空閨残夢録

上層より下層へ中心より辺境へ表面より深淵へデカダンよりデラシネの戯言

基督荊冠伝説

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クロパの妻 - マリア

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「Checkmate King 2, this is White Rook, over.」

「This is King 2, roger, out. All right, that's it - let's get outta here ! 」


眠りの精はお菓子のピエロ♪・・・・・・夢の斥候はサンダース軍曹です!





 クロパの妻 マリアは新約聖書のうちの『ヨハネによる福音書』でイエスの磔刑を見守る場面に登場する女性だ。 イエスの母マリアの姉妹と解釈されているが、しかし、姉妹が同じ名前だというのはチョイトおかしいと思う。

 “クロパの妻マリア”は新約聖書中で『ヨハネによる福音書』のただ1箇所にしか登場していない。 他の福音書で十字架の下に居たマリア (小ヤコブとヨセの母)と同一人物と考えられたり、サロメ (イエスの弟子または妹)や、あるいはゼベダイの子らの母と同一人物と見なされることがある。

 アルファイの子のヤコブは新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。 『マルコによる福音書』(3:18)などの使徒リストに「アルファイの子ヤコブ」として登場する以外に言行の記録は無い。

 マルコ伝(15:40)に「小ヤコブとヨセの母マリア」が登場し、伝統的にアルファイの子ヤコブがこの「小ヤコブ」とされる。これと区別して、ゼベダイの子のヤコブを大ヤコブと呼ぶことがある。

 マルコ伝(6:3)、マタイ伝(13:5) に、イエスの兄弟としてヤコブの名が挙げられており、西方を中心に流布する伝承では、これも同じ人物として、アルファイの子のヤコブをイエスの兄弟とする。なおカトリックなどでは実の兄弟ではなく、従兄弟としている。

 マルコ伝の「小ヤコブとヨセの母マリア」とヨハネ伝(19:25)による伝承では、 イエスの“母の姉妹、クロパの妻マリア”とを同一人物とする。また父親であるアルファイはクロパの異名であり(「アルファイ」はギリシャ語名で「クロパ」はアラム語名とされる)、ルカ伝(24:18)に登場するクレオパも同一人物とされている。

 クロパは正式な名ではなく、ヘブライ語の「変わる」あるいは「跡を継ぐ」の意味があり、クロパとは、子をなさずに死んだ兄ヨセフの“跡を継いだ”者の呼び名である可能性が高い。クロパはギリシア語形で何度も登場するアルファイと同じ意味でもある。

 先日に当ブログの話題で触れた記事でご記憶のある方は、イスラエルの婚姻形態の“レヴィレート婚”なる再婚の様式を述べたが、イエスの母マリアはレヴィレート婚の制度から夫ヨセフを失いヨセフの夫の弟クロパと再婚して、その後に数人の男子と女子を生んだという解釈もある。

 使徒ヨハネの兄弟である漁師ゼベタイの子ヤコブが大ヤコブで、小ヤコブと呼ばれるアルファイの子ヤコブと区別されているが、アルファイの子ヤコブとはまぎれもなくイエスの弟である。イエスの死後、イエスの家督を継ぎ、イエスの教えを継いで、ナザレ派の正統はエルサレム教会を興したヤコブことアルファイの子であった。

 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ伝はどうやらイエスの父ヨセフ、その弟のクロパ、その妻であるマリア、兄弟姉妹、妻のマグダラのマリアや息子については語りたくはないらしく、断片的にしか表記していない。エルサレム教会はヤコブが殺されてから繁栄をみなかった。逆に主流ではなかった弟子のペテロを仰ぎパウロはキリスト教を繁栄させる。キリスト教側は正統のヤコブによる教会については黙殺し、イエスの親類については触れたくないようである。

 異邦人により栄えた原始キリスト教は、正統なイエスの教えとユダヤ人の宗教を容認していないようである。イエスの教えはファリサイ派、サドカイ派と対立していたエッセネ派のグループである。イエスの死後、このエッセネ派はイエスの親族を中心にナザレ派やエビオン派へと流れるが、ペテロやパウロはキリスト教を異邦人に伝道していく。

 62年にイエスの弟であるヤコブは殉教してヤコブの弟シモンが家督を継ぐが、66〜73年に第一次ユダヤ戦争が起こる。エルサレム教会と対立していたファリサイ派もサドカイ派も蜂起して帝政ローマと戦ったが、エルサレムもマサダも陥落する。ハドリアヌス帝治下の132〜35年の第二次ユダヤ戦争(バル・コクバの乱)でもユダヤ独立戦争は敗退して、イエスの正統な教えもユダヤ人自体も歴史の影へと沈滞する。

 しかし、それとは逆に異邦人に伝わったイエスの教えは、パウロの伝道によって迫害と苦難を乗り越えローマ帝国にも、やがて脈々と浸透していき、その後はヨーロッパを席巻する宗教となっていく。 

 
 ・・・・・・こちらホワイトルークでした!

トマスによる福音書

Checkmate King 2, this is White Rook, over.
「チェックメイト・K2・・・こちらホワイトルークどうぞ!」

This is King 2, roger, out. All right, that's it - let's get outta here !
「どうぞ!・・・こちらキング・2・・・応答せよ!」


戦場のミンストレルこと斥候サンダース軍曹です!



 イエスが言った、「私の口から飲む者は私のようになるであろう。そして、私もまた彼になるであろう。そして、隠されていたものが彼に現れるであろう」

 『トマスによる福音書』から

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 この『トマスによる福音書』は新訳聖書には入っていない。1945年12月にエジプトのナグ・ハマディで発見された文書で、翻訳は荒井献訳のものである。四福音書と類似した内容が多く、共通した部分が多いのだが、研究者には高く注目される文献である。

 キリスト教の最初から最大の異端とされたグノーシス主義の系譜を受ける宗教集団の影響を色濃く受けた文献が、つまり、この福音書なのだが、上記の第108の言葉にも正統的なキリスト教には見られない主義主張を秘めている。


 それはイエスに関わる者がイエスのような存在になり、イエスもまたその者と同じになるという件だ。


 普通のキリスト教では、イエスだけが救い主のキリストであり、民はイエスを信じることで救われても、イエスと同等の立場にはなれない。しかし、この福音書の言葉では、人間は誰でも、その本質において主イエスと等しいという独自のイデオロギーを秘匿している。



 ・・・・・・こちらホワイトルークでした!

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・・・・・・十勝清水駅前壺中庵主人こと、斥候サンダース軍曹です!




 イエスの「処女降誕」を主張しているのは、マタイとルカの福音書だけである。マルコ伝とヨハネ伝では「処女降誕」の伝説は画かれてはいない。「処女懐胎」や「処女降誕」の伝説について詳細をを掘り下げるつもりはない。イエスの系図をとりあえず辿り、父ヨセフや母マリアを確認して、イエスの四人の弟と二人の妹に関しても探っていきたいと思う。

 マタイによる福音書の系図では、40人の男性の名前の記述と、4人の女性の名が挙げられているが、その4人の女性の名前と、その系図は以下のとおり。

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  ユダはタマルによってペレツとゼラを (3節)

  サルモンはラハブによってボアズを (5節)

  ボアズはルツによってオベドを (5節)

  ダビデはウリアの妻によってソロモンをもうけ (7節)

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 タマル、ラハブ、ルツ、ウリアの妻であるバト・シェバの4人である。

 タマルは夫に先立たれ、子を望むあまり、娼婦を装い義理の父であるユダと交わり身ごもる。ラハブは売春婦でボアズを酔いつぶして床に忍び結婚にこぎつけ、ルツは貞操観念がないとされていたモアブ人、ウリアの妻は名前が書かれていないが、人妻であり不義で身ごもった罪深きバト・シェバである。

 マタイ伝には正統な血筋のダビデ王のみならず、その罪深き妻を記述し、不貞の異邦人ルツを記せ、娼婦のラハブを著し、スキャンダラスなタマルの名前を載せている。・・・・・・なんとも見過ごせないことではないだろうか。

 さて、タマルのことである。ヤコブの4番目の男子がユダである。ユダには3人の男子がおり、長男のエルはタマルと結婚したが子をもうけることなく死んでしまう。

 当時のイスラエル人は一夫多妻制であり、ヤコブは4人の妻がいた。その4人から12人部族が生まれる。この婚姻形態のほかに再婚の様式としてレヴィレート婚があり、子供がない寡婦となったタマルにはレヴィレート婚により、子供を生まなければならない。

 レヴィレート婚の慣習にしたがえば、ユダの次男オナンにより子種を受けて、タマルはその生まれてくる子に家督を継がせなければならぬのだ。

 しかし、このタマルに子種を授けるオナンは、たとえ子供が出来たとしても自分の子供とならないレヴィレート婚に不満を抱いて、タマルと性交には及んだものの、タマルの中で射精することなく、創世記では地にこぼしたと記述されている。

 このことにより、オナニーという言葉が生まれるのだが、よく考えてみるにオナニーとは今日では自慰行為を言うではないか。されど、オナンはタマルと性交しているので「オナニー」とは本来は膣外射精と言えはしないだろうか。それはさておき、このオナンの行為は神を怒らせてしまいオナンは殺される。(創世記38章9節〜11節)

 そこでタマルは2度も寡婦となってしまい、三男のシラが成人したのちにレヴィレート婚を約束されて、その時を待っていたのだが、生憎にもユダはすっかりそれを忘れてしまったので、タマルは子種を得るために娼婦に化けてユダと交わることになる。

 そしてタマルとユダの系図からダビデやソロモン、そしてイエス・キリストへとつながる系図となる。


 ルカ伝の福音書にはマタイと違う系図を示す。マタイ伝の系図ではダビデ王とその子ソロモン王の系譜を示してイエス・キリストの系図としている。イエスの父は大工のヨセフである。ルカ伝の系図ではイエスの父は一応はヨセフなのだが、曖昧とした表現となっていて、イエスは「人々の考えによれば、ヨセフの子であった」(3章23節)とあり、イエスの祖父エリを辿ればダビデ王の子ナタンへと至り、ナタンはソロモン王の弟である。このナタンの系図がルカ伝のつたえるところのイエス・キリストの系譜なのだ。

 ここでレヴィレート婚のことを思い出して欲しい。

 新約聖書ではイエスの父ヨセフはあまりにも影がうすい。イエス・キリストが生まれる前後に登場するだけだ。そこでイエスの父ヨセフとは誰であろうかと仮説をたててみる。

 それはヨセフとはユダの長男エルの立場であり・・・・・・つまり、マリアはヨセフと結婚するが、ヨセフは子供をマリアにもうけることなく亡くなる。それでヨセフの弟と再婚して、イエスをはじめ、その弟のヤコブ、ヨセ、シモン、ユダ、二人の姉妹をマリアはレヴィレート婚により生んだという仮説もたてられる。

 しかし、マタイ伝ではヨセフの父はヤコブであり、ルカ伝ではヨセフの父はエリとあり、祖父が違うので矛盾してくる問題もある。これについての仮説としては、ルカ伝の系図はイエスの母方であるマリアの系譜とすると矛盾がなくなる。ルカ伝によるイエスは「人々の考えによれば、ヨセフの子であった」と書き出しで始まる系図は、母方の系図と考えても不思議ではない。

 いずれにせよ、マタイ伝とルカ伝の系図はイエスがダビデの末裔であることを伝えるもので、マリアの暮らしたナザレという村の名は、「枝」や「新芽」を意味するヘブライ語に由来する。イエスが生きたはるか昔に書かれた『死海写本』には、未来のメシア、つまりイスラエルの王は「ダビデの枝」であるという表現が頻繁にある。『イザヤ書』(11章)にはダビデの血筋であるメシアを「若枝」と表現している。

 ナザレのイエスとはダビデ王の正統な若枝であるのは間違いないであろう。しかし預言者エレミアはダビデの血を引く最後の王エホヤキンについて呪われた託宣を下す。


 「この人を(中略)栄えることのない男として記録せよ。彼の子孫からは、だれひとり栄えてダビデの王座にすわり、ユダを治める者が出ないからである」


 イエスの父ヨセフは、この不幸な託宣を受けたエホヤキンの直系の子孫である。(つづく)




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 ナザレのイエスを主人公あるいは脇役に配して映画化された作品を紹介してきたが、おそらくこれが最後の映画として、今宵はイエス・キリスト伝を映像化したピエル・パオロ・パゾリーニ監督・原案・脚本の『奇跡の丘 (Il Vangelo Secondo Matteo )』の紹介である。

 この作品は1964年公開のイタリア映画である。出演者はすべて素人の役者で、プロの俳優は全く出演していないのが、白黒のフィルムワークと相俟ってドキュメンタリー風にも感じてしまうシンプルな映像。ドラマティックな設定も極力抑制されていて、無駄な構成や余計な装飾もはさまれず、主観は排されて、あくまでも忠実に『マタイによる福音書』の文体を映像化している。

 映画の冒頭は処女マリアが懐妊して、ヨセフに天の御使いが聖霊により受胎したことを告知する場面から始まる。この場面でショットにして31回、クローズアップによる切り返しの構図が基本となり、マリアとヨセフと天使が登場して、セリフは天使の受胎告知だけで、マリアとヨセフの間に会話は無く、ただお互いに眼を交わし、眼を逸らし、沈黙のうちに、やがて微笑を交わすのみである。

 『マタイによる福音書』は文体がきびきびとして無駄がなく、だらだらとした心理描写に陥いることもない。そのスタイルは一貫して簡潔な文体なのであるが、パゾリーニの演出もこのスタイルを踏襲するように、会話によることのない一挙一動のなかで、役者の表情のなかに、感情と思念を記号化するように、役者は余計な演技は極力されていない。

 映画評論家の四方田犬彦氏は、「マルコ伝は叙述が単純すぎて且つ曖昧であり、ルカ伝は過剰に感傷的で、ヨハネ伝はあまりにも謎めいている。」と評しているが、四福音書のなかでマタイ伝だけが、「イエスの内面に秘められた見えない暴力性と孤独感が、その存在の内奥を見据えている。」と述べている。

 パゾリーニはマタイの文体に惹かれて、ナザレのイエスの誕生から死、そして復活まで、必要最小限の事実だけを端的に述べるという姿勢を崩そうとせず、映画『奇跡の丘』を映像化して、そして歴代の「キリストもの」映画とは、厳密に一線を画して物語化している。その明確な特徴として、イエスという主人公を近代小説のそれのように、豊かな感情と内面をもった人物像として描かないことに力点がそえられていることである。

 二千年前に執筆されたマタイによる福音書がナザレのイエスを簡潔に、しかも強い筆遣いで描いたことに、まるで呼応するかの如く、それを音と映像を通してパゾリーニは描いて表現したのが、映画『奇跡の丘』なのである。世俗化を拒み、かといって聖人画のような過渡な神聖化に陥ることも避け、ナザレのイエスを民衆の英雄のように叙事詩的に描いた作品といえる。

 主演は当時、スペインで反体制活動をしていた学生のエンリケ・イラソキがナザレのイエス役、若き日のマリア役に女学生のマルゲリータ・カルーソ、老いたマリアにパゾリーニの母・スザンナ・パゾリーニ、12使徒にはパゾリーニの友人である詩人、哲学者、評論家、作家、体操選手、農夫などを起用し、職業的俳優は皆無である。

 若きマリア役は女優のような華やかさはないがとても美しい。天使役の少年は少女のように美しい。そしてサロメを演じる少女は悪徳や悲劇性のかけらもなく天使のように美しかった。そして撮影された南イタリアの牧歌的風景に、そこで生まれて育った風貌のエキストラ陣は風景の一部の如く自然だった。

 オリジナル音楽はルイス・エンリケ・バカロフで、J・S・バッハの『マタイ受難曲』『六声のための遁走曲(リチェルカーレ)』、アルトン・フォン・ウェーベルンの『ミサ ロ短調』『われらに平和を与えたまえ』、アマデウス・モーツァルト『アダージョとフーガ ハ短調』、セルゲイ・プロコフィエフ『アレクサンドル・ネフスキー』、黒人霊歌にオデッタ・ホームズ、ロシア革命歌などが選曲されている。

 このパゾリーニの映像詩は、「キリストもの」映画では必見である作品といえよう。因みにパゾリーニは無神論者でコミュニストだった。



 
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 『クォ・ヴァディス: ネロの時代の物語』(Quo Vadis: Powieść z czasów Nerona)は、ポーランドの作家ヘンリク・シェンキェヴィチによる歴史小説である。この原作から1951年に米国でマーヴィン・ルロイ監督により映画化されている作品は、主演がロバート・テイラー、デボラ・カーによるスペクタル超大作の古典史劇。

 小説及び映画のタイトルにある『クォ・ヴァディス』の意味と、その由来となるのは、新約聖書の『ヨハネによる福音書』13章36節〜38節にある場面にある・・・・・・

 ・・・・・・「シモン・ペテロ言ふ『主よ、何處にゆき給うか』イエス答へ給う『わが往く處に、なんぢ今は従ふこと能はず、されど後に従はん』 ペテロ言ふ『主よ、いま従ふこと能はぬは何故ぞ、我は汝のために生命を棄てん』 イエス答へ給ふ『なんぢ我がために生命を棄つるか、誠にまことに汝に告ぐ、なんぢ三度われを否むまでは鶏鳴かざるべし』」

 最後の晩餐でイエスがユダに「なんぢが為すことを速やかに為せ」と伝え、ユダが去った後に、残った弟子たちにイエスは「なんぢらは我が往く處に来ること能はず」と伝える。そして「わが汝らを愛せしごとく、汝らも相愛すべし 互に相愛する事をせば、之によりて人みな汝らの我が弟子たるを知らん」

 ・・・・・・とイエスが弟子たちに述べた後に、ペテロが『主よ、何處にゆき給うか』という問いかけた言葉のラテン語が、 Quo Vadis Domine (クォ・ヴァディス・ドミニ)から『何處にゆき給うか(クォ・ヴァディス)』がタイトルとなっている。

 さて、映画の『クォ・ヴァディス』からあらすじを述べながら、話を続けるが、物語はナザレのイエスがゴルゴダの丘で磔にされてから30年が過ぎていた・・・・・・時は紀元64年初夏、映画の冒頭場面はローマへ通じるアッピア街道を皇帝ネロ治世下の軍隊長マーカス・ヴィニキウス率いるローマ軍第14軍団がローマに凱旋するところから始まる。

 この映画はローマへ通じるアッピア街道が重要な意味をもっている。映画の最終場面でもローマを去るマーカス・ヴィニキウスはこの街道を下っていく。映画の主役はロバート・テイラー演じるマーカスである。マーカスはサン・セバスティアーノ門に向かって軍団を引き連れて往くが、ローマのひとつ手前の宿駅に足止めを命じられる。そこで、今は引退した老将軍のはからいで一夜を過ごす。

 老将軍の養女リジア(デボラ・カー)にマーカスは一目惚れしてしまうが、リジアはマーカスに惹かれながらもマーカスの戦(いくさ)話を強く嫌み、マーカスの求愛を拒むのであった。それはリジアがキリスト教の愛の思想に深く触れていて、マーカスへの愛よりも信仰を優先させたからである。

 リジアは或る王国の姫で帝国の人質であったのをマーカスは知り、皇帝からの褒美としてリジアを要求する。ローマの宮廷に攫われたリジアは優雅な暮らしより、信仰ある生活を望みローマ城下を脱走してしまう。マーカスは魔術師の力を借りてリジアの探索を計り、ローマ唯一の剣闘士を護衛に三人でクリスチャンが密かに集うカタコンベに潜入する。

 現在、遺跡として残るカタコンベはアッピア街道沿いに幾つも残存している。有名なのはサン・セバスティアーノ大聖堂のカタコンベとサン・クレメンテ教会のカタコンベであろう。映画ではマーカスが潜入したカタコンベにタルソスのパウロとペテロがイエス・キリストの愛の教えを説いていた。

 パウロもペテロもキリスト教者たちもアッピア街道からローマへの伝道の道とした。ローマのサン・セバスティアーノ門からカプア、ベネヴェント、港町ブリンディシまで600kmであり、この港からギリシアへと望むことができる。これを逆にクリスチャンはローマへと街道を上ってきたのだ。

 マーカスはリジアを奪還すべくカタコンベの集会後に跡を着けるが、リジアの忠僕の護衛に倒され、マーカスの護衛の剣闘士は殺されてしまう。気絶したマーカスはやがてリジアの介抱で目を覚まし、二人の愛は確かめられ心開いたリジアであったが、ペテロの教えにマーカスは対立して、マーカスとリジアは結局、愛の破局を迎えてしまう。

 ローマに帰還したマーカスはリジアへの愛を断ち切った思いで過ごしたが、或る日、ローマに大火が起きる。これは歴史的事実でもあり、映画では皇帝ネロの暴虐的仕業として展開させているが、マーカスは燃えるローマ郊外の街を見てリジアの安否が気になり、皇帝王妃の阻止を振り切りリジア救出に奔る。二頭立ての戦車を駆けてアッピア街道をマーカスは奔る。それを王妃の命令で追う戦車隊の活劇シーンは『ベン・ハー』の戦車競争の原点を彷彿とさせる。

 猛火のローマ市街から市民を助けながリジアを救出したマーカスだが、ネロは自らの放火をクリスチャンに罪を着せて迫害する。この姦計にマーカスもリジアも多くのキリスト信者たちも囚われの身となる。この迫害から逃れたペテロは連れの少年ナザリウスとアッピア街道を下って往った。

 ギリシアへ逃れるペテロに主イエスが現れる。姿は見えぬが聖霊は強くペテロに呼びかける。ペテロは畏れ・・・・・・「Quo Vadis Domine 『主よ、何處にゆき給うか』」と呟く、主はナザリウス少年の口を借りて斯く述べる。「ペテロよ!ローマの民は汝の声を求めている。汝が民を救わねば、わたしが二度目の十字架につこう」・・・・・・30年前の後悔がペテロを大きく包んでいく。

 ローマではクリスチャンたちへの弾圧が押し迫っていた。闘技場にライオンが放たれネロの公開処刑が行われようとしていた。ペテロはローマに凱旋して死を前にした信者たちへ神の祝福を述べて囚われの身となる。そしてヴァチカンで逆さ十字の磔刑に処され、クリスチャンの多くもライオンの餌食、磔の火炙りと殉教の道を辿っていく。

 マーカスとリジアの処刑は更に壮絶を極めたものとなる。しかし、神の御業はこの窮地に奇跡的な力を及ぼすのであった。

 ペテロが主と出逢ったアッピア街道の道筋には、今ではドミネ・クォ・ヴァディス教会が建てられている。教会の礼拝堂内部には、ペテロの前に現れた時のイエス・キリストの足跡が遺跡として残されている。



 

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