書評291 佐藤俊樹『桜が創った「日本」――ソメイヨシノ起源への旅』(岩波新書、2005年)桜の季節だ。日本人にとっての原風景の一つである、「一面に広がる桜」。 今回取り上げるのは、社会学者による「桜」論である。 【著者紹介】 さとう・としき 1963年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授。専攻は比較社会学、日本社会論。 東京大学大学院社会学研究科博士課程中退。東京工業大学助教授等を経て現職。階層社会研究により新世代を担う社会学者として評価される一方、サブカルチャーについても造詣が深い。著書に『近代・組織・資本主義』『ノイマンの夢・近代の欲望』『不平等社会日本』など多数。 本ブログで取り上げた作品に書評41:『00年代の格差ゲーム』がある。 【目次】 1ソメイヨシノ革命 2 起源への旅 3 創られる桜・創られる「日本」 【本書の内容】 一面を同じ色で彩っては、一斉に散っていくソメイヨシノ。近代の幕開けとともに日本の春を塗り替えていったこの人工的な桜は、どんな語りを生み出し、いかなる歴史を人々に読み込ませてきたのだろうか。現実の桜と語られた桜の間の往還関係を追いながら、そこからうかび上がってくる「日本」の姿、「自然」の形に迫る。 お薦め度:★★★☆☆ 【本書の感想】 <全体の感想> 桜は日本人にとって特別な花である。 出会いと別れの季節に、日本人は飲めや歌えやの花見酒をずっと続けてきた。一面をピンクで埋め尽くし散っていく様に「日本らしさ」を重ね合わせてきた。…と、信じられてきた。 ところがそういう春の過ごし方、桜の見方の「伝統」が実はせいぜい江戸時代以降のものだ、というのは知っている人も多いと思う。 本書は、日本人の桜語りの方法論を跡づけ、その桜語りの「創られた伝統」の構造を解き明かすもの。 と書いてしまうと、「桜は“日本人らしさ”を捏造するために利用された」式の左翼的内容に聞こえるかもしれないが、そこは佐藤俊樹。そういう思考方法も返す刀で斬り返し、手堅い実証や分析がなされている。 <ソメイヨシノ革命――交錯する理想/現実> 現在日本の桜の約8割を占めると言われるソメイヨシノは、幕末にエドヒガンとオオシマザクラの交配で生み出され、明治初期に全国に広がっていった新種である。 ソメイヨシノは、種子ではなく接ぎ木によって増えていく(つまりクローン)、花はぺたっとしたピンクの単色、成長が早く20年ほどで盛りを迎える、といった大衆的性質を持つ。 それ以前は、東日本はエドヒガン系、西日本ではヤマザクラ系の多種多様な桜が見られた。淡いピンク一色で空を埋め、一週間ほどで一斉に咲いて散っていくソメイヨシノに比べ、他種の桜は色や咲く時期、咲いている期間も様々である。従ってソメイヨシノ以前は、桜が咲く時期も今よりバラバラで、花見の期間も一か月程度あったと推測される。 さらに、昔は兼六園や渋谷金王桜のような一本桜を愛でていたのが、17世紀以降徐々に今のように群生する桜の森の下で花見をする習慣に変わっていったことも、ソメイヨシノとの相性は抜群であった。 このように、「空を埋め尽くすピンク」「一瞬で咲いて散る儚い花」といったイメージは、明治以降のソメイヨシノが創ったものだ。 …と思いたいところだが、話はそんな単純ではないことを、著者はこう表現している。 ソメイヨシノの出現以前に、ソメイヨシノが実現したような桜の景色を何人もが詠っていたのだ。(48項) どういうことか。 たとえば足利義政の歌「咲みちて花より外の色もなし」には、非常にソメイヨシノ的な感性が感じられる。また、中世の吉野には桜が群生していたという事実はないにもかかわらず、『古今和歌集』の時代から「吉野」は桜の名所とされ憧れの的であった。 平安時代から現実にはない「一面の桜」が咲く「吉野」が理想郷として語られており、その理想をソメイヨシノが実現した。言わば現実が想像に追いつき、追い越した。 人々が理想とした「桜」よりも桜らしいソメイヨシノの出現に、日本人は日本の伝統を見出した。 その圧倒的な妖しき魅力の前に、「日本人は昔から桜のように…」などと語ってしまうのである。 こうして、夢想されていた桜の理想郷(イデア)がソメイヨシノによって実現され、そこに日本人は「日本らしさ」を見出し、それが全国に(戦前は植民地にも)広がることで「桜=日本人らしさ」は根づいていった。 ここでは、「理想/現実」が互いに補強し合う、連環的な磁場のようなものができあがっている。 このあたりオートポイエーシスを使った議論はさすが佐藤俊樹といったところ。 <それでも桜は美しい> この“桜をめぐる環”からは抜け出すのは容易ではない。 たとえば、ソメイヨシノの人工的な歴史や平板なビジュアルを殊更に嫌い、「ヤマザクラこそ真の日本の桜だ」と反発する人もいる。 しかし上に見たように、ソメイヨシノ以前は日本列島がヤマザクラに覆われていたわけではなく、エドヒガンをはじめ多様な桜が咲いていた。ソメイヨシノへの反発が新たな「伝統」を捏造してしまう典型であるという意味で、この“環”から自由だとは言えない。 桜を語ろうとすれば、たちまちこの“環”に絡めとられてしまう可能性があると佐藤は喝破する。 だからこそ、単純に美しい桜を愛でたいと思う。 上野のソメイヨシノは圧巻だし、花見に行かずには春を迎えた気がしない。 それがたとえ「創られた伝統」が私の感性を支配した結果であっても、「So What?」である。 そんな私の桜に対するスタンスは、おそらく佐藤も同意してくれるのではないかな。
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2014年03月19日
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