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書評55 中島敦

「文字禍」

『中島敦全集1』(ちくま文庫、1993年)所収


書評50・「山月記」と同じくちくま文庫の『中島敦全集1』所収作品で、当初「狐憑」「木乃伊」「山月記」とともに連作短編「古譚」として発表されたもの。この四つの作品は有機的関連を持つものとして考えなければならないという主張もあるようだが、ここではとりあえず「文字禍」を単独の作品として取り上げたい。

なお、「文字禍」は現在青空文庫でも読むことができる


【著者紹介】
なかじま・あつし (1909─1942年) 作家。
東京帝国大学卒。1942年、「光と風と夢」が第15回芥川賞候補に。同年『光と風と夢』『南島譚』を刊行するが、12月4日喘息により33歳で死去。『李陵』他いくつかの作品は没後に発表された。漢文調の格調高い文体とユーモラスに語る独特の文体を巧みに使い分けている。
本ブログで過去に取り上げた作品に書評50・「山月記」がある。


【あらすじ】
古代アッシリヤで、毎夜、図書館の闇の中でひそひそと怪しい話し声がするという噂がたった。文字の精霊同士の話し声に違いないということになり、大王は老博士ナブ・アヘ・エリバを召して、この未知の精霊についての研究を命じた。ナブ・アヘ・エリバ博士は研究を進めるうちに、単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有たせることこそ文字の精霊の仕業であると悟る。その後も文字の精霊の力が社会のいたるところに及んでいることを理解したナブ・アヘ・エリバ博士は、大王に研究報告書を献じ、文字への盲目的崇拝を諌める忠告を挿入した。数日後ニネヴェを襲った大地震の時、博士は自宅の書庫にいて、文字の凄まじい呪いの声とともに、夥しい書籍の下敷きになって圧死した。


お薦め度:★★★☆☆

【本書の感想】

<全体の感想>
この作品も「山月記」と同じく文庫版にして10ページの短編。ストーリーは上に要約した通りだが、本好き(≒活字中毒)としては、「文字禍」というタイトルといい、文字文化の功罪というテーマといい、見過ごせない作品である。
「名人伝」「弟子」など中国を舞台にした作品が多いイメージのある中島敦だが、これは古代アッシリヤの図書館の奇妙な噂をめぐる物語である。


<文字「以前」と文字「以後」>
この作品のテーマは人間の歴史における文字の功罪である。
アッシリヤ大王に「文字の精霊」の研究を命じられたナブ・アヘ・エリバ博士は、一つの文字を凝視するうちに文字が解体し、「意味のない一つ一つの線の交錯としてしか見えなくなってくる」(41項)。そして、この単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有たせるものこそ文字の精霊の力にほかならないと考えたのである。

では、文字の精霊は人間にどのような影響を及ぼすのか。博士が調べて作った統計によると、文字を覚えてから急に次のような人々が増え始めたのだという。
曰く、文字を知る以前に比べて空の鷲の姿が見えなくなった、空の色が以前ほど蒼くなくなった、くしゃみやしゃっくりが度々出るようになった、頭髪が薄くなった、脚が弱くなった……しまいには職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損うことが多くなった、というのである(42項)。

博士の推測によれば、これらの現象は文字の精霊がもたらす害悪にほかならない。「乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった」のと同じように、「文字が普及して、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである」(43項)というのが博士の観察だ。


このエピソードはなかなか示唆に富む。
哲学では記号論という分野が同じようなテーマを扱っていた気がするが(違ったかな?)、要するに私たちは無意識のうちに文字に規定され、支配されているという発想である。
文字に頼りすぎると、もしかすると文字で表せないものを見落とすことになっているかもしれない。それどころか、文字に表せないものは「無い」ことにされる可能性もある。しかし、文字という記号で表せないものもあるはずだ。「文字のない昔、歓びも智恵もみんな直接に人間の中に入ってきた」というのが博士の主張である。

文字のせいでしゃっくりが出るとか頭髪が薄くなったとかいうくだりには笑ってしまうが、笑えない例が挙げられているのも事実である。文字を知ってしまった私たちは、文字にならない感情や光景や現象を、無意識のうちに無視してしまっているのかもしれない。


<歴史を縛る文字の精霊>
上に述べたことは、歴史に関しても当てはまる。
ある日、若い歴史家が「歴史とは、昔在ったことを言うのか、それとも書かれた文字を言うのであろうか?書き漏らしは歴史になるのか?」とナブ・アヘ・エリバ博士に問うた。博士は「書かれなかったことはなかったことだ」と答えて、それほど文字の精霊の力は恐ろしいものだと説く。

ここには、歴史家のディレンマが表れている。確かに、文字に残ったものしか歴史として認めることはできない。しかし文字に残ったもののみが歴史の真実ではない。
博士によれば、こういったディレンマも文字を知ってしまったが故の苦悩なのである。


<おわりに>
最期に、博士は文字の精霊の力の恐ろしさを報告書にまとめ上げて大王に提出するが、それが猛烈な文字の精霊の反撃を呼ぶことになる。即ち、大王に謹慎処分に処せられたのみならず、自宅の書庫で文字の精霊の呪い声を聞きながら、書架に押し潰されて圧死するのである。
本好きとしてはとても羨ましい気もするが(笑)、しかし本に怨まれながら死ぬのはちょっと嫌だなぁ。


冒頭に述べたように、この「文字禍」は「山月記」などとともに「古譚」として発表された。思えば「山月記」の李徴も、文字社会に生まれたが故に後々まで自らの名声を残そうと悩んだのだとも言える。

しかし、私たちの社会はもう文字を捨てられないし、捨てるべきでもない。文字の精霊の恐ろしさを見据えながら付き合い続けていくしかないのである。

閉じる コメント(12)

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この本も初めて読んだ時は強烈でしたね。文字がバラバラになると言う感覚は日常の中でも経験しませんか。私の場合は、記憶力の問題もありそうですが、結構あります。しかも、現代の中国語は文字の簡略化が進み、それに慣れてしまうと便利なことが多くて、ますます混乱に拍車をかけています。

2006/11/27(月) 午前 2:00 [ gak*1*66* ]

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同時に便利には必ずその反作用が伴うと言う彼の主張は、正論でしょうね。科学が細分化すればするほど、それぞれの分野でその確信に近づくのでしょうが、全体がどんどん見えなくなるのは仕方のないことなのでしょうね。

2006/11/27(月) 午前 2:03 [ gak*1*66* ]

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>gakiさん:gakiさんは現代のナブ・アヘ・エリバ博士だったのですか!私は残念ながら文字がバラバラになる感覚というのは体験したことがありませんが、身体の一部が自分のものであることが不思議に感じる(「意味のない一つひとつの〜」の身体バージョン)という経験はあります。でも確かに現代中国の簡易体は「意味のない線の交錯」っぽいですね(笑)。

2006/11/27(月) 午前 2:44 大三元

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>gakiさん:なるほど、歴史学や言語学を含めた「科学」が、そもそも分類することをその基本的特徴とすることを考えれば、科学全般においてもナブ・アヘ・エリバ博士の仮説は当てはまるのかもしれません。いずれにせよ、文字の精霊の怖さは忘れずにいたいものです。

2006/11/27(月) 午前 2:48 大三元

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これはチェックですね!未読ですので、読んでから記事を読ませていただきます。あらすじを読んだだけでワクワクします♪

2006/11/27(月) 午後 5:15 mepo

大三元さんの書評見て、「山月記」再読(高校以来!)しているyumikoです。この本もとても気になります・・・私は、外国語を勉強していると、文字(というか言語)の限界を感じます。言語は、結局自分の中の文化的背景を元にして切り取られたほんの一部にすぎないのだな〜と。って、文字書きながら混乱してまいりました(笑)・・・本読んでみます。

2006/11/27(月) 午後 10:14 [ yumiko ]

中島敦の著作は、↑のyumikoさんと同じ年頃に『山月記』を読んだだけです。その頃は読み知っていたのでしょうが、「33歳で死去」には驚きました。薄幸だったんですねぇ。ありがとうございました。

2006/11/28(火) 午前 6:47 Mine

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>mepoさん:本好きとしては色々考えさせられる作品です。読み終わったら是非感想をお聞かせ下さい〜!

2006/11/29(水) 午後 10:38 大三元

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>qianyumikoさん:書評をきっかけに読んでいただいているとのこと、非常に嬉しいです。読んだら是非感想をお聞かせ下さい。「文字には限界がある」というのは全くその通りで、それに気づかないとこの作品の「文字の精霊」の力にがんじがらめにされてしまうのでしょうね。限界のある文字というツールを、最大限に活用したいものです。

2006/11/29(水) 午後 10:44 大三元

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>Mineさん:中島敦作品は高校の教科書にうってつけなんでしょうね。メッセージ性といい、格調高い名文といい、適度な長さといい…。完成度の高い作品を多く遺したことを考えれば、33歳という若さで逝ってしまったことがなおのこと残念に思われます。

2006/11/29(水) 午後 10:53 大三元

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ああ、まだまだ読んでいない作品がいっぱい。本当にタイトルからして気になります!

2006/11/29(水) 午後 11:13 [ ちいらば ]

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>ちいらばさん:本好きとしては見逃す手はないでしょう(笑)。古本屋へLet's go!!

2006/11/30(木) 午前 0:20 大三元


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