読書のあしあと

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書評63 小川洋子

『シュガータイム』

(中公文庫、1994年)


小川洋子作品第四弾。前回の『余白の愛』から3ヶ月程空いたが、これだけでも久しぶりな感じがする(笑)。この『シュガータイム』は小川洋子の最初の長編作品である。


【著者紹介】
おがわ・ようこ (1962年─) 小説家。
早稲田大学第一文学部文芸科卒業。2006年、本屋大賞を受賞した『博士の愛した数式』が映画化され話題を呼ぶ。『薬指の標本』がフランスで映画化されるなど海外での評価も高い。
1988年「揚羽蝶が壊れる時」で海燕新人文学賞、1991年「妊娠カレンダー」で芥川賞、2004年『博士の愛した数式』で読売文学賞・本屋大賞、同年「ブラフマンの埋葬」で泉鏡花文学賞、2006年『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞をそれぞれ受賞。
本ブログで取り上げた著書に書評35:『博士の愛した数式』書評40:『偶然の祝福』書評47:『余白の愛』がある。


【本書のあらすじ】
三週間ほど前から、わたしは奇妙な日記をつけ始めた──。春の訪れとともにはじまり、秋の淡い陽射しのなかで終わった、わたしたちのシュガータイム。青春最後の日々を流れる透明な時間を描く、芥川賞作家の初めての長篇小説。(中公文庫カバーより)


お薦め度:★★★★☆

【本書の感想】

<全体の感想>
小川洋子の初めての長編というだけあって、あまり完成度の高い作品とは言えないかもしれない。しかし、本人が「どんなことがあってもこれだけは、物語にして残しておきたいと願うような何か」を書いたと述べているように(「あとがき」206項)、小川洋子の原点として見逃せない作品だろう。

今までの小川洋子作品の書評で小川洋子的世界については少しずつ書いてきたが(『博士の愛した数式』『偶然の祝福』『余白の愛』)、この作品には後の作品に見られるそういったモチーフが数多く見られるのが面白い。「完成度が高くない」というのは、少しモチーフを詰め込みすぎなのではないかと思う点である(もっとも、読んでいる私の方が消化しきれないのかもしれない)。
しかし、それでもいつもの小川洋子的世界は揺るがない。この作品では、ストーリー自体よりも、むしろそれらのモチーフが作品を魅力的にしている。以下では、それらのうちのいくつかを、感想とともに記してゆく。


<食べ物のリアルさ>
解説で林真理子も書いているが(「解説」213項)、本書で最も魅力的なのは食べ物や食事の記述だろう。
主人公である大学生の「わたし」は三週間くらい前から食欲が止まらない。といっても、過食症や太りすぎでもない。外見上は何の変化もないのだが、食欲だけが止まらないのである。その主人公の目に映る食べ物は、極めて生々しく描写される。

ノートの中のドーナツという文字は、鮮やかで生々しく刺激的だった。文字を見ていると、表面が油でしっとりと潤んでいる様子、指先についてくる粉砂糖の感触、生地の空気穴の繊細な模様などを、はっきりと思い描くことができた。(12項)

食欲が異常になってからは、主人公は常に食べ物のことを考えるようになってしまう。文化人類学の授業で、未開民族における数の概念を聞いていると、主人公の頭の中はこうなる。

「ですから彼らにとって数は、一つか沢山かその二種類しかないのです。槍が一本あれば、それは一本の槍。二本あればたくさんの槍。百本あっても同じ沢山の槍です」
教授がそんな説明をした時、わたしはグリーンアスパラガスを思い浮かべていた。アスパラが槍の形に似ていたからだと思う。わたしはノートの端にグリーンアスパラガスの絵を描いた。穂先は柔らかく、袴があって、根元にいくほど太くなる写実的な絵だった。それから、アスパラガスを使った料理について考えた。……文化人類学のノートの端は、食べ物の落書きでいっぱいになった。(44─45項)

漫画のようでちょっと笑ってしまうが、この後更に食べ物が頭から離れなくなっていく過程を読めば、こんなのはまだ軽い方だ。こんな異常な状態を「普通」に溶け込ませるのが小川洋子である。


<幻想と現実を淡々と>
小川洋子は幻想をリアルに描く名手である。現実をリアルに描くことに関してはさらに名手である。この作品でも、その萌芽は確かに見られる。

主人公の弟(航平という)は背が大きくならない病気である。原因はわからない。しかし、弟と主人公はその事実を静かに受け止め、淡々と生活している。それを問題にしても仕方がないことをわかりきっているかのように。
だが、社会の現実は残酷である。作品中でも、世間の目は異常に小さな弟に容赦なく突き刺さる。

シートに腰掛けるとすぐに、同じ車両の乗客の視線が全部わたしたちに向けられたのが分かった。しかしわたしたちは、そういうひんやりとした瞬間にはもう十分慣れていたので、別にどうということもなかった。
航平と一緒に街に出ると、世の中にはどれだけ残酷な人間が多いか思い知らされる。物珍しそうな、気味悪そうな目で見られることもしばしばだった。航平はそんな残酷な視線を、ゆっくりまばたきをしながら真綿のように吸い取ってゆく。そんな時、航平の瞳がほんの一瞬薄い水色に染まることを知っているのは、たぶんわたしだけだろう。その切なげな色合いを見るたびに、私は彼を抱きしめたくなる。(81─82項)

小川洋子の筆致は、決して世間を声高に糾弾するものではない。むしろ「世間とはそういうものだ」という諦念がそこにはあるように思える。しかし、そこで弟の瞳によぎる切なさを、世間の酷さの影で生まれる辛さを、小川は見逃さない。それはフィクションというよりも、社会的現実を淡々と切り取ったかのようである。


この箇所を読んでいる時、私は非常に苦しかった。私自身、思い返せばそういう目で人を見ていたかもしれないからである。自分では気づかなくても、電車で引用したような場面に遭遇したとき、無意識にそうした目線を送ってしまうことはないだろうか。
そう自らに問い質した時、思い出されたのはジョージ・オーウェルの「英国におけるユダヤ人差別」であった。こういった問題は、一朝一夕に解決するものではないし、簡単に克服できる問題ではないだろう。大切なのは、自分はこのような被差別者を「差別していない」と思い込むことではなく、この作品の主人公のように、「世の中にはどれだけ残酷な人間が多いか」を知り、その残酷な視線に晒されている人々を忘れないことなのではないか。
小川洋子は、ありえない幻想を描いているようでいて、世間に見落とされている現実を嫌味のない形で切り取ってくる作家でもあると思う。


<おわりに>
小川洋子は本書の「あとがき」で「わたしがどうしても残しておきたいと願う何かが、読んで下さった方々に少しでも伝わればありがたい」と述べ、こう続ける。

この小説はもしかしたら、満足に熟さないで落ちてしまった、固すぎる木の実のようなものかもしれない。それでも皮の手触りや、小さな丸い形や、青々しい色合いだけでも、味わってもらえたらと思う。いずれにしてもこの小説は、わたしがこれから書き進んでゆく上で、大切な道しるべになるはずだ。(「あとがき」206─207項)

皮の手触り、小さな丸い形、青々しい色合いは、存分に味わえる。確かに熟してはいないが、やっぱりそれも小川洋子でした。

閉じる コメント(12)

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洋子さんは、ストーリーから物語を書くのではなく、パーツから書くのだといつも思います。こう言った食品の描写や手や足と言ったパーツが組み合わさって小説を作っていますよね。

2007/1/17(水) 午前 7:41 [ gak*1*66* ] 返信する

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>gakiさん:そうですね、その中でもこの作品は特にパーツが際立っているなぁ、という印象です。淡々と現実を切り取るところも印象的でした。

2007/1/18(木) 午後 5:45 大三元 返信する

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『シュガータイム』は未読です。モチーフぎっしりのゴチャゴチャ系小説はけっこう好きなので,チェックしておきます。

2007/1/19(金) 午前 1:06 NONAJUN 返信する

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>NONAJUNさん:そうなんですか。この作品は小川洋子の処女長編なんですが、この作品に詰め込まれたモチーフが後の作品でどう膨らむのか、という見方も面白いかもしれません。とにかく「モチーフぎっしり」です。

2007/1/19(金) 午前 2:39 大三元 返信する

大三元さんご紹介の本は、いつもおもしろそうですね。書評読んでいるだけでも楽しいです・・小川さんの作品では、「妊娠カレンダー」読んだことがあるのですが、そのときはあまりピンとこなかった覚えが・・・。でも、この本はちょっとそそられます。

2007/1/20(土) 午前 2:02 [ yumiko ] 返信する

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>yumikoさん:そう言っていただいて嬉しいです。「妊娠カレンダー」は私も読みましたが、確かにピンときませんでした。『偶然の祝福』も他の作品に比べて見劣りしますし、小川洋子は短編よりも長編の方が面白いと思います。

2007/1/20(土) 午前 5:31 大三元 返信する

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小川洋子さんの世界を、魅力的なパーツと大三元さんの抑えの利いた重奏低音のような解説がとてもすてきな読書エッセイになっていて、すぐにでも読んでみたいと思います。もし読めたら自分なりの感想文が書きたい、しかしこんなに的確には書けないことでしょう、感謝です。

2007/1/20(土) 午前 8:35 [ アズライト ] 返信する

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>電池切れさん:お褒めの言葉、ありがとうございます。読まれたら、是非電池切れさんの感想もお聞きしてみたいです。何しろ、私の読む本は世間で読まれている本とはかけ離れているものばかりなので〜。

2007/1/21(日) 午前 4:54 大三元 返信する

こんにちは。あしあとをたどってみたらシュガータイムに出会いました。
この話はたしかに密かな社会批判を感じますね。
つばを飛ばして非難するのではなくて、淡々と現状を語ることでその重みが伝わってきます。

2007/12/24(月) 午後 10:39 [ in_my_sunshine ] 返信する

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>in_my_sunshineさん:初めまして、ご訪問&コメントありがとうございました。小川洋子作品でも、これを読んでいる人は少ないと思うので、嬉しいです。これだけ淡々と差別を描かれると、確かに重みが違いますね。よろしければまた遊びに来て下さい!

2007/12/26(水) 午前 7:55 大三元 返信する

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あとがきに書いているように、完熟した木の実と言う濃厚な印象に残る小説というより読者側の手によって徐々に熟して行くのが楽しみな果物って感じがしますね。主人公の食欲のように何度もあじわいたくなるような癖になる文章です。 削除

2012/6/28(木) 午後 7:11 [ 川田 ] 返信する

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>川田さん:はじめまして、ご訪問&コメントありがとうございます。小川洋子作品にかたちを変えて現れるモティーフみたいなものが、不完全なまでもほぼ出尽くしているような作品でしたね。その意味では、「作家・小川洋子」誕生の瞬間がこの作品なのかもしれません。

2012/6/30(土) 午前 11:21 大三元 返信する

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