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【著者紹介】 ちん・しゅんしん (1924年―) 推理小説、歴史小説作家。 神戸市出身。1941年大阪外国語学校卒。1961年『枯草の根』で江戸川乱歩賞を受賞後、作家生活に入る。1969年「青玉獅子香炉」で直木賞、1970年『玉嶺よふたたび』『孔雀の道』で日本推理作家協会賞、1971年『実録・アヘン戦争』で毎日出版文化賞、1976年『敦煌の旅』で大佛次郎賞、1992年『諸葛孔明』で吉川英治文学賞を受賞。 【本書のあらすじ】 楚材とは「外国で用いられる人材」を意味する。自国を滅ぼした他民族に仕えた父が、わが子に与えた名だった。長じて儒仏の教えと天文を修め、北の草原から押し寄せる圧倒的な力から、人命と文明を守る志を得る。チンギス・ハンに召された時、楚材28歳。遙かサマルカンドへ至る西征に従い、「焼き、殺し、奪い、去る」モンゴル軍の破壊の様を目の当たりにするのだった。独自の歴史観による大ロマン。 お薦め度:★★★☆☆ 【本書の感想】 <全体の感想> 本書は元朝に仕えた宰相・耶律楚材の評伝であるとともに、陳舜臣の思いが詰まった歴史小説でもある。 中国人やモンゴル系の名前が飛び交うので読み易くはないかもしれないが、考えさせられることの多い長篇だった。 この本は、職場の上司筋の人に「異国の人に仕えるとはどういうことかがわかる」と言われて借りたものだったが、まさにそういう本だった。 <「公」のために、巨龍の手綱を引く> 「楚材」とは“外国で用いられる人材”という意味である。 契丹族でありながら契丹を滅ぼした女真族の国・金に生まれた耶律楚材は、その名の通りの人生を送ることとなった。長じて金を滅ぼした元の宰相となったのである。 そのためか裏切り者という印象が強く、中国史上あまり人気がなかったという。 しかし本書に描かれる楚材は、自らの欲のために権力者におもねった尻軽男ではなかった。彼の心中には、常に天下万民のため、という志があったというのである。 覇王のためではない。同じ時代に生きる人々のためだ。(上巻、129項) 伝統的に「公」の観念が希薄な中国大陸において、このような志を持った人物がいたとすれば、突然変異のようなものだったろう。そして彼が強大なモンゴル帝国の草創期に出会ったことは、幸運だったと言わねばならない。 モンゴル軍が金の領土を脅かし始めた頃、耶律楚材はモンゴル軍の捕虜となり、チンギス・ハンに気に入られた。大ハンは漢人や契丹族の専門知識や思考能力を評価しており、特に楚材の調停能力を高く買っていたのである。 自分が死んだ後の後継者争いを心配していた大ハンが、その亡くなる直前、自ら楚材を呼んで臨終の場に立ち合わせたほどであった。 チンギス・ハンの絶大な信頼を得ていた楚材は、大ハン亡き後のモンゴル帝国の宰相として、第2代オゴディ・ハンをよく補佐した。 「モンゴル軍の力は、未曾有の強さです。誰もそれをせきとめることはできない。ただその力を誘導することができるだけですな。」(下巻、94項) 楚材の意図は、強大なモンゴル軍の力で、荒れた中国大陸に秩序をつくることにあった。 同じ時代に生きる人々――自らの家族を含めて――のために平和な時代を築くために、楚材はモンゴルの軍事力を利用しようとしたのである。 <遊牧騎馬民族は“中華文明”を吸収すべきだったか?> 楚材は、勇猛果敢なモンゴル民族に、儒教と仏教を浸透させようと腐心した。 東西に版図を拡げ続ける彼らは、奪った土地で殺戮と略奪を繰り返していたのである。ちなみに著者は、その主因を元来質素な遊牧民族が財宝の味を知ってしまったことにあるとしている。 楚材は、チンギスやオゴディに対し、民を殺さずに生かすことの利(例えば継続的な徴税)を説き、蛮行の害を説いた。 また利害という解り易い指標で納得させると同時に、広大な征服地を治める術として、儒教と仏教――即ち漢民族の“文明”を教え込もうとしたのである。 勇敢な民族こそ柔軟になるべきなのだ。張りつめた糸は、力を加えるとすぐに切れる。国は滅びてもよいが、それで人民が苦しむのは、何とか救わねばならない。(下巻、229項) この文章は、古代から現代までの中国史を貫通する問題を提起する。 即ち、遊牧騎馬民族が中国大陸をうまく統治するためには、騎馬民族本来の質実剛健さを厳しく保った方がよかったのか、あるいは中華文明に染まった方がよかったのか、という問題である。 前者の立場の最も聡明な思想家を清帝国の礎を築いた第5代皇帝・雍正帝とすれば、耶律楚材や本書の著者・陳舜臣は後者の立場となるだろう(雍正帝については書評178:『大清帝国と中華の混迷』を参照)。 耶律楚材(に思いを託した陳舜臣)にすれば、異民族は漢民族の文明を尊重し、それに同化しなければならない。騎馬民族の強大な軍事力はあくまでも治安を維持する警察力として必要なのであって、野蛮な異民族は中華文明に教えを乞うのが当然だ、と考えるのが中華思想だとすれば、楚材の思想はそれに近かったかもしれない。 それに対し雍正帝は、質実剛健さで大陸を制覇した騎馬民族が中華文明の味を覚えて奢侈に流れてしまうことを恐れた。騎馬民族がその本来の強さ・素朴さを失ってしまっては、やがて腐敗してしまうと考えたのである。実際、乾隆帝末期以後の清は雍正帝が危惧した通りの道を辿った。 この二択は答えがある問いではない。そもそも私は、現在の中国のような広大な領土と多様な民族を一つの国家が治めようとすること自体に無理があると考えている。 ともあれ、中国史を遠目で眺めてみる際の反実仮想(Counter Factual)として、一つの興味深い論点ではありうるだろう。 <おわりに> 書評177:『草原の記』で遊牧民族にシンパシーを感じていた私としては、若干モンゴル人に対する筆致が冷たすぎるように感じられたが、これも本書の底流に流れる中華思想(のようなもの?)をどう見るかによるだろうか。 ところでこの本を貸してくれて人の言う「異国の人に仕えるということがわかる」という意味はよく理解できた。
楚材は、自らの最終的な目標(=中国大陸に秩序をもたらすこと)のために文化を異にする君主に仕え、君主を補佐し誘導することで目標を達成しようとした。 巨龍の手綱を引くその姿は、未曾有の経済発展を遂げる現代中国と相対する私たちにヒントを与えてくれるかもしれない。 |
書評 歴史小説
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辺境民族による中華支配の度に繰り返されるテーマですね。
女真族による清の時もまさにそのテーマにぶちあたっています。
蛮勇を誇った蒙古も女真も、中華と言う怪物に呑みこまれてしまったと言ううことでしょうか。
2011/4/13(水) 午前 2:35
偶然ですが、私も今、上巻を読んでいるいるところです。もちろん、先日の大三元さんの記事を読んでですよ。
今後、対中国を処す為に、日本人の耶律楚材が必要になってきますね。それは大三元さんかも!?
2011/4/13(水) 午前 9:28
「国は滅びてもよいが、それで人民が苦しむのは、何とか救わねばならない」という引用に強い印象を受けました。たしか坂口安吾も似たような事を書いていたような気がします。そこで説かれているのも、柔軟さ、多文化を取り入れる懐の深さのような論調だった気が…。あいまいな記憶ですみません^^;
2011/4/16(土) 午前 9:54
>オブ兵部さん:おっしゃる通りだと思います。実際、清は雍正帝が危惧した通り、チベット仏教を捨てて利権を取り、中途半端に古典返りしたために滅びました。結局、あれだけの領土を統治するのであれば連邦制なり多民族自治制度なりを緩やかに構築する以外にないのでしょう。
2011/4/17(日) 午後 10:17
>かえるさん:え、そうなんですか!?私の記事を読んで、なんてとても嬉しいです。ありがとうございます!
この本は内容が面白かったというより、職場環境での境遇からか、私にとっては考えさせられることの多い長篇でした。かえるさんにいただいたコメントは、私が記事で言いたかったことを2行で表現していただいています(笑)。ありがとうございました。
2011/4/17(日) 午後 10:19
>あんごさん:安吾がそういうことを言っているのもさもありなんという感じがします。「日本文化私観」で論じられた彼独特の柔軟性も、結局は「特定の文化が残ること自体が大切なのではなく、結果的に人々の生活に資するかどうかだ」というプラグマティズムだったような気がしています。
2011/4/17(日) 午後 10:24