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さて本題。 前回までに、陸海軍の成り立ちを見た。 今回のエントリからいよいよ日露戦争の経過をたどる。 【著者紹介】 しば・りょうたろう (1923─1996年) 作家。 大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960年『梟の城』で直木賞を受賞し、以後歴史小説を一新する話題作を続々と発表。『国盗り物語』『竜馬がゆく』で菊池寛賞など受賞多数。 本ブログで取り上げた作品に『燃えよ剣』、『竜馬がゆく』、『翔ぶが如く』、『草原の記』、「故郷忘じがたく候」、「街道をゆく」シリーズの『19 中国・江南のみち』、『40 台湾紀行』、『26 嵯峨散歩、仙台・石巻』がある。(記事一覧はこちら) 【本書の内容】 作戦の転換が効を奏して、旅順は陥落した。だが兵力の消耗は日々深刻であった。北で警鐘が鳴る。満州の野でかろうじて持ちこたえ冬ごもりしている日本軍に対し、凍てつく大地を轟かせ、ロシアの攻勢が始まった。左翼を守備する秋山好古支隊に巨大な圧力がのしかかった。やせ細った防御陣地は蹂躪され、壊滅の危機が迫った。(第六巻裏表紙より) お薦め度:★★★★☆ 【本書の感想】 <旅順という悲劇> 日露戦争に疎い者でも、「旅順」と「バルチック艦隊」という単語くらいは思い浮かぶかもしれない。 私自身その程度の戦史知識であった。今回はこの二つについて書く。 まずは、陸海戦双方のターニングポイントとなった旅順について。 ロシア海軍の艦隊は大きく二つ、ウラジオ艦隊とバルチック艦隊を持っている。ロシアは当初、これらを統合して日本海軍の二倍の戦力にすることによって勝とうと企図し、バルチック艦隊の遠洋航海という奇策を思いついた。 その間、ウラジオ艦隊は旅順港に貝のごとく隠れ、バルチック艦隊の到着を待つことになった。 二艦隊が合流すれば日本海の制海権を奪われ、即敗戦につながると考えた海軍および大本営は、陸軍に旅順要塞の攻略を命じた。 ところが、これを担当した第三軍が悲劇であった。 乃木希典を軍司令官とし伊地知幸介を参謀長とするこの軍の悲運に、司馬はもっとも紙幅を割いている。 つまりは、無能な司令官と参謀のために、数千の命が無駄に失われていったということである。 その最たる例が「白襷隊」で、これは歩兵の中から白襷をかけた決死隊三千人を編成し、敵の防御力が最も集中している正面に一直線に突っ込んだもので、旅順要塞の放火を浴び一瞬で千五百人が死傷して得るものがなかった(第四巻、376項)。 このように、乃木軍は何も考えずに人の命を順番に崖から捨てていくようなことをした。 <乃木希典と児玉源太郎――非常時の軍事について> 司馬が乃木を無能として描いてることは有名で、その当否は歴史学の側からも様々な反証が挙げられている。 読者は、他書も読むことでより公平な乃木観を持てばいいと思う。 ここでは、司馬が自身の乃木観を重ねている、当時満州軍参謀長であった児玉源太郎の乃木評を引いてみたい。 児玉は、乃木と同じ長州人で、西南ノ役で双方若い少佐として熊本で西郷軍と戦った。そのころから乃木は連戦連敗であった。 乃木はそのころから下手な指揮官であったことを、児玉はよく知っている。しかし下手は下手なりにその性格はとびきり誠実で、責任感が強く、さまざまな点で、その遠戚にあたる吉田松陰に似ていた。(第四巻、368項) その乃木を支えるべき伊地知参謀長が、さらに無能であったことが、乃木の不幸であると児玉は考え、司馬もそのように思った。 乃木は部下からの信頼厚く、各国観戦武官にその心酔者を生み、のち神聖視されるような人格者であった。しかし伊地知の非常識な作戦を黙認し、無益かつ多大な犠牲を延々と垂れ流している以上、旅順が落ちないどころか日本が敗ける。 そう考えた児玉は、乃木の指揮権を一時的に取り上げることを決意した。 これは軍規を完全に逸脱した行為で、これを前例となって同様のことが氾濫すれば、日本軍は組織として瓦解せざるを得ないようなことだった。しかし児玉は、このまま無用に血を垂れ流し続けるよりも、一時的に軍規を犯してでも日本を救うことを考えた。指揮権を取り上げて旅順を落とすが、その代わり陥落の手柄は乃木に持たせた。 児玉が、乃木軍の参謀を一喝する場面は、児玉の迫力、国家に対する責任感を存分に感じさせる。 児玉は突如、両眼に涙をあふれさせた。……児玉は、かれなりにおさえていた感情を、一時に噴き出させたのである。 「陛下の赤子を、無為無能の作戦によっていたずらに死なせてきたのはたれか。これ以上、兵の命を無益にうしなわせぬよう、わしは作戦転換を望んでいるのだ」(第五巻、98項) 結局、児玉が乃木軍の作戦を覆し、指揮を執ったことで旅順は落ちた。 このあたり、近代日本の政軍関係を考えてきたこのブログとしては非常に興味深い。 例えば、児玉が日米開戦前に生きていたら、体を張って止められなかったか? 児玉でも止められないほど、当時の国家は硬直化していただろうか――という反実仮想に、多少意味はあるように思える。 旅順陥落後、日露両軍が敵味方の区別なく、この益なき消耗戦が終わったことを喜ぶ場面は印象深い。 「狂うがごどく、この開城をよろこんだ」と、兵站将校だった佐藤清勝という人が書いている。……なかには、日本兵が、ロシア兵の歩塁までのぼってゆき、酒を汲みかわしたりした。さらには酔ったおきおいで日露両兵が肩を抱きあいながら敵地であるはずの旅順市街まで出かけてゆき、町の酒場へ入ってまた飲むという光景さえ見られた。……この人間としての歓喜の爆発をおさえることができるような将校は一人もいなかった。(第五巻、285項) 戦争終結を願うことに敵味方はない、ということを示した感動的な場面であった。 <ロシア軍の失態> 単純に考えればロシアが敗けそうなところを日本が勝った理由の一端は、ロシア側にもあった。 この作品を通じて、司馬はロシア陸海軍の失敗と愚行を執拗に描いている。 陸戦1)遼陽会戦で、敵将クロパトキンが日本軍の主力を圧倒している西部戦線を捨てて、右翼の黒木軍へ自らの主力を展開させたこと。クロパトキンは天才的戦術家であったが、鴨緑江戦などで破られたことによる「クロキは強い」という強烈な印象が、彼の理性をひきずったとしか思えない(第四巻、143項)。 陸戦2)黒溝台の会戦で、持てる兵力を集中すれば日本軍を破れたところを、新任指揮官グリッペンベルグに対する政治的策略から、クロパトキンは戦力を小出しにしたため、日本軍への打撃は弱くて済んだ(第五巻、336項)。 海戦1)戦艦の艦長でさえ「不可能」と断定したバルチック艦隊のアフリカ周航を、皇帝の寵愛を受けていた官僚が断行した(第四巻、314項以下)。 海戦2)バルチック艦隊がアフリカを迂回するまでにさらした数々の醜態。英国商船を(さらには味方の船をも)日本船と勘違いしてやみくもに撃ち、世界世論の非難の的となった。その後もどこかに日本船が潜んでいるのではないか、つけてきているのではないかという強迫観念が将校はじめ末端の水兵を支配し、熱帯の暑さとともに彼らをノイローゼにした。 <明石元次郎の見たロシア> 日露戦争中、日本は明石元次郎という男をロシアに派遣し、百万円という当時でいう大金を渡してロシア国内の攪乱を命じた。結果的に明石は予想外の成果を収めることになるのだが、明石が見た当時のロシアの現実について、印象深いものを抜書きしておきたい。 なぜロシアが日露戦争中に崩壊したのか、社会主義革命以外の背景も見えてきて興味深かい。 ・反政府組織の領袖カストレンの部屋に明治帝の肖像写真が飾られており、カストレンは明石に「この日本の皇帝が、われわれを救うであろうことを信じている」と言ったという(第六巻、156項)。 ・明石が使っていたロシア人間諜の中に、農奴の息子で流浪の半生を送ったクリという初老の男がいたが、一向に成果を挙げないその能力の低さを責められると涙をうかべてこう言ったという。 「私は前半生を流浪のなかですごし、いのちがけの仕事ばかりをやってようやく食を得てきました。すでに肉体も衰えはじめたこの齢になってなお、金銭のためにこのようなあぶない仕事をしておりますのは、私にはこれしかできないからです……そのかわり、官憲につかまったときは決してご迷惑はかけませぬ。この拳銃か、この毒薬をもって自殺するつもりです。私の能力より私の誠意を買ってください」(第六巻、182項) 当時のロシア庶民の暮らしと誠実さがよくわかるエピソードである。 |
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2013年11月04日
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