空閨残夢録

上層より下層へ中心より辺境へ表面より深淵へデカダンよりデラシネの戯言

詩と文学の部屋

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「Checkmate King 2, this is White Rook, over.」

(チェックメイト・K2、こちらホワイトルーク、どうぞ!)

――― 斥候サンダース軍曹です! ―――





 旧約聖書の創世記によると、楽園を追われたアダムとイブに、カインとアベルの兄弟が生まれるが、この兄弟は神への供え物による原因から、やがてカインは弟のアベルを殺してしまう事件が起きる。

 カインは野の畑から収穫物を神に供え、アベルは育てた子羊を祭壇に供したが、神は何故かアベルの供え物を選び、カインの物を顧みず拒否した。

 このことにより、カインが殺人を犯す動機であった訳なのだが、神の裁きはカインをエデンの東にあるノドの土地へ追放して、カインに誰も危害を加えないように“しるし”を付けて移り住まわせることになる。

 イギリスの神話学者であるS・H・フックによると、“カインのしるし”とは、古代バビロニアに伝わる新年祭に、この物語の背景があると述べられている。

 それは、人類が農耕農業を始めてから、大きな問題の一つに天候などによる不作を回避するために、宗教的な儀式儀礼として、大地への人身御供としての生贄の祭儀行為が、典礼様式化された演劇的なものとなり、農耕神が牧羊神を屠る呪術的な象徴としての物語化による原型が、そこにあるという訳だ。

 つまり、大地を豊饒とする神に仕える祭司が、遊牧民の家畜を屠る儀式に、カインとアベルの物語の根底であるという民俗学的な見解があり、社会学的な検知が覗える。

 こうした解釈の証拠に、殺人者であるカインの“しるし”が、安全と庇護の「しるし」であることに注目する。何故に、神は殺人者に庇護のための「しるし」を与えたのであろうかしら・・・・・・。

 実はバビロニアの新年祭には、生贄を屠る司祭に「しるし」をいにしえに付けていたとされる。それは祭儀を執行する司祭は生贄の血で穢れるために、一定の期間に共同体から隔離されるのだが、この間に神の庇護のために「しるし」を付けられて、潔められるまで放浪を余儀なくされたのであるという。この隔離と放浪の期間が安全であるために「しるし」を神に付与された訳なのである。

 このバビロニアの慣習が、根底に旧約聖書のカインとアベルの物語にあり、遠い記憶の痕跡として反映される訳なのだが、創世記だけの記述からだけでは「カインのしるし」の物語の深層を読み解くのは至難である。

 さて、ヘルマン・ヘッセの小説に『デミアン』があるが、ラテン学校に通う10歳の主人公シンクレールの苦境を救うマックス・デミアンは、キリスト教的な世界観からとは、全く視点の違う見解から、デミアン独自による「カインのしるし」論を聞かされる。主人公の明るく清らかなキリスト教的な道徳生活の世界に、魅惑的で異教的な思考の萌芽を付与される。

 シンクレールは成長とともに、思春期から大人へと成長するなかで、ヨーロッパを渦に巻く第一次世界大戦を体験して、やがて人生の明暗を分け、精神の二つの世界を揺れ動きながらも彷徨しながら、人生の筋目と岐路でデミアンと邂逅しながらも、真の自己を求めて魂の救済の道を開いていくのであった。

 その最初の試練と成長の過程に、「カインのしるし」の物語が、主人公シンクレールの「運命と心情」の試金石となる物語の発端である。

 このヘッセの小説に度々登場する言葉に、ノヴァーリスからのアフォリズムの引用が何度も登場する。それは、『運命と心情(意志)とは、二つの言葉の一つの概念である』・・・・・・という、言葉であり、アフォリズムであるのだが、この引用は大きくヘッセの小説に作用している。

 この度々、引用される言葉は、つまり・・・・・・「運命と心情(意志)とは、一つのコインの表裏である」と、述べられているのだが、このノヴァーリスの言葉と、精神分析学者のC・G・ユングの深層心理学が、小説『デミアン』の物語の水脈の血であり、魂となっている。

 ヘッセはユングの患者であった時があり、一時期に精神的な危機状況にあったヘッセは、衰弱した心と魂をユングの医学療法で乗り越えているのだが、この経験が小説『デミアン』の誕生となった次第でもあり、この長編小説は20世紀を代表する記念碑的な文学作品の金字塔である。






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自由な結合

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――― 斥候サンダース軍曹です! ―――



 澁澤龍彦の著作をはじめて購入したのは、単行本で『唐草物語』を横浜の新刊本の本屋さんで手にしたのがきっかっけだった。『唐草物語』は初版本で1981年7月3日となっていて、この翌年にこの初版本を買ったと思わしいのだが、遠い昔の思い出。

 その後、新宿の図書館にて、澁澤の「愛は可能か」という一文を読んでからボクはこの作家をエロティシズムの師と仰ぎ、神田神保町の古本屋街を徘徊しては、澁澤の著作という著作を買い漁り、桃源社版の『澁澤龍彦集成』から『サド選集』まで飯も食わずに貪り読んだ。

 それはさておき、「愛は可能か」という一文は桃源社から、1977(昭和52)年に刊行された『エロティシズム』に所収された評論である。この桃源社の「エロティシズム」第二弾として、1964年1月から12月まで「新婦人」に連載されたものを1978年に『エロスの解剖』として出版されている。この『エロスの解剖』のなかに「愛の詩について」という評論があり、これはアンドレ・ブルトンの『自由な結合』という詩の紹介があり、その評論文でもあった。

 さて、本日は、このブルトンの“自由の結合”を紹介させていただくけれども、ただ、ブルトンとは、謂うまでも無く、シュルレアリスム運動の法王であり、その芸術革命の主導的存在である詩人でもあったことと、「自由な結合」という詩は、女性の肉体のいろいろな部分を、暗喩法(メタファー)によって次々と喚起しながら、詩人は一箇の理想的な女の、純化されたエロティシズムを誇らかに歌っている作品であり、女性の肉体の具体的な個々の部分にふれながらも、エロティシズムがこれほどに透明な、これほどに純粋な熱度で燃えあがっている詩作品は類を見ないであろうと思われる。


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  自由な結合

                    アンドレ・ブルトン (澁澤龍彦 訳)




 わたしの女は 火の髪の毛 樹の髪の毛

 そして 熱の閃きの思想

 わたしの女は 砂時計の体軀(からだ)

 虎の歯のあいだの川獺の体軀

 わたしの女は 花結びの口 六等星の花束の口

 白い地面の上に白い二十日鼠の刻印した歯

 琥珀の舌 磨いたガラスの舌

 わたしの女は 短刀で刺された聖体パンの舌

 眼をあけたり閉じたりする人形の舌

 途方もない石の舌

 わたしの女は 子供の書く字劃の睫毛

 燕の巣の縁の眉

 わたしの女は 温室の屋根のスレートの顳顬(こめかみ)

 そして 窓ガラスの湯気の顳顬

 わたしの女は シャンパン酒の肩

 そして 氷の下の海豚の泉の肩

 わたしの女は マッチの軸木の手首

 わたしの女は 偶然の指 ハートの一(エース)の指

 刈られた乾草の指

 わたしの女は 貂(てん)の腋の下 橅の実の腋の下

 聖ヨハネ祭の夜の腋の下 魚の巣の腋の下

 海の泡の腕 水門の腕

 そして 小麦の交配の腕 製粉機の腕

 わたしの女は 紡錘(つむ)の脚

 時計仕掛の脚 絶望の脚

 わたしの女は 接骨木の髄の脛腸(ふくらはぎ)

 わたしの女は 頭文字の足

 鍵の束の足 酒を飲む槇皮(まいはだ)詰め職工の足

 わたしの女は 精白しない大麦の首

 わたしの女は 黄金の谷の胸

 奔流の河床におけるランデ・ヴーの胸

 そして 夜の乳房

 わたしの女は 海の土竜塚の乳房

 わたしの女は ルビーの坩堝の乳房

 露けき薔薇のスペクトルの乳房

 わたしの女は ひろがる光の扇の腹

 巨大な爪の腹

 わたしの女は 垂直に逃げる鳥の背中

 水銀の背中

 光線の背中

 ころがる石の襟首 湿った白墨の襟首

 飲んだばかりのコップの落下の襟首

 わたしの女は 小舟の腰

 そして 白孔雀の羽根の軸の腰

 動じない天秤の腰

 わたしの女は 砂石の臀 石綿の臀

 わたしの女は 白鳥の背の臀

 わたしの女は 春の臀

 そしてグラディオラスの性器(セックス)

 わたしの女は 金鉱床の性器 鴨嘴獣(かものはし)の性器

 藻類(そうるい)の性器 古いボンボンの性器

 わたしの女は 鏡の性器

 わたしの女は 涙いっぱいの眼

 紫色の甲冑の眼 磁石の針の眼

 わたしの女は 大草原の眼

 わたしの女は 牢獄で飲むための水の眼

 わたしの女は つねに斧の下にある樹の眼

 水準器の眼 空気と土と火の 水準器の眼


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 以上で、ブルトンの六十行におよぶ詩篇「自由の結合」の紹介は終わるけれども、フェティシズムについて、この詩は、特に大きな命題と痕跡を残しながらエロティシズムを物語る詩であろうと深く感じるのでした。

 余談だが、ブルトン法王は、シュルレアリズム運動で、男色や麻薬などの薬物の使用をグループ内で、かなり強く厳しく禁じていた。

 反キリスト教的の思想的位置にいながらにしても、活動内部では道徳的な規範のある運動でもあり、超現実主義運動の活動の意外な側面を垣間見るのだが、されど、この詩はアナーキズムの匂いがプンプンとして、ボクはこの詩がとてもお気に入りでもあり、内容は純粋な恋愛的フェティシズムの極地にして、惑星の運行が狂った恋愛詩だともいえるけれども、還元すればフェティシュな女性賛美の恋愛詩であろう事は間違いない。


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詩の発見

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――― 斥候サンダース軍曹です! ―――



 僕が好きな西欧の現代詩を三つ紹介しようと思うが、これらの詩は、1984年のNHK市民大学の4月から6月までに放映された大岡信による『詩の発見』と題された教育テレビの全13回にわたる講義の初回の放送で知ったのが最初である。

 最初は、リルケの「秋」を紹介させていただくが、詩人の大岡信は少年期にこの詩と出合い最も深い衝撃を受けたと述べている。

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 「秋」                         

                   リルケ     (望月市恵訳)




 葉が落ちる、はるかから落ちるやうに、

 はるかな空で庭が凋落するように。

 否む身ぶりで落ちる。


 
 そして夜は、重い地球が

 星の群れから離れて孤独のなかへ落ちる。



 私たちのすべてが落ちる。この手も落ちる。

 そして他の者を見よ、すべての者のうちに凋落がある。



 しかしこの凋落を、限りなく優しく

 両手にとどめてゐる者がある。

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 このような詩は大岡信によると、それまで読んでいた明治・大正期の詩人たち、たとへば島崎藤村、北原白秋、高村光太郎、萩原朔太郎らの作品と、どこかで大層違っていたと感じつつ、それが何であるかがよくわからないままに、西欧の詩に魅力されたと述べている。その魅力とは、いわば雨のあがったあとの草原の香りを胸いっぱいに吸いこむように、たぶん身体的な感じで受けとったものであるようだった。

 リルケの「秋」はたくさんの翻訳作品があるが、望月市恵の訳詩がボクは好きである。現在は新潮文庫から出版されている『リルケ詩集』が入手しやすいであろうが、「秋」は『形象詩集』(1902)にある一篇であり、これは代表作であるから所収されている。リルケ(1875-1926)は言わずと知れたオーストリアの詩人にして作家。

 次に紹介するのは、ジュール・シュペルヴィエール(1884-1960)の、「運動」という詩なのであるが、この詩人はウルグアイの首都モンテビデオ生まれではあるが、両親はフランス人であり、生涯にわたりフランスとウルグアイの両国を行き来していた詩人にして小説家。

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  「運動」


 
 その馬は振り向いて、

 誰も見たこともないものを見た。

 それから、ユーカリの木蔭で、

 また草を食い続けた。



 それは人でもなく、木でもなく、

 牡馬でもなかった。

 葉の茂みをざわめかせた

 風の名残でもなかった。



 それは、もう一匹の馬が、

 二万世紀以前に、

 急に振り向いて

 その時に見たものだった。



 そして、人も、馬も、魚も、虫も、もう

 誰も見ないに違いないものだった。

 この大地が、腕もない、脚もない、頭もない、

 彫像のかけらに

 過ぎなくなる時まで。

                   


                    シュペルヴィエル『万有引力』より  中村真一郎訳


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 リルケやシュペルヴィエールの詩には、たとへば“宇宙感覚”とよべるような世界が出現していて、フランスの超現実主義運動(シュルレアリスム)の中心的な詩人だったポール・エリュアールの詩、とくにその恋愛詩のもっている、やはり“宇宙感覚”的というほかないひろがりには、特に「詩の発見」ともいえる体験だったと回想している。

 そのなかでも最も印象的な詩である“自由”(リベルテ)を以下に載せるが、その前に簡略ながらエリュアールという詩人を紹介しておこう。

 エリュアール(Paul Elluard)は、フランスの詩人。ランボー、ロートレアモンらの影響を受ける。ダダイズムからシュルレアリスムを起こす。1895年パリ近郊のサン・ドニで生まれる。1917年、最初の妻ガラと結婚。その後2度結婚を経験する。天才的画家ダリやピカソと交友を持ち、戦火の最中、愛と平和を求めレジスタンスの闘士として活動しながら詩作品も発表する。

 第二次大戦中に詩作品、「Liberte(自由)」を発表。1952年11月18日、80冊近くの著作を遺し、パリのクラヴェル街の家で57歳の生涯を閉じる。「エリュアール詩集」(思潮社)「愛・ポール・エリュアール後期恋愛詩集」(頸草書房)「エリュアール詩集」(弥生書房)等がある。


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 「自由」
                  エリュアール  (大岡信 訳)



 ぼくの生徒の日のノートの上に

 ぼくの机 ぼくの樹々の上に

 砂の上 雪の上に

 ぼくは書く おまえの名を



 読みつくしたすべてのページの上

 まだ書いてないすべてのページの上に

 石や血や紙や灰に

 ぼくは書く おまえの名を



 金色に彩られた絵本の上

 戦士たちのつるぎの上

 王たちの冠の上に

 ぼくは書く おまえの名を



 密林の上 砂漠の上に

 巣の上に えにしだの上に

 幼年の日のこだまの上に

 ぼくは書く おまえの名を

 

 夜ごとの奇跡の上に

 日々の白いパンの上に

 婚約をむすんだ季節季節の上に

 ぼくは書く おまえの名を

 

 ぼくの青空の色をしたぼろきれの上に

 くすんだ太陽を浮かべる池の上

 輝く月を浮かべる湖の上に

 ぼこは書く おまえの名を

  (中略)

 破壊されたかずかずのぼくの隠れ家の上

 崩れおちたかずかずのぼくの燈台の上に

 ぼくの倦怠の壁の上に

 ぼくは書く おまえの名を



 欲望を失った放心の上

 裸の孤独の上

 死の足どりの上に

 ぼくは書く おまえの名を

  

 よみがえった健康の上

 消え去った危険の上に

 憶い出をもたぬ希望の上に

 ぼくは書く おまえの名を



 そして ただひとつの単語によって

 ぼくはもう一度人生をは始める

 ぼくは生まれたのだ おまえを知るために

 おまえに名づけるために



 自由(リベルテ)  と。

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 さて、NHKの市民大学で放映されていた大岡信の『詩の発見』であるが、まさしくエリュアール、リルケ、シュペルヴィエールなどの詩の発見は大岡氏だけではなく、自分もまた大きな詩の発見であった。

 “詩の発見”とは、まず第一には“詩を発見する”ことであり、それはただちに、“詩とは発見そのものである”ということの発見でもある。

 この時、発見されるものは、詩であって同時に人間の世界であり、宇宙の顔であり、そのほか実にさまざまなものの姿でもある。



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失われたパンを求めて

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―――眠りの精はお菓子のピエロ、夢の斥候はサンダース軍曹です! ―――




マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』(À la recherche du temps perdu)は、1913 - 27年に刊行されたあまりにも長い長い大長編小説なのだが、ボクはプルーストのこの小説を、ちくま文庫の井上究一郎訳で、第一篇『スワン家の方へ』の、第一部「コンブレー」、その第一章までしか読んでいない。つまり、最初の一章しか読んでいないのだが、冒頭から眠りの、不眠症の如き、おはなしから始まり、ふとしたお茶に浸したプチ・マドレーヌの味と、その匂いから、子供の頃の記憶を辿る、ところで、眠たくなり、眠ってしまうか、気力が続かずに、読書は集中力を欠き、常に挫折してしまう。

 その挫折の連続には、眠りへ誘ってくれるのに、ボクにはモッテコイの誘眠剤的な長編小説なのである。閉塞的な環境に長く連続的に監禁でもされない限りは、たぶん読了はできないであろう小説のひとつで、冒頭から眠くなる長編小説。紅茶でも飲んでカフェインを投入して、マドレーヌでも頬張れば、第二章へと進めそうなのだが・・・・・・。

 さて、物語は、ふと口にした《紅茶》に浸したプチ・マドレーヌの味と匂いから、幼少の頃の記憶の扉が開かれていく。それは家族そろって夏の休暇を過ごしたコンブレーの町の思い出が、自らのうちに蘇ってくることを契機に展開していき、その当時暮らした家が面していた Y 字路が、スワン家の方とゲルマント家の方へと、2つの道のたどり着くところに住んでいる2つの家族たちとの関わりの思い出の中から始まり、自らの生きてきた歴史を記憶の中で織り上げていく内容である。

 さてさて、『失われた時を求めて』の翻訳の多くは、ふと記憶を呼びさましたその味と匂いの元となる、プチ・マドレーヌを浸した飲み物が《紅茶》と訳されているが、井上氏の訳文では、紅茶ではなくて、《ぼだい樹のお茶》と訳されている。つまり、これは明解で、的確な訳であり、補足すると、それは西洋菩提樹のティザーヌ(薬湯)のことであり、ティユール(西洋菩提樹の花と若葉)のハーブを、お茶にしたものであるが、英語で、リンデンのハーブティーのことである。

 このお茶は、精神安定剤であり、カフェインのような作用とは正反対のものであるし、安らかに眠りたい人の為にあるお茶なのであるが、・・・であるからして、第一章を読み終わり、プチ・マドレーヌを浸した菩提樹のお茶を飲むと、いずれにしても、まず第二章へすすむには難しいことにあいなる。本を読み続ける集中力をティユールの作用は奪うことになるのだ。

 菩提樹はお釈迦様ゆかりの桑科の印度菩提樹とは別の木である。欧州の西洋菩提樹(リンデン)は日本の科野木(シナノキ)や大葉菩提樹と同じ科で仲間だ。南仏のプロヴァンス地方にある山間の村ビュイ・ル・バロニーで、年に一度、7月上旬にティユールの市が開かれる。フランス中の薬草商が集まり賑わいをみせる。

 花と若葉を陰干しにしたティユールに含まれる成分中には、ビオフラボノイドが血圧を下げ、また血液の浄化を促すという。動脈硬化、狭心症、心筋梗塞を防止して、発汗作用を伴い腎機能を活性化させる。さらに、精神を安定させる催眠効果がある。


 欧州留学中に、斉藤茂吉は、このティザーヌを飲んだ印象を歌に残している。


    「チオールという熱き飲料は何かしら東方の寺のにほひこそすれ」  (茂吉)


 日本において菩提樹は寺院に植えられてあることが多く、茂吉は、脈絡もなく、直感的に、ティユールのティザーヌから香る印象詠んでいるのだが、詩人の天才的な直感と感性に驚くしかない。

 さて、フレンチのレストランでデザートの献立表を眺めると、「パン・ペリュデュ(pain perdu)」があるかも知れないが、これは、所謂、フレンチトーストのことである。フランスでは習慣としてトーストは食べないらしく、固くなったパンやブリオッシュをミルクと卵に浸して、バターで焼き上げるものをパン・ペリュデュと呼ばれる、お菓子らしいのだ。

 わたしたちが想像する所謂、フレンチトーストとは、アメリカ人の命名であり、アメリカ人のレシピによる料理と考えられるけれど、アメリカ風のフレンチトーストが日本へと流入したのは戦後であろう。ホテル・オークラのフレンチトーストが、とくに有名であるが、日本人のフレンチトーストの通念はオークラ風の調理法による延長だと思わしい。

 フレンチトーストには、様々な、色々な、バリエーションがあり、作り方があると考えられるが、一般的なものは、パン(食パンやフランスパン)に、鶏卵と、主に牛乳、またはオレンジジュース、それにナツメグ、シナモン、バニラなどのスパイスを混ぜた調味液をしみこませて、フライパンなどで軽く両面を焼いて作る。

 「ペリュデュ(perdu)」とは、フランス語で、つまり、「失われた」と、いう意味で、時間が経って固くなってしまったパンを蘇らせるフランスの調理法が、アメリカや日本でのフレンチトーストの概念と、自ずと違う食べ物なのであると思わしい。

 パン・ペリュデュのイメージは、日本の家庭で残った冷ご飯を雑炊にするようなイメージが想像しやすいかも知れない。更にイメージを拡大すれば、イタリアの家庭で残ったリゾットを焼きリゾットにした印象が近いイメージであろうか。つまり、残り物を再度、調理する食べ方なのであるネ。

 昔は、余って、硬くなったコチコチのパンを食べやすくするために、これをミルクにもどし柔らかくして調理したのが、所謂、「パン・ペリュデュ(失われたパン)」の、由来なのであった。現代のフランスの家庭ではあまりお目にかかれない食べ方でもあるらしい。レストランのお品書きにあるとしたら、現代風の「失われた麺麭」というデザート菓子なのであろう。

 そして、レストランで、ディナーのデザートに、パン・ペリュデュを召し上がることがあれば、その後は、プチ・マドレーヌに、ティユールのティザーヌを飲まれると、その夜は安らかにお眠りいただけるであろう。失われた時を求めることもなく、寝酒も無用で、深い眠りへ誘われるはずである。それではおやすみなさい。よい夢のひとときが訪れることを心より願って・・・・・・。




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エロスとフローラ

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 花を愛した作家として、オスカー・ワイルド、マルセル・プルースト、ジャン・ジュネを思い浮かべるのは、ボクだけ、ではないであろうネ。ただし、この三人の芸術家の花への偏執と偏愛には、通念として考えられる愛しかたではなくて、たとへば抒情詩的なものでもなく、いわば、自分の欲望の象徴性として、花々を愛したのであったとも感じられる。

 それは澁澤龍彦が、「エロスとフローラ」という評論に、彼らの花への愛には、おそらく、官能の世界と交感する、なにか、抽象的な秩序のようなものを見ていて、官能の世界の雛形のようなものを発見していたようだ・・・・・・と、見解している。これを澁澤氏は汎神論的な性衝動と呼んでいた。

 この三人の芸術家に共通するのは、同性愛者であることは、如何なることであろうかしら?・・・・・・、それはさておき、プルーストの作品のなかで、とりわけ花が重要な役割を演じていて、早くから指摘されていたようだが、ドイツの批評家クルチウスは、人間社会を、動物界(ファウナ型)として、類別される作家と、植物界(フローラ型)として、類別できる作家に分けられると、述べているが、プルーストは、あきらかに後者のフローラ型に数えられようと思われる。

 さらに、澁澤氏によると、カフカや安部公房のような、砂や石の如き無機質の絶対的抽象性までは飛躍しないが、自分自身は、貝殻や、骨や、珊瑚虫のような、石灰質の抽象的なイメージを愛すると、述べているが、これをエロス的な嗜好として、ネクロフィリア的な傾向があるかも知れないと、自らを分析もしている。さて、ボク自身は、フローラ型が、顕著な、エロス的人間かも知れないが、眠り姫や白雪姫が好きなのでネクロフィリア嗜好もあるかも・・・・・・。

 プルーストが、少年の頃に、コンブレーの田舎で、野原の見える窓にひとり凭れながら、そこに農夫の娘が現れることを、夢想し、妄想して、孤独による興奮から、つい窓の外の野生の黒すぐりの葉に、蛞蝓の跡を、つけたというエピソードがあり、「蛞蝓(なめくじ)の跡」とは、つまり、植物に向かって射精したことによる比喩。

 『仮面の告白』の主人公は、海の中で射精しているが、孤独な少年の欲望が、無意識に、自然の方向をめざすのは、きわめて興味ぶかいものがある。いずれも、汎神論的にして、異教的な、性的衝動ともいえよう。

 さてさて、プルーストの「失われた時を求めて」は、ティザーヌやマドレーヌからの記憶だけではなく、人生の様々な、局面での、情景と結びつき、田園風景に咲いているリラやサンザシ、ヒナゲシやリンゴの木の、描写も、記憶の、パノラマに展開していて、フランスの情景を思いを寄せて楽しめる。

 イギリスでは、シェークスピアの戯曲からも、博物学的な匂いが濃厚に漂うけれど、あらゆる文学作品中でも、新・旧訳の聖書における、五穀蔬菜果樹花卉百般家畜禽獣を、博物学的に網羅した書物もないでしょうし、本邦でも、古典文学は、天然風物によらないと、生み出されては、こなかったでありましょうネ。

 そして、自然から、人は花や実を園に設ける試みをします。現実にではなくても、観念的に、文学においても、花園や楽園を思い描き、或いは、思い出すのでしょう。失楽園の痕跡を求めてネ。

 『失われた時を求めて』の世界が広がる詞画集である、睡蓮、ヒナゲシ、忘れな草、カトレア、キンポウゲなどなど、プルーストの作品の中から、花の豊かなイメージに満ちた文章を選び、オールカラーの水彩画で飾る、マルト・スガン=フォント編・画で、鈴木道彦訳の、集英社の作品は、小説を読まなくても、これは十分に楽しめる本でして、

 ・・・・・・これならば、長編小説を読む努力を大幅に縮小しながら、詩のように、プルーストの言葉にふれて、かつ素朴で、可憐な、色彩の絵を楽しめる詞画集となっておりますから、お薦めでありまつ。



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