトルになっている「格差ゲーム」というキーワードからも、社会現象を「ゲーム」として捉える冷静さがうかがえる。

本書は『不平等社会日本』出版後に様々な媒体(新聞・雑誌・パンフレットなど)に書かれた論説を集めたものなので、体系性は全くと言っていいほどない。扱う題材も、格差社会、ポピュリズム、メディア論、9.11テロ、ナショナリズム、ポストモダニズムなど幅広い。こういう体系性の欠如は論文集には免れない宿命ではあるが、本書はそれを差し引いてもちょっと散漫すぎるかな、という印象を受けるのは確かである。

以下では、本書の核となる主張を引用しながら、思ったところを述べていきたい。


<“弱者”がいなくなる「機会の平等」社会>
「自己責任にもとづく小さな政府へ」「結果の平等から機会の平等へ」というスローガンは、もはや誰も反論できないほどの支持を得て、時代を覆う雰囲気を作っている。それに佐藤は疑問を投げかける。もっともそれは「結果の平等」を擁護する立場からではない。

本書を貫く基調のひとつになっているのは、「機会の平等を掲げる社会は、弱者ではなく敗者をつくる」というテーゼである。
ここには様々な仕掛けがあるが、その一つは「機会の平等」と言ったときに、その「機会」がどういう「機会」なのか一つに絞れないことである(34─36項)。平等かどうかを判定すべき「機会」は複数あるのだ。
たとえば会社員を例にとると、ある一つの仕事をやるときに、元手の資金が平等なのか、持っている情報量が平等なのか、仕事をする上での人脈が平等なのか……これらは全て仕事をする上での「機会」と捉えることができる。すぐ気づくと思うが、実はこの「機会」なるものの平等さは簡単には測れるものではない。逆に言えば、もしそこに「機会の平等」を持ち込めば、判定できないことを強引に判定することになる。

たとえ自分のせいでなく痛みを押し付けられたとしても、あくまでもフェアな競争によって負けたことにされる。“弱者”ではなく、単なる“敗者”にされるわけだ。機会の平等原理を掲げる上で、いちばん注意すべき点はここである。機会の平等を完全に確保されたと認められる状況は実はほとんどない。努力だけで成功/失敗が決まるといえるスタート地点、いわばみんな並んでヨーイドンで走り出せる競技場は、現実には存在しない。……たとえどんなに理想的な市場をつくったとしても、その市場へのアクセスにおいてすでに人は平等ではない。(「そして“弱者”がいなくなった」37─38項)

機会の平等を掲げる社会では、このように“弱者”が消え去っていく。


結果の平等を掲げる社会では、まず“弱者”=被害者がいて、その不平等を是正するのが社会の責任である、という構造になる。自分がいまだに“弱者”なのは社会の責任だ、と思うことができる。そこでは個人の責任が問われず無責任体制がはびこる可能性があるが、“弱者”は自己否定感に苛まれずに済む。
しかし、機会の平等を掲げる社会の“敗者”はそうはいかない。上述のように現実には実現されなくても「機会の平等」というタテマエを掲げるから、「“敗者”からすれば、敗れたのは自分のせいではないが、周囲はそうと認めない」(40項)。その“敗者”の鬱屈は、自己否定におさまることができず、結局他人への憎悪として爆発するのである。


<必要なのは不完全な競争に対する代償>
かといって結果の平等社会に戻ればいいかというとそうでもない。そこで、佐藤はこう主張する。

不完全な競争しかできないことをまず認めるしかない。その不完全さはセーフティネットで補償する。不完全な競争に人間を一生さらしてはならないのだ。その保護は「敗者への施し」でも「弱者救済」でもない。不完全なまま競争させることに対する正当な代償である。その上でどういう根拠で“敗者”となったかをはっきりさせる。不完全な競争であるのを認めたうえで、なぜ「あなたを敗者にしなければならないか」を説明する。その説明責任から逃げれば、機会の平等社会も結局は崩壊するだろう。(同上、42─43項)

なるほど。確かにアンフェアな競争をフェアというタテマエで隠そうとしているのが現状の「成果主義」とか「自由競争」かもしれない。アンフェアな競争で負けたのにフェアな競争で負けたことにされた人々の不満は、自己否定を超えて社会の否定に向かうのだろう。
といって、佐藤自身が指摘するように、結果の平等にはもう戻れないし、戻るべきでもないだろう。「不完全なまま競争させることに対する正当な代償」を、われわれの社会は持っているだろうか。


また本書を読んでいて、フリードマン『レクサスとオリーブの木』に感じた違和感の一つの理由がわかった。フリードマンは自由競争に乗り遅れた国や企業や人々を「自業自得」と断じ、自由市場への参入こそ生き延びる道であると主張するが、その思想の根底には「完全にフェアな市場」を夢想しているのである。私がフリードマンの議論に違和感を覚えたのはその市場観に対するものであったことに、本書を読んで思い当たった。
フリードマンのように、世界的な経済格差を自由市場へ参入していないからだと断ずるだけでは、“憎悪”は増幅するばかりだ。自由市場への流れは止めるべきでもないが、その際にも「市場へのアクセスにおいてすでに人は平等ではない」ことを常に意識する必要があるだろう。


<おわりに>
そのほか、「格差が拡がった」と感じるのは、今までが必要以上に「平等だ」と強調しすぎたことと現在が必要以上に「格差がある」と強調しすぎていることのギャップが原因だという主張や、日本の新聞が「大衆紙=クオリティ・ペーパー」という図式を維持できたのも戦後の「総中流幻想」の産物だという分析など、興味深い指摘が多い。社会学者だけに実証分析もしっかりしている。

評論集だから割に軽い内容だし、文章も読みやすいので、軽く「格差社会」について考えてみたい人にはお薦め。

閉じる コメント(10)

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実に面白い論旨ですね。私などは単純ですから、ほとんどこの論旨に納得してしまいそうです。私は、現在の『平等論』には、一信教の悪意を感じます。『人は神の前に平等であり・・・』と言うあれです。すべての人が同一の条件化で生まれない以上、同じスタート地点に立つことさえ難しいと言う単純な事実を無視していますよね。(ちょっと偏見が強いですね)

2006/9/27(水) 午前 1:58 [ gak*1*66* ]

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gakiさん、コメントありがとうございます。日本の宗教の多くは多神教である(あるいは多くの日本人が「無宗教」と自己規定している)という事実からすると、日本の分脈では一神教に平等志向の根拠を見るのは議論のあるところかもしれません(機会の平等の本家、アメリカは一神教ですが)。しかし、そうすると戦後の「総中流幻想」のような日本人の平等志向はどこからくるのか、ますます疑問になりますね。そこらへんも勉強してみたいです。

2006/9/27(水) 午前 6:25 大三元

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「機会の平等を掲げる社会は、弱者ではなく敗者をつくる」という言葉に興味を持ちました。もしかすると,「弱者」が必ずしも「敗者」ではなく,「強者」が必ずしも「勝者」になるわけではないということにもなるのでしょうか。

2006/9/29(金) 午前 1:13 NONAJUN

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NONAJUNさん、コメントありがとうございます。ご指摘の、「『弱者』が必ずしも〜」というのは、社会民主主義型の「結果の平等」志向の社会において成立するテーゼだと思います。そういう社会では“弱者”が「敗者」として認識されるのではなく「被害者」として認識されるのだ、というのが佐藤俊樹の指摘です。

2006/9/29(金) 午前 8:05 大三元

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逆に「機会の平等」社会では勝者と敗者を作らないといけないので“弱者”は不可避的に「敗者」に翻訳されてしまう、という主張になります。その意味では、これから「機会の平等」にシフトしようとする日本社会で「勝ち組/負け組」というフレーズが流行ってしまうのも、一応の論理性はあるわけですね。もっとも記事本文にも書いたように、佐藤自身はまさに勝ち負けというレッテルだけが一人歩きするのが問題だ、という立場なんでしょうけれど。

2006/9/29(金) 午前 8:05 大三元

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なるほど,面白いですね。「敗戦後」と「(終)戦後」という言葉のはざまで生きてきた日本人にとって,「弱者」や「敗者」という言葉の意味がどのように変容しつつあるのかということに興味が湧いてきました。

2006/9/29(金) 午前 8:30 NONAJUN

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なるほど、格差問題を「敗者」というフレーズで『敗戦後論』と結びつける視点は思いつきませんでした。そう言われてみると、確かに戦後日本は「敗戦後」を「戦後」と呼び、「敗者」になるはずの“弱者”を「被害者」と見なしてきた点で、「敗」を避けてきた感はありますね。

2006/9/29(金) 午前 9:47 大三元

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日本には伝統的に弱者には優しく(情けをかける、『情けは人の為なら』ず)、敗者には厳しく(情けをかけない、黙って耐え忍ぶ、『赤穂浪士』)。と言うような文化がある気がします。と言うことは、敗者を生み出す文化を導入すると言うことは、アメリカ型のセーフティーネットの効かない社会になると言うことですよね。

2006/9/29(金) 午前 10:21 [ gak*1*66* ]

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ふむふむ、「情け」は日本文化を語る際のキーワードなのですね。そうすると、日本型社会民主主義はその根っこに「情け」的感情があったのかもしれませんね(もっとも、それがどこまで日本特有のものかは難しいですが)。

2006/9/29(金) 午後 6:54 大三元

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アメリカ型社会との関連でまた再び佐藤俊樹の議論に戻れば、「機会の平等」本家のアメリカは敗者を作り続けるけれども、不満の暴発に対する安全装置もある。恒常的に移民を受け入れて「平等な機会」を体現する層を生み出したり、企業の経営層まで競争原理を浸透させたりすることで「機会の平等」が実現されているように見せて敗者の感情が爆発するのを防いでいるわけです。佐藤が指摘するのは、日本がそのような安全装置を持たずに「機会の平等」社会へ移行することの危険性なんですね。

2006/9/29(金) 午後 7:04 大三元

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