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書評93 鷲田清一

『「待つ」ということ』

(角川選書、2006年)


一度だけ、鷲田清一先生にお会いしたことがある。今は大阪大学の総長をされているようだが、当時は「身体」や「ファッション」をキーワードにした哲学者として人気急上昇中だったのを覚えている。

とても大柄な人で、少々髪が乏しいこともあって「海坊主のような人だ」(失礼!)というのが第一印象だった。しかし、話を聞いてみると、190センチはあろうかという巨漢のわりに(?)実に繊細な精神の持ち主であり、腰も低く、物事を誠実に考えているという印象を受けた。「人格者」の三文字がぴったりくるような人だった(実際、とてもやわらかく繊細な文章を書く哲学者だ)。

それ以来、鷲田清一は臨床哲学という分野を開拓していくことになる。
この作品はその第一作に当たる『「聴く」ことの力』の続編となる。


【著者紹介】
わしだ・きよかず (1949年─) 大阪大学総長、哲学者。専攻は現象学、臨床哲学、倫理学。
1977年京都大学大学院文学研究科哲学専攻博士課程修了。1992年より大阪大学助教授、96年同教授、2004年同副学長などを経て、2007年より現職。その著作は大学受験の課題文として使われることも多い。
『分散する理性──現象学の視線』(勁草書房、1989年)及び『モードの迷宮』(中央公論社、1989年)でサントリー学芸賞、『「聴く」ことの力──臨床哲学試論』(TBSブリタニカ、1998年)で桑原武夫文学賞受賞。
他の著書に『ちぐはぐな身体──ファッションって何?』(筑摩書房、1995年)、『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書、1996年)、『メルロ=ポンティ──可逆性』(講談社、1997年など多数。


【本書の内容】
現代は、待たなくてよい社会、待つことができない社会になった。私たちは、意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性をなくしはじめた。偶然を待つ、自分を超えたものにつきしたがう、未来というものの訪れを待ちうけるなど、「待つ」という行為や感覚からの認識を、臨床哲学の視点から考察する。(出版社紹介より)


お薦め度:★★★★☆

【本書の感想】

<全体の感想>
この本が出た時に、誰かが鷲田清一のことを「日本で『自分の頭で哲学する』数少ない一人」と評していた記憶がある。それは折りしも私が書評44:カント「啓蒙とは何か」を読み終わった直後で、まさに「自分の頭で哲学する」ことの大切さと難しさを実感していた矢先のことだった。


待たなくてよい社会になった。待つことができない社会になった。(7項)

そう始まる本書は、巷にありがちなスローライフを叫ぶ内容ではない。携帯電話が普及し、「待ち合わせ」という言葉が死語になりつつある現代にあって、そのせわしなさを批判したところであまり意味がない。

そこで本書は一度立ち止まって、「待つ」ということの根源的な意味を考え抜こうとする。おそらく真実の哲学とは、そういうことである。


<「予期」のない「待つ」はありえるか?>
待つという言葉は、「〜を待つ」という使い方をする他動詞である。電車を待つ、返事を待つ、出産を待つ…。そしてそこには、待っている対象のものが訪れるという予期がある。それは即ち未来に起こるはずの出来事を自分の頭に「予め」描くことでもある。

しかし、未来には予期したことだけが起こるわけではない。とすれば、何を待っているのか、自分自身にもわからないような「待つ」があるのではないだろうか。それが著者の問題提起だ。


現代に働く多くの人々が日々使っている言葉を列挙してみる。プロジェクト(project)、利益(profit)、見込み(prospect)、計画(program)、進捗(progress)、生産(produce)、昇進(promotion)。これらのビジネス用語の接頭辞になっている“pro”というのは、ギリシャ語で「前に」という意味を表す。つまり全て前傾姿勢なのである。

こうした前のめりの姿勢はだから、実のところ、何も待ってはいない。未来と見えるものは現在という場所で想像された未来でしかない。……待つことには、偶然の働きに期待することが含まれている。それは先に囲い込んではならない。つまり、ひとにはその外部にいかにみずからを開きっぱなしにっしておけるか、それが「待つ」には賭けられている。……「待つ」は偶然をあてにすることではない。何かが訪れるのをただ受身で待つということでもない。何かを先に取りにゆくというのではさらさらない。ただし、そこには偶然に期待するものはある。あるからこそ、何の予兆も予感もないところで、それでもみずからを開いたままにしておこうとするのだ。(18─19項)

「待つ」ということが、偶然に開かれたものであり、しかも単なる受身でないならば、具体的にはどのようなかたちをとるのだろう。


<育児、家族、介護、カウンセリング──「待つ」ことの臨床哲学>
ひたすら待ち、待ちくたびれた果てに、それでも待つ、というのはどういう状況だろう。希望があれば失望が大きくなるから、もう「待つ」こと自体に希望を込めないのかもしれない。待たずに待つこと。待っていると意識することなく待つこと。心の隅っこで待っていることもすっかり忘れること。

ひょっとしたら、「育児」というのはそういう営みなのかもしれない。ひたすら待たずに待つこと、いつかわかってくれるということも願わずに待つこと、いつか待たれていたと気づかれることも期待せずに待つこと…。家族というものがときに身を無防備にさらしたまま寄りかかれる存在であるとしたら、この、期待というもののかけらすらなくなってもそれでもじぶんが待たれているという感覚に根を張っているからかもしれない。(55項)

この、育児をはじめとする家族の営みに「待つ」という行為が積み重なっているという指摘に、私は深く考えさせられた。そう思えば、育児には数十年のスパンで見なければならないこともあるだろう。「いつかわかってくれる」などと子どもに期待するのも馬鹿げているかもしれない。しかし、それでも待たれているから、家族はお互いを支え合えるように思える(今思えば、映画『幸福な食卓』はそんな家族をテーマにしていたような気がする)。


カウンセリングや介護もまた「待つ」を事とする。「言葉を迎えにゆくのではない。言葉が、不意にしたたり落ちるのを、ひたすら待つのである。……言葉を迎えにゆくのは、<聴く>のおそらく最悪のかたちである」(68項)。鷲田清一は、河合隼雄を引きながらそう強調する。

聴くということは待つことである。話す側からすればそれは、何を言っても受け容れてもらえる、留保をつけずに言葉を受け止めてくれる、そういう、じぶんがそのままで受け容れてもらえるという感触のことである。(69項)

こういう現場では、“pro”に象徴されるような「前のめりの姿勢」が厳禁であることは明らかだ。そしてそれは、程度の差はあれ、普段の人間関係でも同じなのだろうと私は思う。人は誰でも、苦しいときにその苦しさを分かち合ってもらいたいと思う。しかしそれを先取りしてしまっては何の解決にもならないのである。


<おわりに──待つ者は場を醸成する触媒である>
最後に、鷲田は看護師の西川勝が紹介する、「場を整える」という小さな日常行為の積み重ねで精神病患者の症状が改善した例に触れながら、こう述べる。

ひとはここではもはや「待つ者」ではなく、そういう時と場を醸成する触媒のひとつにすぎない。(191項)

子どもが健やかに育つような、患者が声にならない声を絞り出せるような、そういう時と場を醸成すること。それは日常の中の、小さな行為の積み重ねでできてくるものだ。

偶然に開かれた、しかも単なる受身でない「待つ」ということは、そういうかたちで可能なのだろう。そしてそれは、育児やカウンセリングのみならず、およそ人間関係全般に言えるはずである。

閉じる コメント(8)

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「待つこと」は、私にとってかなりタイムリーなテーマですね。まず、スローライフを叫ぶ本ではないというところが気に入りました(笑)。そうなんですよね、待つことって現代では受身の行為に受け取られがちですが、本当は違うのではないかと思っています。この著者が言うように、待つことにより思わぬ偶然が全く別の展開を生むことはよくあります。Plan-Do-See方式の行動は、一見効率よくみえるのですが、計画を超えるダイナミックな展開はなかなか望めないかな?と。もちろん、働いたらそんなことは言ってられませんがね〜。「子どもの時間を待つこと」の記事をTBさせてくださいね。

2007/9/14(金) 午後 3:08 mepo 返信する

「聴くということは待つことである。話す側からすればそれは、何を言っても受け容れてもらえる、留保をつけずに言葉を受け止めてくれる、そういう、じぶんがそのままで受け容れてもらえるという感触のことである」、なるほど。しかし若干の不安もあります。「話す側」が、「じぶん」の主張や要望を是認された、受け入れられたと誤解することはないのでしょうか。

2007/9/15(土) 午後 0:40 Mine 返信する

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>mepoさん:この本を読んでいて、育児の項目にきた時に思い出したのは、mepoさんのあの記事だったんですよね。結局、期待して、ある未来を予想(prospect)して待つことは、急かしていることとあまり変わらないんじゃないかなぁと、子どももいない私は考えてしまいました。記事にも書きましたが、このことは育児だけに限らないと思います。
現代では企業も前のめりにならざるをえず、予想外の発明などを待っている暇がないのが現状です。決算発表が昔は半期毎だったのが最近四半期毎に出すのが普通になってきたのが典型例ですね。その中でいかに「待つ」ということを確保するかは、私たち個人が考えることなのだと思いますが。こちらからもトラバさせて下さい!

2007/9/15(土) 午後 9:26 大三元 返信する

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>Mineさん:コメントありがとうございます。確かに、ご指摘のような誤解の可能性はありますが、それほど不幸な誤解ではない気がします。話す側が「是認された」と誤解することで困るような状況は…例えばいい気になるとか、男女の間であれば「こっちに気があるんじゃないか」と誤解するとか、そういうケースが思い浮かびます。しかし、これも事後的に修正すればいいんじゃないでしょうか。それよりも急かして、言葉を先取りしてしまうことの方が怖いような気がします。

2007/9/15(土) 午後 9:50 大三元 返信する

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たいへん興味深い書籍を紹介いただきありがとうございます。面白く記事を読みました。産業社会と相容れない「待つこと」。何を待っているかわからないものを「待つこと」は、人間一人ひとりにとって誰もが気づかずそうしている、根源的なことなのかなあと漠然と感じました。著者もこの本もまったく知りませんでした、またチャレンジしてみたいと思います。

2007/9/17(月) 午後 10:36 [ アズライト ] 返信する

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>電池切れさん:鷲田清一は精力的に、しかし誠実に活動している哲学者で、現代哲学では最も信頼している一人です。鷲田の本はどれも読み易く、面白いですよ。電池切れさんの好みにも合っているような気がします。

2007/9/18(火) 午前 0:12 大三元 返信する

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はじめまして。鷲田清一にこんな面白い本があったとは…。自分自身でも分からないような「待つ」が存在し、「待たずに待つ」という行為が存在するっていうのは、とても素敵ですね。私はいつも何かを待っていて…でも、それになかなか会えなくて待ちぼうけしている気分でした。これを読んだら、なんだか、すべてを肯定された気持ちがします。

2007/9/27(木) 午後 9:16 [ cha**kent*shi ] 返信する

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>立待月さん:鷲田清一をご存知とは嬉しいです。「何かを待っている」という感覚を持っている人に会えたのも初めてなので、これも色々とお聞きしたいですね〜。どういう感覚なのでしょう?鷲田本の感想も是非お聞きしてみたいです。

2007/9/29(土) 午後 6:04 大三元 返信する

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