|
【著者紹介】 おがわ・ようこ (1962年─) 小説家。 早稲田大学第一文学部文芸科卒業。1991年「妊娠カレンダー」で芥川賞、2004年『博士の愛した数式』で読売文学賞・本屋大賞、同年「ブラフマンの埋葬」で泉鏡花文学賞、2006年『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞をそれぞれ受賞。 本ブログで取り上げた著書に書評35:『博士の愛した数式』、書評40:『偶然の祝福』、書評47:『余白の愛』、書評63:『シュガータイム』、書評88:『深き心の底より』、書評230:『ミーナの行進』、書評275:『心と響き合う読書案内』がある。 【本書のあらすじ】 「大きくなること、それは悲劇である」。この箴言を胸に十一歳の身体のまま成長を止めた少年は、からくり人形を操りチェスを指すリトル・アリョーヒンとなる。盤面の海に無限の可能性を見出す彼は、いつしか「盤下の詩人」として奇跡のような棋譜を生み出す。静謐にして美しい、小川ワールドの到達点を示す傑作。 お薦め度:★★★★☆ 【本書の感想】 <全体の感想> ああ、そうだった。思い出した。 小川洋子を読むとはこういうことだった。 小説の世界に浸るとはこういう経験だった。 そういう静かな幸福感と安堵感に満たされて、ため息とともにページを閉じる。 小川ワールドの愉悦を存分に味わうことができた読書であった。 <チェスの奥にもやっぱり小川ワールド> 本書は小さなチェス棋士の一生を綴った物語である。 ただし、チェスを知っているかどうかはたいした問題ではない。この本を楽しめるかどうかは、チェスの世界に見出された小川洋子ワールドに浸れるかどうか、そこにかかっている。 本書のチェスの世界の描き方は、書評35:『博士の愛した数式』を思わせる。『博士』で小川洋子は数学の奥に美しさを見たように、本書ではチェスの世界に美しさを見出したといえばわかりやすいだろうか。 しかもその美しさは、以前よりもさらに洗練されているように思う。 たとえば、主人公の少年は自分がチェスを指しているときの感覚をこう表現している。 「心の底から上手くいってる、と感じるのは、これで勝てると確信した時でも、相手がミスをした時でもない。相手の駒の力が、こっちの陣営でこだまして、僕の駒の力と響き合う時なんだ。そういう時、駒たちは僕が想像もしなかった音色で鳴り出す。その音色に耳を傾けていると、ああ、今、盤の上では正しいことが行われている、という気持ちになれるんだ。上手に説明できないけど……」(101項) この文章を味わうことができる人なら、間違いなく本書は「買い」である。 <小川ワールドの構成要素――空想・異物・奇妙・謙虚> 小川ワールドには、奇妙なキャラクターや身体へのこだわり、現実と空想の境界線がなくなってしまう感覚が欠かせない。それは本書でも同じである。 小さいころから、少年の得技は空想であった。ビルの屋上に閉じ込められた象と壁の中にいる少女を夢想し、彼らと毎日語らうことを日課とした。 想像上の友人たちは皆、不自由な自分の運命を受け入れていた。 「どうしてだろう。自分から望んだわけでもないのに、ふと気がついたら皆、そうなっていたんだ。でも誰もじたばたしなかった。不平を言わなかった。そうか、自分に与えられた場所はここか、と無言で納得して、そこに身体を収めたんだ」(181項) そう言う少年もまた、奇妙な身体的特徴を受け入れ、「与えられた場所」に身体を収めることになるのである。 主人公とともに歩む動物の存在は書評230:『ミーナの行進』のコビトカバを思わせるし、身体の特定の部位の描写は書評47:『余白の愛』以来小川作品の重要な要素になっている。 自分の立場を全うする慎み深さはカズオ・イシグロの世界観にも通じるかもしれない。 小川洋子の作品にはよく「静謐」という形容詞が使われるが、本書もその期待を全く裏切らない。
いい意味で金太郎飴のような、チェスで切っても出てきたのはやっぱり小川洋子だった、という作品である。 |
書評 日本文学
[ リスト | 詳細 ]
ブログのメインである、過去の書評です。日本の小説・ミステリや戯曲などを扱っています。
書評283 正岡子規『ちくま日本文学040 正岡子規』(ちくま文庫、2009年)司馬遼太郎『坂の上の雲』の中で、正岡子規が非常に魅力的に描かれていて(書評その1参照)、子規の文章も読んでみたくなった。ちくま日本文学シリーズは書評134:『ちくま日本文学006 寺山修司』以来である。 【著者紹介】 まさおか・しき (1867―1902年) 俳人、歌人。名は常規(つねのり)、幼名は升(のぼる)。 1867年松山生まれ。子規(俳句)、獺祭書屋主人(評論)、竹の里人(短歌・新体詩)等の雅号をもつ。新聞『日本』を拠点に俳句短歌革新運動を展開。カリエスを病みつつ数々の名作を残し、近代短詩型文学の祖としての偉業を成した。 【目次】 病/夏の夜の音/飯待つ間/小園の記/車上所見/雲の日記/夢/蝶/酒/熊手と提灯/ラムプの影/明治三十三年十月十五日記事/死後/くだもの/煩悶/九月十四日の朝/松蘿玉液(抄)/墨汁一滴(抄)/病牀六尺(抄)/歌よみに与うる書/俳句問答/古池の句の弁/短歌/俳句 お薦め度:★★★☆☆ 【本書の感想】 <全体の感想> 『墨汁一滴』『病牀六尺』などの代表的な随筆、『歌よみに与うる書』などの詩歌論を収める。 総花的な編集だが、一度は正岡子規を読んでおきたい、という人にお薦め。 『坂の上の雲』で子規に興味を持った私にとって、本書は子規の人となりを知る上で格好のテキストであった。 <くだものづくし> 子規はくだものが好きであった。学生時代から余裕があればくだものを買い、旅に出ても酒に金を使うのではなくくだものばかり食べていたという。病気になってからは外に楽しみがなくなったので、毎日くだものを食べるようになった(「くだもの」104項以下)。 子規の日記を読んでも、毎日柿か梨をまるまる1個か2個むいて食べている。くだものの好みが自分と似ていて少し嬉しい。 くだものについて書いたエッセイも多い。一例を引くと、 枇杷はうまけれど種子大きく肉少なきこそ飽かぬ心地はすれ。桑の実はなべての人に知らねども菓物の中これを外にして甘き者は無し。……梨は涼しくいさぎよし。……桃は世にへつらわぬ処に一段高き処あり。……葡萄は甘からず渋からず人に媚びずさりとて世に負かず君子の風あり。(「松蘿玉液 抄」152―153項) <小味の国> 明治初期は、農産物の品種改良で生産性向上を目指す運動が盛んであった。 子規はその利点を意識しつつも、「大きいものは経済的であるが、小さい方がうまい」として、日本特有の美味は小さいものにあると述べる。 日本は島国だけに何もかも小さく出来て居る代りにいわゆる小味などいううまみがある。詩文でも小品短篇が発達して居て絵画でも疎画略筆が発達して居る。しかし今日のような世界一家という有様では不経済な事ばかりしていては生存競争で負けてしまうから牛でも馬でもいちごでも桜んぼでも何でもかでも輸入して来て、小い者を大きくし、不経済的な者を経済的にするのは大賛成であるが、それがために日本固有のうまみを全滅する事の無いようにしたいものだ。(「墨汁一滴 抄」210―211項) <おわりに> 何だか食べ物に関する文章ばかり引用してしまったが、最後にはっとさせられる一節を引いておく。 悶えるような病苦と何年も闘った子規だからこそ書ける、シンプルだが胸を打つ名文である。 余は今まで禅宗のいわゆる悟りということを誤解していた。悟りという事はいかなる場合にも平気で死ぬることかと思っていたのは間違いで、悟りという事はいかなる場合にも平気で生きて居る事であった。(「病牀六尺 抄」238項)
|
書評280 芥川龍之介「藪の中」『芥川龍之介全集4』(ちくま文庫、1987年)所収以前読んだ阿刀田高の本で、芥川の最高傑作として推薦されていた作品。今回はちくま文庫版全集の中から本作だけを取り上げる。 【著者紹介】 あくたがわ・りゅうのすけ (1892-1927) 作家。 東京の下町生まれ。幼いころより和漢の書に親しみ、怪異を好んだ。東大英文科在学中に書いた「鼻」が夏目漱石の激賞を受ける。しばらく教員生活をしたのちに創作に専念、第一創作集「羅生門」によって文壇の地位を確立。以後、王朝物、キリシタン物、開化物など、たえず新機軸につとめ、知的で清新な作風をつくりあげた。睡眠薬により自殺。 お薦め度:★★★☆☆ 【本書の感想】 藪の中で起こった強盗強姦事件の経緯が、3人の当事者と4人の証言者のモノローグで構成される仕組みになっている。 しかし、それらは噛み合わない部分が多く、真相はついにわからない。 このモノローグの畳み掛けはスリリングであり、引き込まれる。 文学研究史上は、この事件の「真相」をめぐって相当の論争が交わされたそうだが、この作品を傑作と褒めた阿刀田高は、この作品の結論を詮索することに意味はなく、「結局見る人によって現実は違うのであり、全ては藪の中」だというのがこの作品のメッセージだとしている(書評108:『小説家の休日』参照)。 小川洋子は芥川の文章について、「文章はキラキラと装飾されているから美しいのでなく、むしろ飾りがないから、美しい」と評している(書評275:『心と響き合う読書案内』)。 また、前記の阿刀田は芥川が創作に苦しんだ理由として、若くして文壇の寵児となったためサラリーマン生活の経験がないことを挙げている。 芥川の文章をきちんとまとめて読んだのはこれがはじめてだが、確かに、文章の切れ味、言葉の選択には唸らされるし、本作品のようにモノローグを重ねて「藪の中」を表現するというアイディア、技法は素晴らしい。 ただ読み方によっては、技巧にはしりすぎて厚みがない、という見方もできる。 比較して言うなら、同じく近代日本文学のストーリーテラーである太宰治が、その作品に人間性が濃厚に滲んでいるのに対し、芥川はそれが見えにくい。人間臭さをあまり感じないのである。 これが阿刀田の言うところの「経験」に由来するものなのか、今後芥川作品を読み続けていきたい。 なお、有名な黒澤明監督の『羅生門』の原作は「羅生門」ではなくこの「藪の中」だそうである。
こちらも機会があれば観てみたい。 |
書評268 筒井康隆『時をかける少女』(角川文庫<新装版>、2006年)アニメ映画の名作『時をかける少女』の原作を、いつか読みたいと思っていた。先日、蓮さんのブログで筒井康隆の名前を見て、思い出して手に取ってみた。 【著者紹介】 つつい・やすたか (1934年─) 小説家、劇作家、俳優。 大阪生まれ。同志社大学文学部卒業。日本を代表するSF作家の一人で、ツツイストと呼ばれる熱狂的なファンを持つ。2002年紫綬褒章受章。 『虚人たち』で泉鏡花文学賞、『夢の木坂分岐点』で谷崎潤一郎賞、『ヨッパ谷への降下』で川端康成文学賞、『朝のガスパール』で第12回日本SF大賞、『わたしのグランパ』で読売文学賞受賞をそれぞれ受賞。 本ブログで取り上げた作品に書評118:『家族場面』がある。 【収録作品】 時をかける少女 悪夢の真相 はてしなき多元宇宙 【本書の内容】 放課後の誰もいない理科実験室でガラスの割れる音がした。壊れた試験管の液体からただようあまい香り。このにおいをわたしは知っている―そう感じたとき、芳山和子は不意に意識を失い床にたおれてしまった。そして目を覚ました和子の周囲では、時間と記憶をめぐる奇妙な事件が次々に起こり始めた。思春期の少女が体験した不思議な世界と、あまく切ない想い。わたしたちの胸をときめかせる永遠の物語もまた時をこえる。 お薦め度:★★★★☆ 【本書の感想】 <時をこえる「時かけ」> いやあ、これはいいですよ。 少女趣味と言われようと何だろうと、いいものはいい。 淡い初恋と甘酸っぱい青春を駆け抜けるように描く、正統派の短篇である。 初出は1965年で、「まあ!どうしたのかしら?」など古めかしい表現もあるが、ありふれた学校生活は今でも変わらないので、すんなり読める。 私が観た映画はアニメ版だけで、原田知世版や仲里依紗版は観ていない。それでも読んでいるあいだに、「未来で待ってる」とか「うん、すぐいく。走っていく」とか、名台詞が耳にリフレインして、余計に切なかった。 SFやジュブナイルの枠を超えて、もはや青春小説における現代の古典と言ってもいいかもしれない。 何度も映画化される作品には、やはりそれだけの理由と価値があると改めて思った。 少女は時をかけ、『時をかける少女』もまた時をこえて愛され続けるのだ。 <筒井康隆と太宰治> 本作はジュブナイルだけに、いわゆる筒井文学の、書評118:『家族場面』のようなドギツさやぶっ飛び方は控えられている。 こんなに正統派の、後世に読み継がれるような傑作も書けるなんて、筒井康隆はやはり大作家である。 そんなことを考えていると、筒井康隆って、何だか太宰治に似ているような気がしてきた。 筒井はSF作家、太宰は暗い内向的な作家のレッテルを貼られているが、実は二人ともあらゆるジャンルの作品を縦横無尽に書き尽くしているし、その表現力も万華鏡のように多様だ。 そして、この「時をかける少女」はあの名作「走れメロス」を思い起こさせる。 一気呵成に読ませる疾走感、胸躍るストーリー、思春期特有の敏感な感性、極めつけは淡い恋心。 筒井康隆の他の作品も読みたくなってきた。
ちなみに、本書に収録された他の2篇もジュブナイルだが、残念ながら「時かけ」を読んだ後では見劣りする。 「時かけ」と比べるなという話かもしれないが。 |
|
【著者紹介】 だざい・おさむ (1909─1948年) 作家。本名、津島修治。 青森県生まれ。東京帝大仏文科に入学するも、講義についてゆけず中退。学生時代から作家を希望するが、自殺未遂を繰り返す。結婚後流行作家となったが、1948年、玉川上水に愛人と入水心中。主な作品に『晩年』、『女生徒』、『走れメロス』、『新ハムレット』、『駆込み訴へ』、『津軽』、『新釈諸国噺』、『お伽草紙』、『斜陽』、『人間失格』など。 過去に本ブログで取り上げた作品に、書評87:「畜犬談」、書評92:『太宰治全集3』、書評100:『太宰治全集4』、書評140:『太宰治全集5』、書評238:『太宰治全集6』がある。 【目次】 貧の意地/大力/猿塚/人魚の海/破産/裸川/義理/女賊/赤い太鼓/粋人/遊興戒/吉野山 お薦め度:★★★☆☆ 【本書の感想】 <全体の感想> 「新釈諸国噺」は、太宰が「世界で一ばん偉い作家」と仰ぐ井原西鶴の作品を下敷きに、太宰独特のアレンジを加えた連作短篇集。要するに西鶴へのオマージュである。 私は西鶴の原作を読んだことがないけれども、面白く読めた。こういう作品を書いてしまうところに、太宰の才能を感じるわけですね。 あらすじの元ネタもパターンがあって、お決まりのネタは ・貧乏人の悲哀 ・茶遊びで身を滅ぼす ・無駄なプライドを通すことの滑稽さ などが、かたちを変えて顔を出す。 太宰の才能を感じる、と書いたのは、こういう他愛もない話をおもしろおかしくデフォルメできるという意味である。 以下、印象に残った作品の短評。 「貧の意地」 いかにも講談にありそうな話。 展開が二転三転して結局そういうオチ?っていう。落語にもこういうネタありそうだな。 太宰のストーリーテラーとしての手腕が冴えている。 「猿塚」 駆け落ち夫婦と義理固い猿の話。 失って気づく大切なもの、とはこういうものなのだろう。 人間になつく義理固い動物といえばまず犬が思い浮かぶけど、猿も飼い慣らせばこういうふうになるのかもしれない。 「裸川」 たった十一文の銭を捜すために四両を使って得意満面な武士。 やっぱり太宰は上手い。生真面目であるがゆえの滑稽さを描く上手さは、現代で言えば森見登美彦に通じるところがある。森見も『新釈 走れメロス』なんか書いてるだけあるな、と全然関係ないことを考えてしまった。 「義理」 友人に義理立てせざるを得ない武士の悲しさ、というありきたりなあらすじだけど、特筆すべきは太宰の人物造形。友人の息子の小憎たらしさといったら、読んでいるこっちまで腹立たしくなる。その小僧のために犠牲にせざるをえない武士の命のあっけなさ。 「赤い太鼓」 小噺、という表現がぴったりくる、とんちの妙味が味わえる一品。 ミステリの一種にショート・ショートという分野があるが、これなんかはその中に入れても遜色ないと思う。 「吉野山」
だらしないダメンズが、自虐ネタを滔々と語るモノローグのかたちをとっており、その意味で完全に太宰カラーの作品である。西鶴の原作からどの程度手が加わっているのかわからないが、この語り部はまったく太宰そのものと言ってもよい。たとえばこれを「右大臣実朝」の公暁のモノローグだと言って人に読ませても、違和感なく読んでしまうに違いない。 |




