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文春文庫『故郷忘じがたく候』にはこの作品の他に、幕末に奥州で孤立した官軍の最期を描いた「斬殺」と、細川ガラシャの小伝「胡桃に酒」を収める。 【著者紹介】 しば・りょうたろう (1923─1996年) 作家。 大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960年『梟の城』で直木賞を受賞し、以後歴史小説を一新する話題作を続々と発表。『国盗り物語』『竜馬がゆく』で菊池寛賞など受賞多数。 本ブログで取り上げた作品に書評106:『燃えよ剣』、『竜馬がゆく』(その1/その2/その3/その4/その5)、『翔ぶが如く』(その1/その2/その3)、書評177:『草原の記』、書評198:『街道をゆく19 中国・江南のみち』がある。 【本書の内容】 十六世紀末、朝鮮の役で薩摩軍により日本へ拉致された数十人の朝鮮の民があった。以来四百年、やみがたい望郷の念を抱きながら異国薩摩の地に生き続けた子孫たちの通哭の詩「故郷忘じがたく候」。 お薦め度:★★★★☆ 【本書の感想】 <全体の感想> 異国の人の、想像を絶する感情を表現することに関して、司馬遼太郎の筆は稀代の鮮やかさを見せる。その白眉は書評177:『草原の記』であるが、第十四代沈寿官氏と彼が背負う伝統をデッサンしたこの「故郷忘じがたく候」も、その傑作群の中に入れて遜色ないであろう。 <故郷忘じがたしとは誰人の言い置きけることにや> 沈氏の祖先は、四百年前の秀吉による朝鮮遠征の際に拉致・連行されてきた、製陶を生業とする人々であった。当時の日本では朝鮮産の陶器が珍重されたためで、薩摩藩は苗代川(ノシロコ)という土地に住みついた彼らを士族同等に厚遇して藩の御用達としたため、薩摩の陶器は世を席巻するまでになった。 沈寿官氏はその姓名を継いで十四代目となる。苗代川の人々は、遥かな故郷を想い朝鮮の風俗と姓名を頑なに守る一方で、日本人より日本人らしくあるというプライドを持って逞しく生きていた。 江戸時代、ある旅人に、これだけ薩摩に厚遇されて数代も経れば、故郷のことなど想い出すこともなかろう、と問われて、苗代川の一族の一人はこう答えたという。 なるほど二百年近くも相成り、しかもこの国の厚恩を受けてかように暮らしております上は何の不足もあるはずもございませぬが、故郷のことはうち忘れられず、折に触れては夢の中などにも出……いまも帰国のこと許し給うほどならば、厚恩を忘れたるにはあらず候えども、帰国致したき心地に候……故郷忘じがたしとは誰人の言い置きけることにや。(22―23項) この感覚はどうであろう。彼方の故郷から拉致され、様々の苦労の後にやっと薩摩藩の庇護を受けるに至り、二百年が経つ。それでも、知る由もない祖先の地が夢に出てくるのだという。 「故郷忘じがたし」――この感覚は、ナショナリズムを考える上で、私たちに強烈な印象を与えてくれる。 <最も薩摩人らしい朝鮮民族として> 1960年代、沈氏が韓国の美術史関係者に招かれて初めて渡韓した際に、ソウル大学で講演する機会があった。たくさんの学生の前で沈氏は品の良い薩摩弁で講演し、その最後にこう述べたという。 韓国に来てたくさんの若者と話したが、彼らは一様に三十六年の日本統治下の圧制を批判した。しかし韓国という若い国家が前へ前へと進まなければならないときに、そのような後ろ向きのことばかり言うべきではない。 「あなた方が三十六年を言うなら、私は三百七十年を言わなねばならない。」(65項) そこで学生たちの間に広がったのは、拍手ではなく韓国の青年歌の大合唱であった。 沈氏は壇上で呆然となった。涙が、眼鏡を濡らした。しかし背負うべき伝統の多すぎる沈寿官氏は、ここで薩摩人らしくふるまおうという気持が反射的におこった。涙を、ここで大急ぎで冗談に変えてしまわなければならない。沈氏は鹿児島の友人たちのあいだでは、もっとも薩摩人らしい薩摩人は沈寿官であるといわれていた。沈氏は陽気な冗談を飛ばそうとした。しかし、大合唱の潮にひたひたと圧されて、花火玉が湿るようにそれは湿った。(66項) このシーンは、司馬の作家としての面目躍如である。重い歴史を背負うことの想像を絶する苦悩を、司馬は醒めた距離感を保ちながらも圧倒的な共感を以って描く。その淡々とした文章は、かえって沈氏の言い難い感情をリアルに伝えているとも言える。 司馬の文章は、こういう作品を書くのに最も適しているのかもしれない。
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司馬氏の長編はなかなか手を着けられませんが、これは是非読まなければ!
紹介してくださりありがとうございます。
2010/11/29(月) 午前 7:15
深い感銘を受けました、ポチッ☆。
2010/11/29(月) 午前 9:20
「故郷忘じ〜」ってこういうお話だったんですね。これはぜひとも読んでみたい作品です。
2010/12/1(水) 午後 11:50
>みこぴょんさん:これはお薦めです。短い掌篇ですが、重い歴史を背負った人生の一面を鮮やかに描いています。是非、どうぞ。
2010/12/2(木) 午前 0:32
>凛さん:ポチありがとうございます。異国に住む方にこそ、読んでいただきたい作品です。
2010/12/2(木) 午前 0:34
>あんごさん:そうですねえ、この短篇なんてあんごさんにピッタリかもしれません。(何となくですけど笑)
読まれたら、是非ご感想を!
2010/12/2(木) 午前 0:35
私はどうも司馬氏の得意な分野だとは理解しているのですが、娯楽に馴れつい他の作品に逃げてしまいます(笑)
先日慶長の役における島津の戦いを読んだとこなので・・・読むべきでしょうね。
2010/12/8(水) 午前 3:03
>CAVEさん:お〜奇遇ですね!是非、この作品も読んでください。80ページくらいなので、1日で読めます。「最も薩摩人らしい薩摩人、しかし朝鮮民族」というジレンマを抱える苦悩を見事に描いています。
2010/12/9(木) 午前 9:13
この記事は2度目の訪問です。
先日、トラバしてくださったので、改めて読み直しました。
たいへん熱のこもったレビューで司馬ファンならずとも
手にとってみなければと思わせられます。ポチ☆
2011/2/7(月) 午後 6:06 [ pilopilo3658 ]
>あおちゃんさん:ポチありがとうございます!
司馬は長篇ばかりが注目されますが、むしろこういった短篇(エッセイ?)に傑作が多い気がします。
ますます沈寿官の白薩摩が見たくなってきました。
2011/2/8(火) 午後 0:47
ぜひご覧くださいね。焼き物も絵もそうですが、本物は映像を
通して眺めるのとは、一味も二味も違います。
薩摩焼は洗練されたランクの高い技術です。寧ろ芸術であり
やきものの美の極限と言っても差し支えなかろうと思いました。
2011/2/8(火) 午後 9:55 [ pilopilo3658 ]
>あおちゃんさん:今調べたら、展覧会はもう名古屋まで行っちゃってるんですね。。。残念。
でもまた関東でも見る機会があるでしょうから、あおちゃんさんがそこまで絶賛される薩摩焼、是非見てみたいと思います。
2011/2/12(土) 午前 2:31