書評284 司馬遼太郎『坂の上の雲』その4全8冊(文春文庫、1978年)来年のW杯グループリーグの組合せが発表されました。わりと恵まれた組合せとはいえ、日本より格上ばかりなのを忘れてはいけません。 実力的にはまだ挑戦者の立場です。 さて司馬の長篇も最後の書評です。足掛け4ヶ月、長かった…。 【著者紹介】 しば・りょうたろう (1923─1996年) 作家。 大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960年『梟の城』で直木賞を受賞し、以後歴史小説を一新する話題作を続々と発表。『国盗り物語』『竜馬がゆく』で菊池寛賞など受賞多数。 本ブログで取り上げた作品に『燃えよ剣』、『竜馬がゆく』、『翔ぶが如く』、『草原の記』、「故郷忘じがたく候」、「街道をゆく」シリーズの『19 中国・江南のみち』、『40 台湾紀行』、『26 嵯峨散歩、仙台・石巻』がある。(記事一覧はこちら) 【本書の内容】 本日天気晴朗ナレドモ浪高シ―明治三十八年五月二十七日早朝、日本海の濛気の中にロシア帝国の威信をかけたバルチック大艦隊がついにその姿を現わした。国家の命運を背負って戦艦三笠を先頭に迎撃に向かう連合艦隊。大海戦の火蓋が今切られようとしている。感動の完結篇。巻末に「あとがき集」他を収む。(文庫版第八巻裏表紙より) お薦め度:★★★★★ 【本書の感想】 <戦勝が狂気を生むという歴史> 日露戦争最後の陸戦、奉天会戦は日本軍有利のままロシア軍の戦略的撤退で幕を閉じた。戦略的撤退というのはクロパトキン司令官にとってであったが、国際世論はそうとは見なさず、日本の勝利として大々的に報じた。 このあたりを「キリだ」と見た児玉源太郎は、大本営へ和平工作の推進を促すが、東京が一向に動かないことにいらいらしていた。 児玉が閉口しきっていることは、新聞が連戦連勝をたたえ、国民が奉天の大勝に酔い、国力がすでに尽きようとしているのも知らず、「ウラルを超えてロシアの帝都まで征くべし」と調子のいいことをいっていることであり、さらに児玉がにがにがしく思っていることは政治家までもがそういう大衆の気分に雷同していることであった。(第七巻、183項) ここに戦争のエスカレーション・メカニズムの典型例を見ることができる。 結果的にはアメリカの仲介によって講和を結ぶことに成功し、児玉は胸を撫で下ろすことになるのだが、一歩間違えば昭和期の軍事エスカレーションを先取りしたかもしれない現象もあったことに留意しておきたい。 実際、陸戦は引き分けかひいき目に見てロシアの敵失による辛勝という状況だったし、佐藤鉄太郎や秋山真之が語っているように、圧勝した日本海海戦もその勝因は「運」であった(第八巻、180項以下)。 それを自国の実力と勘違いした日露戦争後の日本について、司馬の筆はふたたびあの苦い昭和におよぶ。 戦後の日本は……むしろ勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰するようになり、その部分において民族的に痴呆化した。日露戦争を境として日本人の国民的理性が大きく後退して狂躁の昭和期に入る。……敗戦が国民に理性を与え、勝利が国民と狂気にするとすれば、長い民族の歴史からすれば、戦争の勝敗などというものはまことに不可思議なものである。(第八巻、307項) <おわりに――「輝く白い雲のみを見つめて坂をのぼる」> この長い物語の「あとがき」には、タイトルの由来が書かれている。 ここには、司馬の昭和への慨嘆と明治への憧憬が、抑えようとも抑えきれずあふれ出ているようである。 政府も小世帯であり、ここに登場する陸海軍もうそのように小さい。その町工場のように小さい国家のなかで、部分々々の義務と権能をもたされたスタッフたちは世帯が小さいために思うぞんぶんにはたらき、そのチームをつよくするというただひとつの目的にむかってすすみ、その目的をうたがうことすら知らなかった。この時代のあかるさは、こういう楽天主義からきているのであろう。
楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いていたとすれば、それをのみ見つめて坂をのぼってゆくであろう。(第八巻、298項) |
書評 歴史小説
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さて本題。 前回までに、陸海軍の成り立ちを見た。 今回のエントリからいよいよ日露戦争の経過をたどる。 【著者紹介】 しば・りょうたろう (1923─1996年) 作家。 大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960年『梟の城』で直木賞を受賞し、以後歴史小説を一新する話題作を続々と発表。『国盗り物語』『竜馬がゆく』で菊池寛賞など受賞多数。 本ブログで取り上げた作品に『燃えよ剣』、『竜馬がゆく』、『翔ぶが如く』、『草原の記』、「故郷忘じがたく候」、「街道をゆく」シリーズの『19 中国・江南のみち』、『40 台湾紀行』、『26 嵯峨散歩、仙台・石巻』がある。(記事一覧はこちら) 【本書の内容】 作戦の転換が効を奏して、旅順は陥落した。だが兵力の消耗は日々深刻であった。北で警鐘が鳴る。満州の野でかろうじて持ちこたえ冬ごもりしている日本軍に対し、凍てつく大地を轟かせ、ロシアの攻勢が始まった。左翼を守備する秋山好古支隊に巨大な圧力がのしかかった。やせ細った防御陣地は蹂躪され、壊滅の危機が迫った。(第六巻裏表紙より) お薦め度:★★★★☆ 【本書の感想】 <旅順という悲劇> 日露戦争に疎い者でも、「旅順」と「バルチック艦隊」という単語くらいは思い浮かぶかもしれない。 私自身その程度の戦史知識であった。今回はこの二つについて書く。 まずは、陸海戦双方のターニングポイントとなった旅順について。 ロシア海軍の艦隊は大きく二つ、ウラジオ艦隊とバルチック艦隊を持っている。ロシアは当初、これらを統合して日本海軍の二倍の戦力にすることによって勝とうと企図し、バルチック艦隊の遠洋航海という奇策を思いついた。 その間、ウラジオ艦隊は旅順港に貝のごとく隠れ、バルチック艦隊の到着を待つことになった。 二艦隊が合流すれば日本海の制海権を奪われ、即敗戦につながると考えた海軍および大本営は、陸軍に旅順要塞の攻略を命じた。 ところが、これを担当した第三軍が悲劇であった。 乃木希典を軍司令官とし伊地知幸介を参謀長とするこの軍の悲運に、司馬はもっとも紙幅を割いている。 つまりは、無能な司令官と参謀のために、数千の命が無駄に失われていったということである。 その最たる例が「白襷隊」で、これは歩兵の中から白襷をかけた決死隊三千人を編成し、敵の防御力が最も集中している正面に一直線に突っ込んだもので、旅順要塞の放火を浴び一瞬で千五百人が死傷して得るものがなかった(第四巻、376項)。 このように、乃木軍は何も考えずに人の命を順番に崖から捨てていくようなことをした。 <乃木希典と児玉源太郎――非常時の軍事について> 司馬が乃木を無能として描いてることは有名で、その当否は歴史学の側からも様々な反証が挙げられている。 読者は、他書も読むことでより公平な乃木観を持てばいいと思う。 ここでは、司馬が自身の乃木観を重ねている、当時満州軍参謀長であった児玉源太郎の乃木評を引いてみたい。 児玉は、乃木と同じ長州人で、西南ノ役で双方若い少佐として熊本で西郷軍と戦った。そのころから乃木は連戦連敗であった。 乃木はそのころから下手な指揮官であったことを、児玉はよく知っている。しかし下手は下手なりにその性格はとびきり誠実で、責任感が強く、さまざまな点で、その遠戚にあたる吉田松陰に似ていた。(第四巻、368項) その乃木を支えるべき伊地知参謀長が、さらに無能であったことが、乃木の不幸であると児玉は考え、司馬もそのように思った。 乃木は部下からの信頼厚く、各国観戦武官にその心酔者を生み、のち神聖視されるような人格者であった。しかし伊地知の非常識な作戦を黙認し、無益かつ多大な犠牲を延々と垂れ流している以上、旅順が落ちないどころか日本が敗ける。 そう考えた児玉は、乃木の指揮権を一時的に取り上げることを決意した。 これは軍規を完全に逸脱した行為で、これを前例となって同様のことが氾濫すれば、日本軍は組織として瓦解せざるを得ないようなことだった。しかし児玉は、このまま無用に血を垂れ流し続けるよりも、一時的に軍規を犯してでも日本を救うことを考えた。指揮権を取り上げて旅順を落とすが、その代わり陥落の手柄は乃木に持たせた。 児玉が、乃木軍の参謀を一喝する場面は、児玉の迫力、国家に対する責任感を存分に感じさせる。 児玉は突如、両眼に涙をあふれさせた。……児玉は、かれなりにおさえていた感情を、一時に噴き出させたのである。 「陛下の赤子を、無為無能の作戦によっていたずらに死なせてきたのはたれか。これ以上、兵の命を無益にうしなわせぬよう、わしは作戦転換を望んでいるのだ」(第五巻、98項) 結局、児玉が乃木軍の作戦を覆し、指揮を執ったことで旅順は落ちた。 このあたり、近代日本の政軍関係を考えてきたこのブログとしては非常に興味深い。 例えば、児玉が日米開戦前に生きていたら、体を張って止められなかったか? 児玉でも止められないほど、当時の国家は硬直化していただろうか――という反実仮想に、多少意味はあるように思える。 旅順陥落後、日露両軍が敵味方の区別なく、この益なき消耗戦が終わったことを喜ぶ場面は印象深い。 「狂うがごどく、この開城をよろこんだ」と、兵站将校だった佐藤清勝という人が書いている。……なかには、日本兵が、ロシア兵の歩塁までのぼってゆき、酒を汲みかわしたりした。さらには酔ったおきおいで日露両兵が肩を抱きあいながら敵地であるはずの旅順市街まで出かけてゆき、町の酒場へ入ってまた飲むという光景さえ見られた。……この人間としての歓喜の爆発をおさえることができるような将校は一人もいなかった。(第五巻、285項) 戦争終結を願うことに敵味方はない、ということを示した感動的な場面であった。 <ロシア軍の失態> 単純に考えればロシアが敗けそうなところを日本が勝った理由の一端は、ロシア側にもあった。 この作品を通じて、司馬はロシア陸海軍の失敗と愚行を執拗に描いている。 陸戦1)遼陽会戦で、敵将クロパトキンが日本軍の主力を圧倒している西部戦線を捨てて、右翼の黒木軍へ自らの主力を展開させたこと。クロパトキンは天才的戦術家であったが、鴨緑江戦などで破られたことによる「クロキは強い」という強烈な印象が、彼の理性をひきずったとしか思えない(第四巻、143項)。 陸戦2)黒溝台の会戦で、持てる兵力を集中すれば日本軍を破れたところを、新任指揮官グリッペンベルグに対する政治的策略から、クロパトキンは戦力を小出しにしたため、日本軍への打撃は弱くて済んだ(第五巻、336項)。 海戦1)戦艦の艦長でさえ「不可能」と断定したバルチック艦隊のアフリカ周航を、皇帝の寵愛を受けていた官僚が断行した(第四巻、314項以下)。 海戦2)バルチック艦隊がアフリカを迂回するまでにさらした数々の醜態。英国商船を(さらには味方の船をも)日本船と勘違いしてやみくもに撃ち、世界世論の非難の的となった。その後もどこかに日本船が潜んでいるのではないか、つけてきているのではないかという強迫観念が将校はじめ末端の水兵を支配し、熱帯の暑さとともに彼らをノイローゼにした。 <明石元次郎の見たロシア> 日露戦争中、日本は明石元次郎という男をロシアに派遣し、百万円という当時でいう大金を渡してロシア国内の攪乱を命じた。結果的に明石は予想外の成果を収めることになるのだが、明石が見た当時のロシアの現実について、印象深いものを抜書きしておきたい。 なぜロシアが日露戦争中に崩壊したのか、社会主義革命以外の背景も見えてきて興味深かい。 ・反政府組織の領袖カストレンの部屋に明治帝の肖像写真が飾られており、カストレンは明石に「この日本の皇帝が、われわれを救うであろうことを信じている」と言ったという(第六巻、156項)。 ・明石が使っていたロシア人間諜の中に、農奴の息子で流浪の半生を送ったクリという初老の男がいたが、一向に成果を挙げないその能力の低さを責められると涙をうかべてこう言ったという。 「私は前半生を流浪のなかですごし、いのちがけの仕事ばかりをやってようやく食を得てきました。すでに肉体も衰えはじめたこの齢になってなお、金銭のためにこのようなあぶない仕事をしておりますのは、私にはこれしかできないからです……そのかわり、官憲につかまったときは決してご迷惑はかけませぬ。この拳銃か、この毒薬をもって自殺するつもりです。私の能力より私の誠意を買ってください」(第六巻、182項) 当時のロシア庶民の暮らしと誠実さがよくわかるエピソードである。 |
書評279 司馬遼太郎『坂の上の雲』その2全8冊(文春文庫、1978年)前回書評278:その1は秋山兄弟と正岡子規の生い立ち〜青春時代までをレビューした。今回は、日露戦争までの日本陸海軍というものの成立を中心にまとめる。 【著者紹介】 しば・りょうたろう (1923─1996年) 作家。 大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960年『梟の城』で直木賞を受賞し、以後歴史小説を一新する話題作を続々と発表。『国盗り物語』『竜馬がゆく』で菊池寛賞など受賞多数。 本ブログで取り上げた作品に『燃えよ剣』、『竜馬がゆく』、『翔ぶが如く』、『草原の記』、「故郷忘じがたく候」、「街道をゆく」シリーズの『19 中国・江南のみち』、『40 台湾紀行』、『26 嵯峨散歩、仙台・石巻』がある。(記事一覧はこちら) 【本書の内容】 日清戦争から十年―じりじりと南下する巨大な軍事国家ロシアの脅威に、日本は恐れおののいた。「戦争はありえない。なぜならば私が欲しないから」とロシア皇帝ニコライ二世はいった。しかし、両国の激突はもはや避けえない。病の床で数々の偉業をなしとげた正岡子規は戦争の足音を聞きつつ燃えつきるようにして、逝った。 (文庫版第三巻裏表紙より) お薦め度:★★★★★ 【本書の感想】 <大山と東郷> まずは海軍の成立から見ていきたい。 司馬は、日清戦争から日露戦争にかけて日本が達成した建艦計画を「想像を絶する奇蹟」としている。 日清戦争の段階での日本海軍は、ぼろ汽船に大砲を積んだだけ、戦艦はゼロ、巡洋艦もゼロという状況だった。 それを、国家予算の半分以上をかけ続けて当時最新鋭の軍艦を死にもの狂いでつくった。 日本人は、大げさにいえば飲まず食わずで作った。(第三巻、43項) 国民生活からいえば、ほとんど飢餓予算といってよかったが、この時期の日本の奇妙さは、これについての不満がどういうかたちでもほとんど出なかったことである、と司馬は不思議がる。(第三巻、42項) その近代日本の海軍にとって、いわばオーナーのような立場が大山巌であり、監督が山本権兵衛であり、キャプテンが東郷平八郎、キャッチャーが秋山真之であった。 山本権兵衛。 この無口な男は、ほとんど無にちかいところから近代海軍を設計し、建設し、日清・日露戦争をし遂げた。戦艦の仕様から戦法、大砲の購入から人事まで、彼は大佐の身分でありながら「海軍を魔王のようにきりまわしていた」(第三巻、57項)。 山本のような立場の者がそんな活躍ができたのも、薩摩的将帥の典型たる海軍大臣大山巌の後ろ盾があったからであった。 薩摩的将帥とはなにか。 まず、自分の実務のいっさいをまかせるすぐれた実務家をさがす。それについては、できるだけ自分の感情と利害をおさえて選択する。あとはその実務家のやりいいようにひろい場をつくってやり、なにもかもまかせきってしまう。ただ場をつくる政略だけを担当し、もし実務家が失敗すればさっさと腹を切るという覚悟をきめこむ。(第三巻、48項) このような大山に見込まれたのが山本だったのである。 オーナーたる元老・大山巌が全責任を負う下で、山本が海軍の全てを建設した。 <東郷と真之> その山本は、日露戦争にあたる現場の総責任者=軍司令官に東郷平八郎を、その片腕となる参謀に秋山真之を任じた。 東郷は現場を預かってリーダーシップを発揮する主将で、真之は現場における戦術操縦者、いわばキャッチャーのような立場と見ることができると思う。 東郷と真之の初対面で、真之はいずれ上司となる(とはまだ知らない)東郷に強い印象を受けた。 真之が会議室に入っていくと、 「このたびのこと、あなたの力にまつこと大である」といっただけで、だまってしまった。だまりながら、薩摩人が客に対して見せる特有の表情で真之を見ていた。唇を閉じ、両はしにわずかに微笑を溜めている。この東郷という人はおそろしく無口な人物であることを、真之はきいていた。 対面は、それだけでおわった。あとで人事局の千秋恭二郎が感想をきくと、真之はしばらく考えてから、 「あれは大将になるためにうまれてきたような人だ。……あの人の下なら、よほど大きな絵を書けそうだ」と、いった。(第三巻、142―143項) そして真之は、日露戦争の海戦の設計者となるのである。 真之は、その頃までに稀有な経験を積んでいた。 書評278:その1で見たように、「生まれたからには日本一に」という志を海軍で立てようとした真之は、若くしてアメリカに留学している。 この経験が、後の真之の仕事に多いに役立った。 まず真之は、アメリカで近代海軍の租と言われるアルフレッド・マハン大佐に面会している。 マハンの既刊論文や新刊書まで読破しているこの極東の若者に感心したマハンは、海軍戦略の何たるかを滔々と語ったという(第二巻、225項以下)。 さらに、留学中に勃発した米西戦争の観戦武官たる機会を得た。このときの海上封鎖戦が、のち真之が日露戦争で指揮することになる対旅順艦隊戦のヒナ型を提供してくれたことは、天の恵みのようだと司馬は書いている。 <陸軍の作戦癖> ここで陸軍の方を見てみたい。 まず、日本陸軍の戦術観について。 織田信長やナポレオンがそうであるように、敵に倍する兵力と火力を予定戦場に集めて敵を圧倒するということが戦術の大原則であるが、日本人は古来、小部隊をもって奇策縦横、大軍を翻弄する戦法を好んできた。楠正成や源義経が人気があるのはそういう事情による。 昭和期の指導者までもがこの素人的好みに憑かれ、ついに対米戦に至ったが、司馬によれば日露戦争の頃は違ったという。 日露戦争のころの軍事思想はその後のそれとは全くちがっている。戦いの期間を通じてつねに兵力不足と砲弾不足になやみ悪戦苦闘をかさねたが、それでも概念としては敵と同数もしくはそれ以上であろうとした。(第三巻、270項) このあたり、太平洋戦争への憎悪が滲み出ているようでもある。 また、真之の兄である秋山好古が一からつくりあげた日本騎兵の戦い方も面白い。 日本の騎兵は、戦闘開始とともにいっせいに馬から降りて騎兵でなくなる。歩兵となり、防御射撃主義をとった(第四巻、282項)。 これは、当時世界最強の騎兵であったコサック騎兵に対し、正攻法である乗馬突撃では勝てないことを知っていた好古が、貧弱な日本騎兵のために考案した戦術であった。ロシア騎兵は、これに驚きつつもてこずった。 一方で、兵站戦略については陸軍は一貫してお粗末であったと司馬は指摘している。 そもそも弾薬の絶対数が足りなかった上に、食糧の補給さえもままならなかった。それを海軍は比較的手ぬかりなくやったが、陸軍はお粗末この上なかった(第四巻、105項)。それを正当化する大本営の「補給の欠乏は、戦闘の勇敢さをもってカバーせよ」という発想は太平洋戦争を思わせるが、これは海軍よりも陸軍に濃厚らしい。 このあたり、伝統的な海軍善玉/陸軍悪玉論になってしまいそうだが、司馬は具体的にその例外も挙げており、読者は他の本も読みながら歴史観のバランスを取る必要があるだろうと思う。
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【著者紹介】 しば・りょうたろう (1923─1996年) 作家。 大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960年『梟の城』で直木賞を受賞し、以後歴史小説を一新する話題作を続々と発表。『国盗り物語』『竜馬がゆく』で菊池寛賞など受賞多数。 本ブログで取り上げた作品に『燃えよ剣』、『竜馬がゆく』、『翔ぶが如く』、『草原の記』、「故郷忘じがたく候」、「街道をゆく」シリーズの『19 中国・江南のみち』、『40 台湾紀行』、『26 嵯峨散歩、仙台・石巻』がある。(記事一覧はこちら) 【本書の内容】 明治維新をとげ、近代国家の仲間入りをした日本は、息せき切って先進国に追いつこうとしていた。この時期を生きた四国松山出身の三人の男達―日露戦争においてコサック騎兵を破った秋山好古、日本海海戦の参謀秋山真之兄弟と文学の世界に巨大な足跡を遺した正岡子規を中心に、昂揚の時代・明治の群像を描く長篇小説全八冊。(文庫版第1巻裏表紙より) お薦め度:★★★★★ 【本書の感想】 <全体の感想> 司馬遼太郎にとって、日露戦争は特別な意味を持っている。 三谷博が指摘するように、司馬遼太郎は江戸文明が日本の本来の姿であり、日露戦争後にその精神が失われておかしくなり始め、あの「異常な昭和」に突入したと考えていた(書評260:『明治維新を考える』参照)。 つまり司馬にとって、日露戦争は「まだまともだった日本」の最後の姿だったことになる。 いきおい、日露戦争の評価も感傷的にならざるをえない。 この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが、日露戦争である。その対決に、辛うじて勝った。その勝った収穫を後世の日本人は食いちらかしたことになるが、とにかくこの当時の日本人たちは精一杯の智恵と勇気と、そして幸運をすかさずつかんで操作する外交能力のかぎりをつくしてそこまで漕ぎつけた。いまからおもえば、ひやりすとするほどの奇蹟といっていい。(第一巻、75項) この一文は、そのような「司馬史観」を凝縮しているように思うし、史実としてもそういう面は強かった。 この長篇の随所にこの日露戦争観が感じられる一方、返す刀で太平洋戦争に対する激しい憎悪感情を吐露するなど、司馬遼太郎の作品群を考える上でもきわめて重要な作品だと思う。 何回かに分けて書評を書くが、今回は日露開戦前までで印象に残った場面を引用しながら感想を述べていきたい。 <子規と真之の青春> 序盤は、秋山兄弟と正岡子規の少年期の成長を中心に描かれるが、この部分がとてもいい。 伊予松山に生まれ、時期は違えども東京に出てきた三人は、それぞれ進路に悩む。 子規は松山の中学時代、学校の勉強にも飽き、文学運動や演説運動のまねもしてみたが、これはというものを感じない。 「出たい、出たい。どうにもならんほど、あしは東京へ出たい」(第一巻、106項) もはやだだをこねる子どもである。 もっとも、子規だけではない。とにかく東京に出れば何とかなる、という雰囲気がこのころの日本にはあった。 これに感化された真之も、東京へ出ることを親に懇願し、一足先に東京で陸軍に雇われていた兄・好古のところへ転がり込んだ。 東京に出てきたら出てきたで、「生まれたからにはその道で日本一に」と志す二人の青春は定まらない。 子規は哲学を目指すも同級生の才能に自分の限界を感じ、この頃から詩歌小説に心を奪われるが旧藩の給費生という後ろめたさから、その道への一歩を踏み出せない。 そんな子規を「俗なことをいうな」と叱る真之も、実は「悩んどるのよ」と告白する。真之の学費は好古が負担しているが、その好古の懐も苦しかった。真之は悩んだあげく学費不要の海軍兵学校へ入学する決意をする。 決意はしたものの、真之は「ともに文学をやろう」と誓い合った子規に合わせる顔がなく、置手紙を書いた。 ほんの数行のそれを読んで、子規が茫然とした場面は、二人が共有した青春の濃密さを示している。 やがて、壁の上をみた。そこに鉛筆の線で大きな人のかたちが描かれている。かつて真之がかいたものであった。真之は徹夜勉強が得意で、寄席などへ行ったあとはかならずこれをやった。あるとき子規も、「あしもやる」と言い、 ――さあ徹夜の競争じゃ。といいながら机をならべたのだが、夜半になると子規の体力が尽き、ついに壁にもたれてねむりこけてしまった。真之はのちの証拠としてその人がたを鉛筆でとった。 (あげなことをしおって) と、その陰の線描をみているうちに、真之の手紙の感情がのりうつったのか、涙があふれて始末にこまった。(第一巻、205項) こうして、二人は俳諧と海軍というこの時代未開拓であった分野の日本一を目指すことになった。 進路に悩み、自尊心を砕かれ、友情を育む青春時代を経て、別の道で身を立ててゆく。 日露戦争が始まる前のこの時代を描いた箇所が、この作品中最も爽やかであり、司馬の筆も踊っているように感じられた。 <子規という人の魅力> 私自身詩歌が得意ではないということもあって、今まで正岡子規にあまり興味を持ったことがなかった。 ところが、本書に描かれる子規はとても魅力的である。 性格は真っすぐだが子どもっぽく、負けず嫌いであった。上に引いた徹夜競争のエピソードなどはそれをよく示している。 戦争熱をあげている当時の日本にあって、病弱な子規は真之らが出征しているのが羨ましかった。勤め先の新聞『日本』の主幹・陸羯南に何度も従軍させてくれと頼みこんだが、なかなか認めない。 何度も懇願し、やっと日清戦争の従軍記者に決まったとき、子どものように喜んだ子規は友人に手紙を書いた。 「小生いままでにて最もうれしきもの」として、ひとつは松山中学四年間を修了して上京にきまったとき、いまひとつはこんどはじめて従軍ときまったとき、と書いた。この当時の日本のふしぎさは、このように無邪気な文学者をもっていたことであった。(第二巻、132―133項) 結局、子規が戦地に着く前に日清戦争は終わってしまい、さらに結核を発症したことによって、子規は「生まれたからには日本一に」という志を凄まじい闘病生活の中俳句で実現することになる。 そのくせ人懐っこさも人一倍で、団体競技への志向が強かった。 生涯のライフワークとした俳句もそのルーツは連歌であり、子規が用語を訳したとされる野球も団体スポーツである。 また、感性がシンプルで鋭かった。俳句は絵画的であらねばならないとし、理屈や知識に頼った句や、聴いたときにぱっと絵が浮かばない句は評価しなかった。 子規の人となりに強く惹かれたので、子規の文章もいずれ読んでみたい。 司馬自身も、子規の魅力のとりこになっていた節がある。 妹のお律の描写も惹かれるものがある。 幼年時代の子規が悪童なかまにいじめられて泣いていると、3つ下の童女であったお律は「兄ちゃまの仇」と言って石を投げに行ったという。今ふうに言えば、「萌え」である(笑)。 その童女の心のままおとなになったお律は、のち子規が結核を発病すると、自分はもう他家の嫁のくせに「私が看護するけん」と言い切った(第一巻、292項)。 このお律と、二人の子どもを裁縫教室をしながら育てた母に囲まれて育った子規がこのような若者に育ったのも、さもありなんと頷けるものである。
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【著者紹介】 ちん・しゅんしん (1924年―) 推理小説、歴史小説作家。 神戸市出身。1941年大阪外国語学校卒。1961年『枯草の根』で江戸川乱歩賞を受賞後、作家生活に入る。1969年「青玉獅子香炉」で直木賞、1970年『玉嶺よふたたび』『孔雀の道』で日本推理作家協会賞、1971年『実録・アヘン戦争』で毎日出版文化賞、1976年『敦煌の旅』で大佛次郎賞、1992年『諸葛孔明』で吉川英治文学賞を受賞。 【本書のあらすじ】 楚材とは「外国で用いられる人材」を意味する。自国を滅ぼした他民族に仕えた父が、わが子に与えた名だった。長じて儒仏の教えと天文を修め、北の草原から押し寄せる圧倒的な力から、人命と文明を守る志を得る。チンギス・ハンに召された時、楚材28歳。遙かサマルカンドへ至る西征に従い、「焼き、殺し、奪い、去る」モンゴル軍の破壊の様を目の当たりにするのだった。独自の歴史観による大ロマン。 お薦め度:★★★☆☆ 【本書の感想】 <全体の感想> 本書は元朝に仕えた宰相・耶律楚材の評伝であるとともに、陳舜臣の思いが詰まった歴史小説でもある。 中国人やモンゴル系の名前が飛び交うので読み易くはないかもしれないが、考えさせられることの多い長篇だった。 この本は、職場の上司筋の人に「異国の人に仕えるとはどういうことかがわかる」と言われて借りたものだったが、まさにそういう本だった。 <「公」のために、巨龍の手綱を引く> 「楚材」とは“外国で用いられる人材”という意味である。 契丹族でありながら契丹を滅ぼした女真族の国・金に生まれた耶律楚材は、その名の通りの人生を送ることとなった。長じて金を滅ぼした元の宰相となったのである。 そのためか裏切り者という印象が強く、中国史上あまり人気がなかったという。 しかし本書に描かれる楚材は、自らの欲のために権力者におもねった尻軽男ではなかった。彼の心中には、常に天下万民のため、という志があったというのである。 覇王のためではない。同じ時代に生きる人々のためだ。(上巻、129項) 伝統的に「公」の観念が希薄な中国大陸において、このような志を持った人物がいたとすれば、突然変異のようなものだったろう。そして彼が強大なモンゴル帝国の草創期に出会ったことは、幸運だったと言わねばならない。 モンゴル軍が金の領土を脅かし始めた頃、耶律楚材はモンゴル軍の捕虜となり、チンギス・ハンに気に入られた。大ハンは漢人や契丹族の専門知識や思考能力を評価しており、特に楚材の調停能力を高く買っていたのである。 自分が死んだ後の後継者争いを心配していた大ハンが、その亡くなる直前、自ら楚材を呼んで臨終の場に立ち合わせたほどであった。 チンギス・ハンの絶大な信頼を得ていた楚材は、大ハン亡き後のモンゴル帝国の宰相として、第2代オゴディ・ハンをよく補佐した。 「モンゴル軍の力は、未曾有の強さです。誰もそれをせきとめることはできない。ただその力を誘導することができるだけですな。」(下巻、94項) 楚材の意図は、強大なモンゴル軍の力で、荒れた中国大陸に秩序をつくることにあった。 同じ時代に生きる人々――自らの家族を含めて――のために平和な時代を築くために、楚材はモンゴルの軍事力を利用しようとしたのである。 <遊牧騎馬民族は“中華文明”を吸収すべきだったか?> 楚材は、勇猛果敢なモンゴル民族に、儒教と仏教を浸透させようと腐心した。 東西に版図を拡げ続ける彼らは、奪った土地で殺戮と略奪を繰り返していたのである。ちなみに著者は、その主因を元来質素な遊牧民族が財宝の味を知ってしまったことにあるとしている。 楚材は、チンギスやオゴディに対し、民を殺さずに生かすことの利(例えば継続的な徴税)を説き、蛮行の害を説いた。 また利害という解り易い指標で納得させると同時に、広大な征服地を治める術として、儒教と仏教――即ち漢民族の“文明”を教え込もうとしたのである。 勇敢な民族こそ柔軟になるべきなのだ。張りつめた糸は、力を加えるとすぐに切れる。国は滅びてもよいが、それで人民が苦しむのは、何とか救わねばならない。(下巻、229項) この文章は、古代から現代までの中国史を貫通する問題を提起する。 即ち、遊牧騎馬民族が中国大陸をうまく統治するためには、騎馬民族本来の質実剛健さを厳しく保った方がよかったのか、あるいは中華文明に染まった方がよかったのか、という問題である。 前者の立場の最も聡明な思想家を清帝国の礎を築いた第5代皇帝・雍正帝とすれば、耶律楚材や本書の著者・陳舜臣は後者の立場となるだろう(雍正帝については書評178:『大清帝国と中華の混迷』を参照)。 耶律楚材(に思いを託した陳舜臣)にすれば、異民族は漢民族の文明を尊重し、それに同化しなければならない。騎馬民族の強大な軍事力はあくまでも治安を維持する警察力として必要なのであって、野蛮な異民族は中華文明に教えを乞うのが当然だ、と考えるのが中華思想だとすれば、楚材の思想はそれに近かったかもしれない。 それに対し雍正帝は、質実剛健さで大陸を制覇した騎馬民族が中華文明の味を覚えて奢侈に流れてしまうことを恐れた。騎馬民族がその本来の強さ・素朴さを失ってしまっては、やがて腐敗してしまうと考えたのである。実際、乾隆帝末期以後の清は雍正帝が危惧した通りの道を辿った。 この二択は答えがある問いではない。そもそも私は、現在の中国のような広大な領土と多様な民族を一つの国家が治めようとすること自体に無理があると考えている。 ともあれ、中国史を遠目で眺めてみる際の反実仮想(Counter Factual)として、一つの興味深い論点ではありうるだろう。 <おわりに> 書評177:『草原の記』で遊牧民族にシンパシーを感じていた私としては、若干モンゴル人に対する筆致が冷たすぎるように感じられたが、これも本書の底流に流れる中華思想(のようなもの?)をどう見るかによるだろうか。 ところでこの本を貸してくれて人の言う「異国の人に仕えるということがわかる」という意味はよく理解できた。
楚材は、自らの最終的な目標(=中国大陸に秩序をもたらすこと)のために文化を異にする君主に仕え、君主を補佐し誘導することで目標を達成しようとした。 巨龍の手綱を引くその姿は、未曾有の経済発展を遂げる現代中国と相対する私たちにヒントを与えてくれるかもしれない。 |


