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【著者紹介】 さいとう・たまき (1961年―) 精神科医、批評家。筑波大学医学医療系教授。 1990年筑波大学大学院医学研究科博士課程修了。医学博士。1987年から爽風会佐々木病院勤務。同病院診療部長などを務めた。批評家としては漫画・アニメなどを精神分析の立場から解釈した『文脈病』(青土社)でデビュー。『社会的ひきこもり』(PHP新書)の社会的反響からマスコミでひきこもりについて語るようになった。 2013年『世界が土曜の夜の夢なら』で角川財団学芸賞受賞。 【目次】 第1章 母親は「諸悪の根源」である 第2章 システムとしての家族) 第3章 「世間」と「家族」と「個人」 第4章 家族の価値観 第5章 結婚と家族の理不尽 【本書の内容】 家族は、ひきこもり、DV(家庭内暴力)、AC(アダルト・チルドレン)などの病の温床になっているが、他のどんな人間関係よりましである。多くの家族の症例をみてきた精神科医である著者だけが書ける、最も刺激的にして、愛情あふれる家族擁護論。母子密着問題、「世間」と「家族」と「個人」、結婚の理不尽、等を通して、現代における家族のリアリティとは何かに迫る。 お薦め度:★★★★☆ 【本書の感想】 <全体の感想> 「ちくま」に連載されたエッセイをまとめたもので、体系的ではないものの、多様な示唆に富む好著である。 著者は「ひきこもり」の専門家として知られるが、臨床精神科医としての経験に裏打ちされた人間への洞察は、非常に広い射程を持っていると感じた。 本書の主張をざっくりまとめるとこうなる。 あらゆる価値が相対化されたポストモダン社会と言われる現代だが、「家族」だけは未だに揺るぎない価値を保持している。そのことがひきこもりなど様々な問題の温床になっているが、家族よりマシなシステムも見当たらない以上、これをうまくオペレーションしていくしかない。 本書の副題「いちばん最後に残るもの」とはそういう意味だ。 この家族に対する視点も斬新だが、他にも考えさせられる知見が散りばめられていて、精神分析に疎い私にとって収穫の多い読書となった。 <「家族」という価値の源泉> まず本書の重要な指摘は、人々が思っているよりも「家族」が現代における価値の源泉になっているということ。 生き方が多様化し晩婚化が進んだ現代では、未婚の中年男女も珍しくない。当然ながら、30代でバリバリ仕事をこなす未婚OLも、家で子どもを育てている専業主婦も平等に扱われるべきである。むしろ、社会的には前者の方が生産的だと評価されてもおかしくない。しかし、未婚女性は何となく「負け犬」として肩身の狭い思いをしなければならない。 著者はここに「女の幸せは結婚して子どもを産むことだ」という世間の価値観の圧力があると指摘する。 女性が女性として幸福であるためには、ただ個人として女性であるだけではまったく不足なのだ。幸福を可能にするためには、女性であると同時に、さらに妻と母親を兼任しなければならない。(118項) また、ひきこもり問題の裏にも同様に、暗黙の価値観が働いている。 ひきこもりの少年少女、青年たちは、何も社会に害を与えているわけではない。にもかかわらず、なぜこれだけ社会問題化し、世間から非難されるのだろうか。 ひきこもり青年たちは、非社会的存在ではあっても、反社会的存在ではない。……彼らはが家族を持とうとしないこと、さらにはイエの存続に寄与しないことこそが、批判されているのではないだろうか。(147項) なぜ、子持ち専業主婦より未婚OLの方が世間的評価が低いのか。なぜ、ひきこもりは害悪がないのに根絶が目指されるのか。 そこには「家族」という暗黙の価値観が根強く横たわっているのである。 自分のことを考えてみてもはっとさせられる指摘だが、今まで政治学や社会学、現代思想ではあまり指摘されてこなかった点だと思う。 <家族の病理――ひきこもりの事例> 著者は家族について「生存していくうえで、あるいは子どもを養育していくうえで、あるいは相互扶助し合う大義名分として、これほど機能的で一般性が高い形態はほかにない」(240項)とする一方、自らの臨床医としての経験上、家族は「諸悪の根源である」とも指摘する。 たとえば、ひきこもりの子どもを抱える家庭では、著者が「日本的ダブルバインド」と呼ぶ現象が見られる傾向があるという。 ダブルバインドとは言葉によるメッセージと態度が矛盾する状態のことで、親が子どもに対してそういう関係を作り出してしまうことで、ひきこもりが長引いてしまうケースが多い。 多くのひきこもりを抱えた母親たちが、わが子に「早く自立しなさい」「家から出なさい」という否定的メッセージを繰り返し与えつつ、実はわが子の生活を曖昧に支え続けている。……否定の言葉とともに抱きしめることが、いかに人を束縛するか。(30項) ダブルバインドから解放されるとともにひきこもりから脱出した、というケースも報告されている。 ひきこもりはじめてから親がまったく相手にしてくれなくなったので仕方なくアルバイトに出はじめた。親が「もうずっとひきこもったままでいい」と話すのを聞いてひきこもりをやめた。 この正反対に見える例に共通するのは、言語と態度の一致=ダブルバインドの不在である。 (このダブルバインドが人を拘束する、という実感は家族以外の場面でも感じたことがある人はいると思う。) 著者は、こういった家族の病理から距離を取るために、ひきこもりの治療において「家族以外の親密な仲間関係を数人獲得すること」を目標にすることがあるという。 それはしばしば誤解されるように、「個人を制度に馴致させよう」という試みとは正反対の方向性をはらんでいる。私が目指すのはむしろ「社会や制度から自由であるための条件」として「親密圏を獲得すること」にほかならない。(102項) <おわりに――臨床医からのサジェスチョン> 本書は精神医学の知見が勉強になるのだが、それが臨床医としての著者の豊富な実体験に基づくだけに、説得力がある。他の著書も読んでみたくなった。 他にも面白い指摘が多々あったので、以下に抜書きしておく。 ・「コミュニケーション」とは「情報を伝達すること」ではない。人間のコミュニケーションには、おおまかにいって、「情報の伝達」と「情緒の伝達」という、二つの機能がある。一般的に後者の「情緒の伝達」は意識されないが、コミュニケーションをとる上で欠かせない要素である(81項)。 ・上野千鶴子を「このクラスになると負け犬どころか、地獄の番犬ケルベロスといった趣すらあ」ると評していて笑った(125項)。 ・日本の「単身赴任」、韓国の「雁パパ(子どもの英語留学に母親が帯同し、父親だけ国内に残って学資を仕送りする)」という家族形態が示すのは、今や家族における父親の役割が経済的機能のみになってしまったことである。
つまり近代とは、多くの男性が、父親として(あるいは夫として)「俺が食わせてやっている」と脅迫的に役割を確認しなければ、家族の成員たりえない時代なのではないか。(159項) しかし、「俺が食わせてやっている」言説で家族を抑え込もうとしたことがある人なら、そう言い切った後の後味の悪さ、後ろめたさをしっているはずだ、と著者は喝破する。それは就労が自明の義務ではないからである(173項)。 |
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2014年04月20日
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