書評289 吉田兼好「徒然草」山崎正和訳『徒然草・方丈記』(学研M文庫、2001年)所収今年の宿題にしている古典シリーズ第1弾。最近読んだ小川洋子や丸谷才一が何かと「方丈記」を褒めているのが記憶に残っていて、一度読まなければならないと思っていたところに、「徒然草」とセットで山崎正和が訳しているということを知って即刻買ってしまった次第である。 今回はまず同時収録の「徒然草」から。 【著者紹介】 よしだ・けんこう (1283年頃〜1352年頃) 鎌倉末期〜南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家。本名は卜部兼好(うらべ かねよし/うらべのかねよし)。 古来より神祇官を出す卜部氏に生まれたが、卜部氏が後の時代に分家したため江戸時代以降は吉田兼好と通称されるようになった。その作品『徒然草』は日本三大随筆の一つとされている。 やまざき・まさかず (1934年─) 劇作家、評論家。大阪大学名誉教授、LCA大学院大学学長。 京都大学大学院博士課程修了。大阪大学文学部教授、東亜大学学長などを歴任。戯曲とともに文明的な観点からの評論を数多く著す。『世阿弥』(岸田國士戯曲賞)、『オイディプス昇天』(読売文学賞)、『柔らかい個人主義の誕生』(吉野作造賞)、など受賞多数。 本ブログで取り上げた作品に書評101:『社交する人間』、対談に書評64:「教養を失った現代人たちへ」がある。 【本書の内容】 平安末期から鎌倉初期の乱世を見つめた鴨長明。鎌倉幕府の滅亡から南北朝の争乱へとつづく、激動の時代に生きた吉田兼好。現世を捨てて、それぞれ出家遁世の道を選んだ二人は、はげしく変転する世の中に何を見たのだろうか。中世随筆文学の傑作は、現代に生きる私たちに、人生とは何かを鋭く問いかけ、生きるヒントを与えてくれる。 お薦め度:★★☆☆☆ 【本書の感想】 日本三大随筆の一つとされる本作。 読み始めて気づいたのだが、やたら矛盾が多い。 色恋沙汰を戒めたかと思えば恋を賛美し、暴飲暴食の害を説いては「酒飲みは罪が許されるほどおもしろい」と言う。友は持つべきもの、と言った端から「人づきあいは一切捨てるべし」と書く。 この矛盾をどう考えるべきか、と思っていたところへ山崎正和の「解説」が的確な指針を与えてくれた。 「徒然草」も、一見すると、いたるところに矛盾に満ちた主張や判断を併存させてゐるが、おそらくその矛盾こそが、じつは著者のほんたうの主張の内容なのである。(215項) つまり月花の美しさであれ、男女の恋であれ、無常観であれ、その真実は一本道の一方の極にあるのではない。 美しきものから距離を置いて見るからこそ美しく、恋に溺れず一定の距離を置いて付き合うことに味があり、俗事にこだわるからこそ無常観が切実に感じられる。 山崎によれば、この兼好の「根本において理想を認めながら、あへてそれに向かって徹底することを拒む思想は、日本中世に広く探し出すことができる」。同時収録の「方丈記」然り、世阿弥然り。 実はこの真実は曖昧なもの、中間的なものにあるという考え方こそ今後の脱近代哲学の手がかりである…というのが山崎の思想なのだが、「徒然草」からずれてしまうので書評101:『社交する人間』に譲る。 ともあれ上記のことを念頭に置きながら読んでみると、本作の主張がすっきりと理解できるようになる。 丸谷才一は「日本の随筆の伝統は好きなものづくしである」と喝破したが(書評286:『文学のレッスン』参照)、本書は「好きなものづくし」にとどまらず「世の中観察日記」とも言うべき冷静な観察眼とブレない芯があったと言うべきだろう。 以下、印象に残った部分を引用しながら感想を加えていく。 長らく隔たっていて、久しぶりに会った人が、自分の側にあった話を、あれこれと片はしからしゃべり続けるのは、興ざめなものである。……教養品格の点で二流の人物は、ちょっと外出しても、今日あったことだといって、息もつぎあえずに語り興じるものである。(60項) いわゆる「自分の話ばかりする人」ですね。これは頷くこと大。気を付けよう。 どうかしたおりに、今現に人の言っていることも、目に見えているものも、さらには自分の心のうちも、このようなことはいつかあったような気がして、いつとは思い出すことができないながらに、たしかにあった心地がするものであるが、こんな感じは、私ひとりだけが感じるものなのであろうか。(75項) 兼好さん、それデジャヴって言いますよ! デジャヴって昔からあったんですねえ。 狂人のまねだといって大通りを走るなら、その人はすなわち狂人である。悪人のまねだといって人を殺すならば、悪人そのものである。逆に、千里を行く駿馬を見習う人は、その駿馬と同類であり、中国上代の聖天子、舜に見習おうとする人は、すでに舜の仲間である。偽りからはじめるにせよ、賢人をまねようとする人こそ、賢人といってよいのである。(88項) 要するに「偽善も善」ということ。 田舎の人間が賀茂祭を見物する様子を評して、 「見物の行列がひどく遅い。やってくるまでは桟敷にいる必要はない」といって、奥の部屋で酒を飲みものを食べ、囲碁や双六などをして遊び、桟敷には見張りの人を置いておく。そして、見張り人が「行列が通ります」と知らせると、めいめいあわてふためいてわれがちに桟敷にかけのぼり、落ちてしまいそうなほど簾を外に張り出して、押し合いながら、一事も見落とすまいと目を見張る。「ああだ、こうだ」と、見るものごとに言葉をさしはさみ、行列が通り過ぎてしまうと、「また次の行列が通るまで」といって、桟敷からおりてしまう。こういう人たちはただ、雰囲気を忘れてものだけを見ようとするのであろう。(130項) 京都に住んでいた頃に感じたことだが、観光客が観光名所ばかりに群がっている様は本当に味気ない。 葵祭や祇園祭など、観に行っても人の頭だけ見て帰ってくる、なんてことがオチで、祭りそのものを楽しめる状況ではない。清水寺などThe・観光名所よりも、哲学の道などちょっとマイナーなところの方が人通りが少なく風情があって好きである。 これも、よく考えてみると「一歩ひいて美しいものを見る」精神の一例かもしれない。 老人のやることは、ぶざまであっても気の毒で人も笑えず、また、老人が衆に交わる姿も、不似合いで見苦しい。だいたい、老人はすべての仕事をやめて、暇のあることこそが見た目もよく、このましいものである。(142項) この点は時代が変わったとつくづく思う。今や「人生六十から」という時代であり、溌剌としたご長寿を見るのも、悪い気はしないだろう。 他人に勝る点があるというのは、じつは大きな欠点なのである。人品の高さにおいても、学問・芸術にすぐれていることにおいても、また先祖の誉れにおいても、人に勝っていると思っている人は、たとえ口に出しては言わないまでも、すでに心のうちに多少のあやまちを犯しているものである。(147項)
人間気づかないうちに慢心を飼ってしまっているもの。はじめに引いた「自分の話ばかりする人」とともに、常に自戒しておきたいことである。 |
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2014年02月26日
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