読書のあしあと

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書評54 カズオ・イシグロ

『日の名残り』

土屋政雄訳(ハヤカワepi文庫、2001年)


やっと風邪から復帰しました。ご心配おかけしました。

復帰後一冊目は、以前から予告していた、現代イギリス文学を代表する小説家の一人、カズオ・イシグロのブッカー賞受賞作。映画にもなったらしく、日本での人気も高いらしい。
書評49・『オーウェル評論集』以来の「イギリス的なるもの」追究シリーズ第二弾である。


【著者紹介】
石黒一雄 (1954年─) 日本生まれのイギリス作家。ロンドン在住、英国籍。
1954年、長崎県長崎市で生まれ、両親とともに5歳で渡英、以後イギリスに在住。1978年にケント大学、1980年にイースト・アングリア大学を卒業。1982年、処女作『女たちの遠い夏(A Pale View of Hills)』で王立文学協会賞を受賞、九ヶ国語に翻訳される。1989年、本書でイギリス最高の文学賞であるブッカー賞を受賞。
他の著作に『充たされざる者』(1995年)、『わたしたちが孤児だったころ』(2000年)、『わたしを離さないで』(2005年)などがある。

つちや・まさお 英米文学翻訳家。訳書にオンダーチェ『イギリス人の患者』、フレイジャー『コールドマウンテン』、スタインベック『エデンの東』など多数。


【本書のあらすじ】
品格ある執事の道を追求し続けてきたスティーブンスは、短い旅に出た。美しい田園風景の道すがら様々な思い出がよぎる。長年仕えたダーリントン卿への敬慕、執事の鑑だった亡父、女中頭への淡い想い、二つの大戦の間に邸内で催された重要な外交会議の数々―─過ぎ去りし思い出は、輝きを増して胸のなかで生き続ける。失われつつある伝統的な英国を描いて世界中で大きな感動を呼んだ英国最高の文学賞、ブッカー賞受賞作。(ハヤカワepi文庫紹介より)


お薦め度:★★★★★

【本書の感想】

<全体の感想>
こういう小説は大好きだ。全体に流れる伝統的イギリス調の雰囲気、読者を飽きさせない様々な小細工やユーモア、ちりばめられる人間と社会への鋭い風刺。作品の中では色んな話題が扱われるのだが、それぞれが実は根底のところで微妙に共鳴し合っている。
作品のストーリーとしては、イギリスの伝統的な執事であるスティーブンスが、数日間の旅行の中でかつて仕えていたイギリス外相、ダーリントン卿との麗しい日々を思い出すという設定になっている。執事という職種に宿るイギリスの伝統の衰退に、大英帝国の没落、また自分の執事としての能力の衰えなど、様々な諦念というものが重ね合わされるのである。

解説で丸谷才一が絶賛しているのもわかる気がする。丸谷が書きたかったイギリス風の社会風刺小説というのはこういうものなのかもしれない(丸谷才一『年の残り』の野呂邦暢による「解説」を参照)。訳も原文の品位が充分に保たれており、美しい。

以下、印象に残った部分を引用しながら感想を述べていきたい。


<「品格」とは何か>
あらすじの主軸は上に述べたように、主人公・スティーブンスがダーリントン卿に仕えていた時代を回顧するくだりにある。現在スティーブンスはダーリントン卿亡き後のダーリントン・ホールを買い上げたアメリカ人・ファラディ氏に仕えていて、それ自体が作品全体の──そして大英帝国の──黄昏を象徴してもいる。

スティーブンスはファラディ氏に短い旅の機会を与えてもらい、その道すがら昔のダーリントン・ホールを思い出し、「偉大な執事とは何か」という問題を考えていく。「偉大な執事」とされる人物に共通している本質は、巧みな話術や発音などではなく、「品格」だというのがスティーブンスの考え方だ。では「品格」とは何か。かつて手本としていた父の思い出も交えながら出した結論はこうである。

品格の有無を決定するものは、自らの職業的あり方を貫き、それに堪える能力だと言えるのではありますまいか。……執事はイギリスにしかおらず、ほかの国にいるのは、名称はどうであれ単なる召使だ、とはよく言われることです。私もその通りだと思います。大陸の人が執事になれないのは、人種的に、イギリス民族ほど感情の抑制がきかないからです。(61項)

イギリス人の感情に起伏がないのは一年中代わり映えしない憂鬱な天気のせいだ、というようなことをどこかで読んだことがあるが、引用文の後半はそんなことを表しているのだろう。
それは余談として、品格というのは「自らの職業的あり方を貫き、それに堪える能力」であるというスティーブンスの考え方は好きだ。皮肉にも、旅の最後でスティーブンス自身それを否定することになるのだけれど、私はこの品格の考え方には学ぶべきことが多くあると思う。『国家の品格』なんて本がベストセラーになってしまって(この本なんかは書評する気力も起きないが)、「品格」という言葉が安売りされている最近の日本でこそ、一考に値する考え方だと思う。


<宥和政策の擁護?>
かつてスティーブンスが仕えていたダーリントン卿というのは何者かというと、第一次大戦後のドイツの惨状を目の当たりにし、「敗れた敵をあんなふうに扱うのは、我が国にとって不名誉この上ない。わが国の伝統とは相容れないやり方だ」(101項)と考えて、ドイツに対する寛大な戦後処理を欧米各国に求めて飛び回るイギリス外相である。そしてその尽力はドイツ救済策として結実する。
ダーリントン卿はその後もナチス政権下のドイツに対して宥和政策をとる。1920〜30年代に駐英ドイツ大使リッペンドロップ(実在の人物)とも親密な関係を築くことでドイツを国際協調路線に戻そうとした。それがもとで第二次大戦後にイギリス国民の強烈な批判を受けることになるのだが、スティーブンスはダーリントン卿をこう擁護する。

今日、人々がまるで自分は一瞬たりともリッペンドロップ様に丸めこまれたことはなく、リッペンドロップ様を名誉ある紳士として信じて協力したのは、ダーリントン卿だけであるかのように語るのを聞きますと、やはり違和感を覚えます。真実は違います。30年代全般を通じて、リッペンドロップ様は国中の最高のお屋敷で尊敬され、「引っ張りだこ」でさえあったお方でした。……ダーリントン卿が敵とこっそり通じていたかのようなほのめかしを言う人は、当時の空気というものを都合よく忘れているにすぎません。(193─195項)

スティーブンスは──そしておそらくイシグロも──ダーリントン卿の対ナチス宥和政策を弁護する。少なくとも、ダーリントン卿は平和への熱意を失わずに宥和政策の効果を信じて奔走したこと、またダーリントン卿のみならず当時多くの人々もリッペンドロップとヒトラーに騙されたことを指摘し、一方的なダーリントン卿=宥和政策批判を斥けるのである。当時の「空気」を知らねば過去を批判できない好例だろう。
またこのブログでもたびたび登場願っているイギリス外交史の細谷雄一は、このダーリントン卿のモデルはチェンバレン兄弟だろうと予想しているが(細谷雄一HP)、それも然り。

イギリス外交の伝統は、毅然とした武力ではなく、老練な交渉力にあるのだ。第二次大戦は、その悲劇的な失敗であった。


<あらゆるものが、夕日に染まる>
しかし、今や栄光は昔の話になった。
大英帝国の覇権は二つの大戦を境にアメリカに移った。本物の紳士であり、大英帝国の外交を担ったダーリントン卿はナチスの手先だとの烙印を押され、失意のうちに他界した。スティーブンスはアメリカ人のファラディ氏に仕えているが、その執事としての能力にも陰りが見え、今はアメリカ人主人が飛ばすジョークへの対応に四苦八苦している。

こういったスティーブンスの公私にわたる悲劇の極めつけは、作品のクライマックスに訪れる。スティーブンスは旅の最後でかつてダーリントン・ホールでともに働いていた女中頭と出会う。そこで、彼女がずっと自分に密かな想いを寄せていたことを、数十年後の今になって知るのだ。
ひたすら「品格」を追い求めて仕事に邁進し、女中頭の想いにも気づけなかったことを悟ったスティーブンスは、それまでの自らの人生を全否定する。
そして、海を見ながら泣くのである。隣に座った男が言う──「夕方が一日で一番いい時間なんだ」。

大英帝国と執事の伝統、外交の正義と人間の品格…あらゆるものが、夕日に染まる瞬間だ。


<イギリス的伝統を担うアウトサイダーたち>
ところで、これも細谷雄一が指摘していることだが、イギリスの伝統は往々にして外国人によって形成・継承されてきた側面がある。
例えば、イギリス自由主義の父アダム・スミスはスコットランド人、「保守主義の父」エドマンド・バークはアイルランド人、20世紀イギリス・リベラリズムを代表するアイザィア・バーリンはロシア出身のユダヤ人、イギリスの伝統的スタイルのスーツを作ったラルフ・ローレンは生粋のアメリカ人、というように。細谷雄一の言葉を借りれば、「むしろそういった外部者が、イギリスの良さを体現し、受け継いでいく」ということなのだろう。

そしてまたこの日本人によるブッカー賞受賞作もその例に加えられよう。細谷雄一の指摘と重なり合う、丸谷才一の秀逸な批評を引用しておく。

彼が現在のイギリス人の生活とそれからこの一世紀の大英帝国の有為転変とをこんなにすつきりととらへることができるのは、もちろん彼の才能も大きいけれど、外国系の作家なのでイギリス及びイギリス人に対し客観的になることができるせいもかなりある。……ヘンリ・ジェイムズも、コンラッドも、外国系の作家であるせいでイギリス小説の伝統に深く学び、新しいものをそれに付け加へることができたといふ先例があるのだから。(丸谷才一「解説」363項)


<おわりに>
本書では「古き良きイギリス」が賞嘆を込めて描かれている。最後には悲劇的な帰結を迎えるが、しかしイシグロの叙述は「古き良きイギリス」に愛着を隠さない。私もそれに大きな感銘を受けた。

ただ、やはり現代にはそぐわないと思う部分もある。例えば民主主義に関する部分だ。
「議論も決定も、およそ重要な事柄はすべて、この国の大きなお屋敷の密室の静けさの中で決まるもの」(165項)、「誰もが国家の大問題について『強い意見』を持ち、発言すべきだと主張するのは、とても賢明とは思われません」(280項)といったようなスティーブンスの考え方は、やはり19世紀型の「旧外交」を想定していて、現代では悪い意味で古くなってしまっているように思われる。
国内政治も国際政治上の決定も、今や密室で決められたようなことは世論の反対を免れない。森喜朗元総理の選出過程なんかを見ればそれは明らかだ。
また情報が氾濫し、ことあるごとに世論調査が集計され、さらにそれが政局に重要な意義を持つ今日にあっては、「国家の大問題」について一般市民が考えておかなくてよいはずがない。


このように、本作品に描かれた「古き良きイギリス」を絶対視する必要はない。しかし、それでもなお、夕日は美しいのである。

閉じる コメント(26)

よさそうなお話ですね。自分ではきっと選ばない本です。ぜひ読んでみますね。

2006/11/25(土) 午前 11:09 ビール大好きあつぴ

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>p_atsumi0625さん:是非是非、読んでみて下さい。最近では一番のヒットです。読み返しても味が出る作品だと思います。

2006/11/26(日) 午前 1:03 大三元

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「日の名残り」は大好きな小説です。淡々としているようでいて、確固とした人としてのあり方や人間に対する深い思いが抑制のきいた文章で綴られているのを読むことができ、小説の醍醐味があったと記憶しています。今、『わたしを離さないで』を読みかけています。一見読みやすい文章ですがこちらの方が手強いかんじです。

2006/11/26(日) 午後 8:27 猫町

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>猫町探索さん:初めまして、ご訪問&コメントありがとうございます。私もこの本でイシグロファンになってしまいました。ご指摘の通り、「人間に対する深い思いが抑制のきいた文章で綴られている」ところが非常に気に入りました。私はそれを勝手に「イギリス的なるもの」に引き付けて書評を書いてますが…。『わたしを離さないで』も話題ですね。文庫になるのを待ちたいんですが、いつの間にか書店のレジに持って行く自分がいるかもしれません。読まれたら、是非感想をお聞かせ下さい。

2006/11/27(月) 午前 0:07 大三元

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オーウェルつながりで、TBをいただいたVIVAと申します。カズオイシグロも取り上げておられるようなので、こちらにTBさせて下さい。

2006/12/11(月) 午後 1:35 [ mto*01*5 ]

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>VIVAさん:トラバありがとうございました。これからもちょくちょく訪問させていただきます。

2006/12/11(月) 午後 2:47 大三元

私もようやく読み終えました。。「わたしを離さないで」を先に読んだので、この作品にはす〜っと入りこめました。古きよき時代のイギリス文化を執事の目を通して垣間見ることができて、静かでたんたんとした中にキラっと光輝くものを感じられる素晴らしい作品ですね。TBします。

2006/12/13(水) 午前 10:55 [ - ]

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>ひまわりさん:トラバありがとうございました。同感です。『わたしを離さないで』も評判いいですよね。こっちも『日の名残り』と同じような雰囲気なんでしょうか。だったら読んでみたいな〜。

2006/12/13(水) 午後 1:09 大三元

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こんばんは。NONAJUNさんの所で、大三元さんの「バスジャック」の二階扉についてのコメントを読んで訪問しました。本格的な書評にびっくりです。「わたしを離さないで」を読んでのですが、ひまわりさんによると、本作品は読みやすいのでしょうか。読んでみます。

2007/3/18(日) 午後 7:31 まあしゃ

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>くまさんさん:初めまして、ご訪問&コメントありがとうございます。私は『わたしを離さないで』は読んでませんが、『日の名残り』はとても読みやすく、味わい深い作品です。読まれたら、是非感想を聞かせて下さい!

2007/3/19(月) 午後 6:49 大三元

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うーん。こんなに本格的なレビューを書かれていたのですね〜。気がつきませんでした(^^)。TB貼っていきますね。

2008/2/10(日) 午後 2:12 ojy**922

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>おじゃさん:トラバありがとうございました。書きたいことがありすぎて、記事が長くなってしまいました(笑)。

2008/2/10(日) 午後 11:44 大三元

カズオ・イシグロさんをお好きな方を探して辿りつきました。
彼の作品は多分完読していると思います。
「浮き世の画家」「おんな達の遠い夏」は本屋さんに取り寄せてもらって読みました。
かなりの本好きでも彼を知らない人が多いの、残念です。

2008/6/27(金) 午前 11:26 AKIKO

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>AKIKOさん:イシグロがお好きとは嬉しいです!イシグロは私の好きな作家トップ3には必ず入る作家です。私はこの『日の名残り』以来イシグロ作品から遠ざかっているのですが、最新作『わたしを離さないで』がとても気になっています。早く文庫化されないかなー。
AKIKOさんはどの作品が一番お好きですか?感想もお聞きしてみたいですね。

2008/6/28(土) 午後 7:34 大三元

もともと寡作の方ですから完読していると思っていたのですが、今日読んでない本があることを知りショックを受けています。
「充たされざる者」です。
『わたしを離さないで』読んだのが入院直前という事情もあり、かなり辛い(精神的に)本でした。内容はお読みになるまで書かない方がいいと思います。
こちらのブログ、図書館にいるみたいで見ているときりが無いですね。ドストエフスキーさんなどを横目で見ながら取りあえず今日はこの辺で。

2008/6/29(日) 午後 9:01 AKIKO

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>AKIKOさん:『わたしを離さないで』、内容はそこかしこで聞きかじっているのですが、無意識に理解するのを避けているのか、あらすじが込み入っているのか、あまり理解していません。読んだ時の楽しみにとっておきたいと思います。
「図書館」という評をいただけるのはとても嬉しいですね。こうやって古い記事にコメントをいただけるのも嬉しいです。書評で取り上げた本が読んだ本の全てではないし、他にももっと扱いたい本はたくさんあるのですが、少しずつ記事を増やしていきたいと思います。よろしくお願いします。

2008/6/30(月) 午前 3:46 大三元

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大三元さんがそこまで言うなら読んでみよう、と『国家の品格』を読んでみましたら、結構共感するところが多くて…いや、お恥ずかしい。でもブームの真っ最中ではなく今ごろこっそり読むところが可愛い(?)ですよね。というわけで藤原先生の本の中から軽くて面白くてすぐ読める小川洋子さんとの対談を紹介しましたので、トラックバックさせていただきます。『日の名残り』にするか!?とのお怒りはごもっともですがおゆるしを。。。

2008/7/11(金) 午前 9:44 [ - ]

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>Ringoさん:藤原正彦は数学のエッセイなどを読むと面白いのですが、それだけに『国家の品格』は…(苦笑)。言いたいことはわかるし、いいところもたまにあるんですけどね。
しかし藤原×小川対談の本をトラバされるとは、何か関係ある話でも出ていたのでしょうか?早速伺います〜。

2008/7/12(土) 午後 10:51 大三元

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過去記事に失礼します。遅ればせながら私も読ませていただきました。
大三元さんの解説がすばらしいのでTBさせてください。

2013/2/28(木) 午後 2:32 [ - ]

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>ちょいこさん:トラバありがとうございました!
古い記事にコメントいただけるのはとても嬉しいです。これは何十年も残る傑作だと思います。もちろん私の中では、マイベストノベルのひとつです。

2013/3/2(土) 午後 10:05 大三元

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