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【著者紹介】 かとう・のりひろ (1948年─) 文芸評論家、早稲田大学国際教養学部教授。 東京大学文学部仏文科卒業。国会図書館勤務、明治学院大学教授を経て現職。文学の可能性を押し広げるべく、果敢な批評活動を展開し続けている。『言語表現法講義』で新潮学芸賞、『テクストから遠く離れて』『小説の未来』で桑原武夫学芸賞を受賞。 本ブログで取り上げた作品に書評171:『敗戦後論』がある。 【目次】 第一回 頭と手――この授業について 第二回 課題とタイトル 第三回 他者と大河――推敲・書き出し・終わり 第四回 文と文の間――文間文法・スキマ・動き 第五回 糸屑と再結晶――ヨソから来るもの 第六回 言葉はどこで考えることと出会うか 第七回 いまどきの文章 第八回 遅れの問題 第九回 フィクションの自由 最後に――方法の話 【本書の内容】 言葉を書くということは,どんな経験だろう.それは技法の問題ではない.よりよく考えるための,自分と向かい合うための経験の場だ.このことは,同時に批評の方法へとつながっていく.経験としての書くということの意味を,考えるということの1つの方法として位置付ける,これまでの文章教室とは異なったユニークな講義. お薦め度:★★★★☆ 【本書の感想】 <全体の感想> 書くことは、生きることだ。 そういう感想が、読後に浮かんできた。 本書は、「文章の書き方」を指南するのではなく、“文章を書く”こと自体を幅広い視点で素描した講義録である。 理系の人間が徹底的にロジカルに書いた文章指南書が書評235:『理科系の作文技術』なら、本書は文系の人間が文芸評論家らしく書いていると言える。 書評171:『敗戦後論』で、加藤の文章がヌエのようにわかりにくいと書いたが、本書もそんな印象。 加藤自身の良い書評の定義とは、「強敵を相手に良い試合をすること」だという。 そこで私もヌエのような文章を相手に良い試合をすべく、加藤がこういう文章を書かざるを得ない理由を、思いっきり要約・意訳してみたい。 <マッチョな文章といまどきの文章> 従来、谷崎純一郎、三島由紀夫、丸谷才一など、多くの文学者が『文章読本』といった類の文章指南書を書いてきた。 最も典型的なのは丸谷才一で、文章とは「作って、よく見せて、才能を見せるもの」であるという考え方に立っている。加藤の言い方を借りれば、歌舞伎調、「どうだ、まいったか〜」というような、マッチョな文章。 加藤はいつの頃からか、こういった文章が時代遅れに感じられるようになったという。 それはなぜか。加藤は、言葉の存在自体が時代の中で「モノ」から「コト」へ変化したからだ、と説明する。 昔自分の書いたマッチョな文章がダサく思える、という経験は私にもある。このブログの初期の書評のような文章は、良くも悪くも今の自分には書けないな、と思う。 何だか、妙に仰々しいのだ。加藤の言葉を拝借すれば「まいったか〜」という、大上段に振りかぶった文章。 今読むと、こんな熱気はもう自分にはないかもしれないと思う一方、もっとさりげなく肩の力を抜いて書けばいいのに、と感じる。 言葉が、他人に才能を見せつける文章を書くための「道具=モノ」だった時代から、経験そのものである「コト」の時代へ。 そういう時代に、良い文章を書くとはどういうことだろうか。 <文章を書くとはどういうことか> 言葉が「コト」である、“文章を書く”のは経験そのものである、とはどういうことだろう。 加藤が強調する点で最も印象的だったのは、まず自分が空っぽであることを自覚すること、その中で率直に感じたことを大切にすることである。 何かを感じたら、そこを起点にすること。それが政治的にどうか、それを書いたら他人にどう思われるか、などという思惑から、その感じたことを操作したら、そんな文章は「クソみたいなものだ」。 ゴールの正しさ(他人の目、社会的常識と思われるものetc.)のためにスタート時点の正しさ(自分が素直に感じたこと)を切り捨てたら、「その文章はもうおしまい」(135項)なのである。 言葉は、自分が書く、誰かが読む、そのあわいを生きます。自分はそんなつもりで言ったのではなかった、でも、相手を傷つけてしまった、なぜだろう。言葉を書く経験はこの問いのうちに生きているのです。自分はよい文章だと思った、でもそうは受け取られなかった、なぜだろう。答えはいろんなふうにありうるでしょう。でも、文章を書くことの経験は、この落差、疑問、の間に生きるので、この問いの試練にさらされること、それが大事なのです。(245項) また加藤は、同じことを説明するのにデカルトの「森のたとえ」を引合いに出している。 見知らぬ森から出るとき、デカルトは、途中で方向を変えることなく一方向だけにひたすら歩くべし、という。それが結果的に最も遠い距離かもしれないが、曲がらなければ確実に森の外に出ることができる。 おいおいきみ、それは一番遠い道だよ、なんて言ってくる人がいるかも知れませんが知ったことではない、そんなことはわかっているんだ、効率的ではないが、でも、ゼロから誰でもはじめられる方法になっている、こちらの方がずっと大事なんだ、ということですね。一番遠い道で森から出る、そういう方法です。(238項) デカルトは「我信ず、故に我在り」で有名だが、それと同じことだ。 結果的に何が正しいかはわからない。でも、出発点は足下にしかないから、そこ(自分が素直に感じたこと)から出発するしかない。そのまま書き進めていけば、他人の目に触れ、批判され、ほめられ、社会というものを経験する。そして、そのフィードバックを通じてまた考える。 それはものごとを考える過程、経験するプロセスそのものである。 そこまでいけば、“文章を書く”ということは、考えること、生きることと同義になっていくような気がするのだ。
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>この落差、疑問の間に生きるので、この問いの試練にさらされ ること
とても共感できます、自分の場合は読者というより、もうひとりの自分との場合もあるかもしれません、
とにかく、文章を書いている時は充実しています。
言葉を選ぶ作業は苦しいけれどとても楽しい、そんな感じですかね。(´_`illi)
2012/9/5(水) 午前 10:44
「書くことは、生きること」
まさに自分がブログで記事を書く趣旨と同じです(^^)
記事にも書いたこともあります。
それにしても大三元さん、論説本の解説お上手ですね(^^)
記事を読んだだけで、本を実際に読まなくてもいいくらい(^_^;)
自分は小説だけですけど、いつも感心してます(^^)
2012/9/5(水) 午後 3:07 [ もたんもぞ ]
>凛さん:勝手な感想ですが、この本で言う「良い文章」の条件は、凛さんの文章にもそのまま当てはまると思うんです。たぶん加藤が採点したら、凛さんの記事はA+がもらえるんでは?と思っているのですが。
自分の感じたことをそのまま文章にのせること、「一番遠い道で森から出る」こと。
機会があればぜひ読んでみてください。
2012/9/10(月) 午後 10:41
>もたんもぞさん:加藤は、“書く”ということで苦労している分、その行為自体に真摯なんですよね。こういう姿勢こそ真のプロフェッショナルというのでしょう。
「本を実際に読まなくても内容がよくわかった、ありがとう」という趣旨のコメントは、何度もいただいたことがあります。これは嬉しい反面何だか複雑な心持ちで、面白い本をオススメするために書評を書いているのに、「読まなくてもいい」と思わせてしまう書評ってなんだろうか、と^^;
2012/9/11(火) 午前 1:12