読書のあしあと

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書評3 アリストテレス

『ニコマコス倫理学』

高田三郎訳(岩波文庫、1971年)全二冊


今回は毛色を変えて、ギリシャ哲学の古典を取り上げてみたい。


【本書の内容】

まず、岩波文庫の表紙の紹介から。

古代ギリシャにおいて初めて倫理学を確立した名著。万人が人生の究極の目的として求めるものは「幸福」即ち「よく生きること」であると規定し、このあいまいな概念を精緻な分析で解明する。これは当時の都市国家市民を対象に述べられたものであるが、ルネサンス以後、西洋の思想、学問、人間形成に重大な影響を及ぼした。

お薦め度:★★★☆☆

【本書の感想】

<視点と前提──リベラル=コミュニタリアン論争から>
もともと本書を読む動機になったのは、80年代アメリカにおける政治哲学上の「リベラル=コミュニタリアン論争」である。これは簡単に概説すると、ロールズ『正義論』の登場に対してコミュニタリアン(日本では「共同体主義(論)」と訳される)が噛み付いた論争である。ロールズに代表されるリベラリズムが「負荷なき自我」を前提としているために現代のアノミー化現象、「徳の衰退」が起こったとして、コミュニタリアンは共同体の伝統や歴史による人格の陶冶を重視する(この辺りの論争について解説したものとして、有賀誠・伊藤恭彦・松井暁編『ポスト・リベラリズム──社会的規範理論への招待』ナカニシヤ出版、2000年、井上達夫編『自由・権力・ユートピア』<新・哲学講義7>、岩波書店、1998年などを参照)。
私としてはコミュニタリアンの主張に一定の共感を覚えつつも、結論としてはリベラリズムの枠内に落ち着かざるを得ないという立場をとっている。というのも、共同体主義はやはり共通善を押し付けがましい形で不用意に普遍化しかねないと考えるからである。コミュニタリアンの言う歴史や伝統による人格の陶冶の必要性は私も強く感じる。しかし、否その故に、その環境を多元的な形で保障するという意味でのリベラリズムを支持するのである(井上達夫『他者への自由──公共性の哲学としてのリベラリズム』創文社、1999年、参照)。

私はこの論争を考える上で、コミュニタリアンの主張する歴史や伝統による人格の陶冶という主張は、卓越主義という形でリベラリズムに組み込めないかと考えてきた。こういった構想はイギリスのJ.ラズなどによって、また日本では同志社大学の濱さんなどによって試みられているが、いまいちしっかりとした理論にはなっていないようである。そこで、卓越主義の元祖アリストテレスを読んでみよう、と思い立ったわけである。そういったわけで、以上のような問題意識のもと本書の内容をかいつまんで考えていきたい。


<行為による徳の獲得>
さてそういう動機で読んだ本書だが、全体の感想としては読みやすいが退屈である、という感は否めない。よく言われることだが、プラトンなどに比べると記述が平坦で、悪く言えば刺激的な思索ではない。ただところどころに面白いと思うところはある。肝心の卓越主義に関する記述だが、第二巻第一章がそれに当たるだろう。


アリストテレスによれば、あらゆる人間活動が目的とするところは「善」であり、「最高善」を求める活動は政治的なものであるという。幸福が依るところの善は全て「徳」或いは「卓越性」に関わるものであるが、これは「倫理的卓越性」と「知的卓越性」に分類される。そのうち倫理的卓越性は、習慣づけによって得られるものであるという。

倫理的な卓越性ないしは徳は、だから、本性的に生れてくるものでもなく、さりとて本性に背いて生ずるものでもなく、かえって、われわれは本性的にこれらの卓越性を受け入れるべくできているのであり、ただ、習慣づけ(エトス)によってはじめて、このようなわれわれが完成されるにいたるのである。(上巻、56項)

一方で本性的に与えられており、活動の可能性を与えられているがゆえにのちにその活動を現実化できる例は感覚である。われわれは感覚を使うことで獲得したのではなく、所有しているがゆえにこれを使用したのだ。ところが、

倫理的な卓越性ないしは徳の場合にあっては、これに反して、まずそうした活動を行うことによってわれわれはその徳を獲得するにいたるのであって、それはもろもろの技術(テクネー)の場合に似ている。(同上)

つまり、人は実際に建築をしていく過程で建築の技術を覚え、琴を弾きながら琴弾きとなる。よき琴弾きとなるのも悪しき琴弾きになるのも、琴を弾くことによってである。徳の場合もこれと同様なのだという。

われわれは、すなわち、対人的な社会的交渉における諸般の行為をなすことによって、或いは正しい、或いは不正な人間になるのであり、また恐ろしきことがらのさなかで実際に行為することによって、つまり、或いは恐れるように、或いは平然たるように習慣づけられることによって、或いは勇敢な、或いは怯懦な人間となる。(上巻、57項)

これぞいわゆる卓越主義の考えを要約している文章といえよう。実際の社会関係における実践の中で人格は鍛えられ、徳は獲得されるにいたる。私もこのアリストテレスの卓越主義を支持したい。


<政治的卓越主義と倫理的卓越主義>
ただ、この卓越主義を政治的次元にまで適用するとなると微妙である。政治的参加はあくまでも権利であり、義務でもなければ強制もできない。J.S.ミルの言うように、

(個人が人格を陶冶してゆく過程で、その陶冶に使用する歴史・伝統・教訓の)どの部分が彼自身の境遇と性格に正しく適用されるかを見つけるのは、彼の仕事である。(J.S.ミル、早坂忠訳「自由論」関嘉彦責任編集『ベンサム ミル』<中公バックス 世界の名著49>中央公論社、1979年、281項)

社会は、個人がその陶冶に使用する価値を強制できないのである。人格の陶冶は個人に委ね、社会はその多元的な選択環境を保障しなければならない。そう考えると、政治や法の任務はそういった環境の整備にあり、それ以降は個人の自主性に任せる倫理の次元になるだろう。


<「怒り」の中庸>
総論の後はもろもろの徳に関する各論が続く。徳ないし卓越性というのはあらゆる領域における両極端の中庸であるという。恐怖と平然の中庸は「勇敢」であり、放埓と無感覚の中庸は「節制」であり、放漫とけちの中庸は「寛厚」であり…というようにたくさんの例が具体的に論じられる。ここでは全ては取り上げないが、個人的に「怒り」に関する記述のところで考えることがあったので、そこだけ引用してみる。

アリストテレスによれば、穏和が「怒り」に関する中庸であり、その超過は怒りんぼ、その不足は意気地なしである。

然るべきことがらについて、然るべきひとびとに対して、さらにまた然るべき仕方において、然るべきときに、然るべき間だけ怒る人は賞賛される。かかるひとは「穏やかな」ひとといえよう。(上巻、155項

ふむ・・・。私は今までなるべく人に対して怒らないようにしてきたし、ある意味対人関係の信条のようになっているが、最近「然るべき場合には怒ったほうがよい」ということも考えるようになった。やはり、正しくない時は正しくないと言わないと、組織が堕落していく場合がある。

然るべきことがらについて怒らないひとびと、然るべき仕方で、然るべきときに、然るべきひとびとに対して怒らないひとびとは痴呆だと考えられるのである。(同上)

耳が痛い話です・・・。しかしながら、この「然るべき」が難しいんだよなぁ。人間関係、頭ではわかってても実際、難しいもんで。


<おわりに>
冒頭に挙げた問題関心から言えば、やはり卓越主義は政治的次元と倫理的次元を分けて考えなければならないと再確認したのは収穫だった。しかしこの問題は本書を読めば解決するものでもなく、ましてや他の本でも決定的な解答は出ないと思われる。これからもこの問題については気長に考えていきたい。

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