読書のあしあと

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書評279 司馬遼太郎

『坂の上の雲』その2

全8冊(文春文庫、1978年)

前回書評278:その1は秋山兄弟と正岡子規の生い立ち〜青春時代までをレビューした。
今回は、日露戦争までの日本陸海軍というものの成立を中心にまとめる。


【著者紹介】
しば・りょうたろう (1923─1996年) 作家。
大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960年『梟の城』で直木賞を受賞し、以後歴史小説を一新する話題作を続々と発表。『国盗り物語』『竜馬がゆく』で菊池寛賞など受賞多数。
本ブログで取り上げた作品に『燃えよ剣』、『竜馬がゆく』、『翔ぶが如く』、『草原の記』、「故郷忘じがたく候」、「街道をゆく」シリーズの『19 中国・江南のみち』、『40 台湾紀行』、『26 嵯峨散歩、仙台・石巻』がある。(記事一覧はこちら


【本書の内容】
日清戦争から十年―じりじりと南下する巨大な軍事国家ロシアの脅威に、日本は恐れおののいた。「戦争はありえない。なぜならば私が欲しないから」とロシア皇帝ニコライ二世はいった。しかし、両国の激突はもはや避けえない。病の床で数々の偉業をなしとげた正岡子規は戦争の足音を聞きつつ燃えつきるようにして、逝った。 (文庫版第三巻裏表紙より)


お薦め度:★★★★★

【本書の感想】

<大山と東郷>
まずは海軍の成立から見ていきたい。

司馬は、日清戦争から日露戦争にかけて日本が達成した建艦計画を「想像を絶する奇蹟」としている。
日清戦争の段階での日本海軍は、ぼろ汽船に大砲を積んだだけ、戦艦はゼロ、巡洋艦もゼロという状況だった。
それを、国家予算の半分以上をかけ続けて当時最新鋭の軍艦を死にもの狂いでつくった。

日本人は、大げさにいえば飲まず食わずで作った。(第三巻、43項)

国民生活からいえば、ほとんど飢餓予算といってよかったが、この時期の日本の奇妙さは、これについての不満がどういうかたちでもほとんど出なかったことである、と司馬は不思議がる。(第三巻、42項)

その近代日本の海軍にとって、いわばオーナーのような立場が大山巌であり、監督が山本権兵衛であり、キャプテンが東郷平八郎、キャッチャーが秋山真之であった。

山本権兵衛。
この無口な男は、ほとんど無にちかいところから近代海軍を設計し、建設し、日清・日露戦争をし遂げた。戦艦の仕様から戦法、大砲の購入から人事まで、彼は大佐の身分でありながら「海軍を魔王のようにきりまわしていた」(第三巻、57項)。

山本のような立場の者がそんな活躍ができたのも、薩摩的将帥の典型たる海軍大臣大山巌の後ろ盾があったからであった。
薩摩的将帥とはなにか。

まず、自分の実務のいっさいをまかせるすぐれた実務家をさがす。それについては、できるだけ自分の感情と利害をおさえて選択する。あとはその実務家のやりいいようにひろい場をつくってやり、なにもかもまかせきってしまう。ただ場をつくる政略だけを担当し、もし実務家が失敗すればさっさと腹を切るという覚悟をきめこむ。(第三巻、48項)

このような大山に見込まれたのが山本だったのである。
オーナーたる元老・大山巌が全責任を負う下で、山本が海軍の全てを建設した。


<東郷と真之>
その山本は、日露戦争にあたる現場の総責任者=軍司令官に東郷平八郎を、その片腕となる参謀に秋山真之を任じた。
東郷は現場を預かってリーダーシップを発揮する主将で、真之は現場における戦術操縦者、いわばキャッチャーのような立場と見ることができると思う。

東郷と真之の初対面で、真之はいずれ上司となる(とはまだ知らない)東郷に強い印象を受けた。
真之が会議室に入っていくと、

「このたびのこと、あなたの力にまつこと大である」といっただけで、だまってしまった。だまりながら、薩摩人が客に対して見せる特有の表情で真之を見ていた。唇を閉じ、両はしにわずかに微笑を溜めている。この東郷という人はおそろしく無口な人物であることを、真之はきいていた。
対面は、それだけでおわった。あとで人事局の千秋恭二郎が感想をきくと、真之はしばらく考えてから、
「あれは大将になるためにうまれてきたような人だ。……あの人の下なら、よほど大きな絵を書けそうだ」と、いった。(第三巻、142―143項)

そして真之は、日露戦争の海戦の設計者となるのである。

真之は、その頃までに稀有な経験を積んでいた。
書評278:その1で見たように、「生まれたからには日本一に」という志を海軍で立てようとした真之は、若くしてアメリカに留学している。
この経験が、後の真之の仕事に多いに役立った。

まず真之は、アメリカで近代海軍の租と言われるアルフレッド・マハン大佐に面会している。
マハンの既刊論文や新刊書まで読破しているこの極東の若者に感心したマハンは、海軍戦略の何たるかを滔々と語ったという(第二巻、225項以下)。

さらに、留学中に勃発した米西戦争の観戦武官たる機会を得た。このときの海上封鎖戦が、のち真之が日露戦争で指揮することになる対旅順艦隊戦のヒナ型を提供してくれたことは、天の恵みのようだと司馬は書いている。


<陸軍の作戦癖>
ここで陸軍の方を見てみたい。

まず、日本陸軍の戦術観について。
織田信長やナポレオンがそうであるように、敵に倍する兵力と火力を予定戦場に集めて敵を圧倒するということが戦術の大原則であるが、日本人は古来、小部隊をもって奇策縦横、大軍を翻弄する戦法を好んできた。楠正成や源義経が人気があるのはそういう事情による。
昭和期の指導者までもがこの素人的好みに憑かれ、ついに対米戦に至ったが、司馬によれば日露戦争の頃は違ったという。

日露戦争のころの軍事思想はその後のそれとは全くちがっている。戦いの期間を通じてつねに兵力不足と砲弾不足になやみ悪戦苦闘をかさねたが、それでも概念としては敵と同数もしくはそれ以上であろうとした。(第三巻、270項)

このあたり、太平洋戦争への憎悪が滲み出ているようでもある。


また、真之の兄である秋山好古が一からつくりあげた日本騎兵の戦い方も面白い。
日本の騎兵は、戦闘開始とともにいっせいに馬から降りて騎兵でなくなる。歩兵となり、防御射撃主義をとった(第四巻、282項)。
これは、当時世界最強の騎兵であったコサック騎兵に対し、正攻法である乗馬突撃では勝てないことを知っていた好古が、貧弱な日本騎兵のために考案した戦術であった。ロシア騎兵は、これに驚きつつもてこずった。


一方で、兵站戦略については陸軍は一貫してお粗末であったと司馬は指摘している。
そもそも弾薬の絶対数が足りなかった上に、食糧の補給さえもままならなかった。それを海軍は比較的手ぬかりなくやったが、陸軍はお粗末この上なかった(第四巻、105項)。それを正当化する大本営の「補給の欠乏は、戦闘の勇敢さをもってカバーせよ」という発想は太平洋戦争を思わせるが、これは海軍よりも陸軍に濃厚らしい。


このあたり、伝統的な海軍善玉/陸軍悪玉論になってしまいそうだが、司馬は具体的にその例外も挙げており、読者は他の本も読みながら歴史観のバランスを取る必要があるだろうと思う。

閉じる コメント(2)

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>キャッチャーが秋山真之であった。
キャッチャーですか。
ぼくはミーハーですから、彼はホームランを打ってスキップしながらホームに帰ってくるサード長嶋のイメージかな。

2013/12/9(月) 午後 9:05 蓮

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>蓮さん:サード長嶋ですか。確かに真之は結果的に大ホームランを打ったことは打ったのですが、生涯「あれは自分の手柄ではない」と言い続けたり、戦中から宗教がかってきたりしたところは他にいないキャラクターですよね。

2013/12/13(金) 午後 4:44 大三元


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