空閨残夢録

上層より下層へ中心より辺境へ表面より深淵へデカダンよりデラシネの戯言

サッフォーの宴

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「Checkmate King 2, this is White Rook, over.」

「This is King 2, roger, out. All right, that's it - let's get outta here ! 」


――― 斥候サンダース軍曹です! ―――



 19世紀末のヨーロッパそしてパリの市街を中心にしたベル・エポックの文化で、私が個人的に最も、美しくも、麗しい魅力に富んだ三人の女性をあげるとしたら、まずは、サラ・ベルナール、次にリアーヌ・ド・プージィ、そしてナタリー・バーネイである。

 ナタリー・クリフォード・バーネイは、1876年10月31日に米国のオハイオ州デイトンに生まれ、1972年2月2日パリに死す。ナタリーの父は鉄道会社の社長で資産家であり、ホワイトハウスに招かれるほどの人物であった。

 ナタリーは17歳でワシントンの社交界にデビューすると、美貌、才知、魅力、健康、富にあふれた金色の髪のナタリーに魅了されない男たちはいなかったが、男たちの愛のささやきと熱い誘惑には、全くの無駄のことで、頑なに求婚者たちをはねつけて、両親を心配させた。

 ナタリーの書く詩は、いにしえの古代ギリシアの女神であり、レスボス島の詩人であったサッフォーの影響が濃密にして偏愛が露わであり、“ワシントンのサッフォー”という渾名を頂戴することになる。

 ピューリタンの末裔の多い米国では、ナタリーの精神や情熱、魂や意志として、理想の場所と感じられずに、やがて、「セーヌに浮かぶレスボス」こと・・・・・・世紀末のパリ、ベル・エポックの快楽の都へ逃れることとなる。

 パリに逃れたナタリーは、クルチザンヌのエミリエンヌ・ダランソンやリアーヌ・ド・プージィの写真を収集するようになるが、ナタリーはこの時、「クルチザンヌ」という言葉の、正確な意味がまだわからなかったようだ。

 クルチザンヌとは、「宮廷人」を意味する「クルチザン」(courtisan)から派生した語であるが、王侯貴族や上流人相手の高級娼婦の同意語となった。古代ローマにはすでに「コルティジャナ」と呼ばれる高級娼婦がいたし、さらに遡れば古代ギリシアには「ヘタイラ」と呼ばれる上流社会の遊女が存在している。

 つまり、ナタリーはクルチザンヌであるリアーヌに恋をし心奪われてしまったのだが、なんとナタリーはブローニュの森のアカシアの小道で、リアーヌ・ド・プージィに求愛する。リアーヌは情熱を湛えた見知らぬ娘に一本のアイリスを捧げる。

 西欧社会で当代随一のクルチザンヌと“月の光”の髪が靡く米国娘が出逢ったのは1889年、その時、リアーヌ30歳、ナタリー23歳のときである。あまりにもロマネスクな恋の場面は、プルーストの世界に入り込んだような錯覚さえおぼえてしまう物語であり、史実のお話。

 やがてリアーヌを誘惑したナタリーは、伴に愛し合い、世を席巻するクリチザンヌを虜にするのだが、後にナタリーの恋人ととなるルネ・ヴィヴィアンはナタリーと別離て、リアーヌに次ぐクルチザンヌのエミリエンヌ・ダランソンの恋人となり、エミリエンヌもリアーヌやココ・シャネルを愛人にするなど、世紀末のパリではレスボスの宴が華やかにくりひろげられていた時代でもあた。

 リアーヌ・ド・プージィはベル・エポックのクルチザンヌにして、パリに輝くレスボスの明星、いにしえの女神の再来かと、同時代の芸術家たちに称えられ、ヨーロッパ中に熱狂的な賛美を巻き起こしていたが、それはドゥミ・モンド(半社交界)の世界のことであった。ドゥミ・モンドとは本当の社交界に対して、クルチザンヌなどが出入りする裏と夜の社交界であった。

 さてさて、ナタリーにしても、リアーヌにしても、詩人や芸術家とも知識人や芸術家とも深く関わっているのだが、リアーヌ・ド・プージィは、ダヌンツィオ、プルスート、ポワレ、コクトーらと深く交流している。マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』のオデット、コレットの『シェリ』のヒロインはリアーヌがモデルであった。



 ・・・・・・・こちらホワイトルークでした!

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「Checkmate King 2, this is White Rook, over.」

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 ・・・・・・十勝清水駅前壺中庵主人こと、斥候サンダース軍曹です!



 現代の日本で高純度の恋愛小説を発表して、それも女と女の恋愛だけをテーマに連作している中山可穂の作品のなかで、『白い薔薇の淵まで』は彼女の一連の恋愛小説の傑作であろうし、この著作は第14回山本周五郎賞を受賞したこともあり、同性愛という偏見を越えて世間からも認知された文学作品である。

 中山可穂は1960年、愛知県名古屋市に生まれる。早稲田大学教育学部英語英文科卒業。大学卒業後に劇団を主宰、作・演出・役者をこなすも、のちに解散となる。この劇団での出来事を小説化した1993年に、マガジンハウスへ持ち込んだ『猫背の王子』でデビュー。

『猫背の王子』の続編である1995年に『天使の骨』で第6回朝日新人文学賞を受賞。2001年、『白い薔薇の淵まで』で第14回山本周五郎賞を受賞。2002年『花伽藍』が第127回直木三十五賞候補作品となる。

 『猫背の王子』は芝居に情熱の全てをかける王子ミチルのとその主催する劇団の物語である。またミチルは女から女へと淫蕩なほどに性的な関係も精力的に構築しながら、ミチルの小劇団での公演により女性のファンたちに夢幻的な熱狂も巻き起こす女優でもあった。

 そんなミチルの劇団が信頼していた仲間の裏切りにより解散するまでの経緯が、中山可穂の自伝的な要素を交えながら物語は展開する。彼女は公私ともに同性愛者であることも肯定していて、恋愛小説のほとんどは女と女の愛の物語になっている。

 このミチルの青春物語は続編の『天使の骨』では、青春のエネルギーをほぼ傾注していた演劇の挫折から、ヨーロッパへの放浪と彷徨の日々と、パリで回り逢う小劇団の日本人女優との恋愛譚となる。やはり事実として世界各地を若き日にさ迷い歩いた経験が小説に反映しているようだ。

 この中山可穂の体験としてのアジアからヨーロッパそしてアフリカへの放浪と彷徨は、『白い薔薇の淵まで』のアジアへの探索紀行、『マラケシュ心中』でのアフリカへの逃避紀行で、小説世界に共通するもうひとつの大きな要素となっている。

 2000年に発表された『感情教育』では女と女の情熱恋愛のテーマが高純度に輝きをみせはじめてくる。ひとりの女は逆境に生まれつく。産院で産み落とされた赤ん坊を母親は見捨てて消える。3歳の時に孤児院から養女として建具職人に育てられたが、養父は酒乱で、その家を早く出ることばかり考えて育った。

 専門学校を卒業すると、内装会社のデザイン部に就職し、店舗や飲食店などの内装のデザインや施工の監理をした。仕事を通じて知り合った異性と結婚して、傍目には幸福そうな家庭を築く。一女にも恵まれて、その娘を溺愛した。そして彼女は一級建築士を目指して生活していた。

 もうひとりの女もやはり逆境に生まれつく。父親は自分の子供を祖父母から連れ出して、遊園地に置き去りにして、母親の祖父母から金を巻き上げるような人でなし。母は男と酒に溺れるような生活をして、子供をヤクザの親分に預けたり、寺の住職である祖父母に預けたままでも平気な女であった。

 やがて演劇を学びたいと東京の私立大学を志望するために母親のパトロンに学費を支援してもらい、上京して入学するや学生仲間と劇団活動に情熱を燃やす。劇団が解散するとフリーランスのライターとなって、忙しく仕事をこなす日々がはじまる。その取材中に、自分と同じような逆境に育った相手と出逢うことになる。

 そして、このふたりは、出逢って、恋におちる。やがて、激しく愛は燃え上がると、ひとりの女の幸福な家庭にひびが入る。・・・・・・この小説でもひとりの女が自伝的要素で登場する。このフリーランスのライターもレスビアンであり、もうひとりの女は最初は同性愛者ではない既婚者である。この既婚者が同性愛の恋愛に傾くことで幸福な家庭が崩壊するが、逆境の過去と対峙する物語になるのが、この小説の展開である。

 『白い薔薇の淵まで』は主人公は婚約者がいるキャリアウーマンである、だが、或る日、ジャン・ジュネの再来とまで呼ばれた新人女流作家の塁と出逢い、平凡なOLが破滅的な恋におちる。幾度も修羅場を繰り返しては、別れてはまた甘美な性愛に溺れ求め合い破滅に向っていく極限の愛の物語である。この中山可穂の高純度な恋愛小説は極限まで昇華していく。

 『マラケシュ心中』は心中に至るのは男女だが、物語の軸は既婚者の女性が女流歌人に抱くプラトニックな愛が、やがて性愛として結ばれるまでの試練にみちた愛の彷徨のドラマである。

 いずれも100%恋愛小説の完成品として読めること間違いない。



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ナチュラル・ウーマン

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 松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』をはじめて読んだときに感じたのは、稲垣足穂をリスペクトした特殊な恋愛小説で、A感覚の女性による同性愛がテーマなのであろうと、なんとなく思いつつ・・・・・・も、そのエロティシズムの深淵を探れない焦燥を感じた。

 それから、彼女が発表した『親指Pの修行時代』を読んでみて、『ナチュラル・ウーマン』に描かれたA感覚が、『親指Pの修行時代』でP感覚とV感覚も扱われることにより、『ナチュラル・ウーマン』の世界を補強するテキストとして親しんだ。そんな、『ナチュラル・ウーマン』が本年に二度目の映画化とされた。

 1994年に佐々木浩久監督により映画化されているが、ボクは出演者の女優である二人に性的な魅力を強く感じながらも、スケベ心一杯満載であったにも関わらず観ていない。今回の野村誠一という人気カメラマンが初監督による作品は前回の映画化よりも、さらにあらゆる面で魅力を感じないから、多分、見ることもないであろう。

 いずれ深く、松浦理英子の作品世界は心ゆくまで語りたいと思う。男の性的な欲望による視線でレズビアンという世界を映像の一部で描いているだけでは、彼女のエロティシズムの奥義を表せないであろうし、彼女の小説がそうたやすく映画で表現できるなど想像ができない。

 
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 松浦理英子による同性愛を扱った純文学より、何故、中山可穂の同性愛を扱った高純度の恋愛小説が映画化されないのかが不思議でならない。中山可穂の描く小説はドラマ化しやすい物語の構造であるし、女性の同性愛を濃密に描いてもいる情念の世界である。

 中山可穂の作品についても後日に深く濃密に話題としたい。ボクが映画化するなら『白い薔薇の淵まで』をまずあげよう。『マラケシュ心中』もいいだろう。中山可穂は1993年に『猫背の王子』で文壇デビューから自らのセクシャリティーを同性愛者と公言している作家。

 松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』は発表当時は、中上建次くらいしか評価をしていなくて、文壇からはほぼ黙殺されていた。そんな経緯から二度も映画化されるのが何故か不思議に感じる。できるならば、『親指Pの修行時代』を映画化して欲しいと痛切に感じている。



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 吉屋信子の『花物語』は1916(大正5)年から「少女画報」に断続的に連載され、1926(大正15)年に「少女倶楽部」で完結されている。「少女画報」では蕗谷虹児、「少女倶楽部」では中原淳一が挿画を担当している。

 鈴蘭、月見草、野菊、山茶花、水仙、忘れな草、梔子の花、白百合、白芙蓉、白木蓮、ダーリア、アカシア、ヒヤシンス、名も無き花、日陰の花、燃ゆる花、心の花、紅薔薇白薔薇、黄薔薇、玫瑰花(はまなすのはな)など52の花がタイトルとなった連作短編集の『花物語』は、美女の描写は泉鏡花を継承したが如くの文体にして、《あわれなんの思ひを秘むるのか》などという挿入句のある言葉には、独特の美文調として静々と心うたれる。

 《初夏の日の午後、四年級の志磨さんが寮の応接室のピアノで簡単なマーチを弾いていると窓の外で衣摺の気配がしたので窓を開いて見ると、》 そこに一人の少女が 《濃い海老茶の袴の裾を巧みにひるがえしながら》 ひとりでワルツを舞っているのを見出す 《その人なつかしくあどけない風情がなんとはなしにいとしくなって》 志磨さんは部屋に招き入れ、いっとき楽しく語らった、そのことを志磨さんは 《ただ一日の戯れ言に過ぎぬと》 思って心にもとめなかった。ところが、その日から、志磨さんが校舎から寄宿舎へかよう廊下を放課後一人で渡っていくとき、必ず一人の下級の少女が 《誰を待つのか》 しょんぼり立っている。誰を待つのだろう。放課後このあたりに何の用があるのだろう、とふしぎに思っていた志磨さんが、ふと気づいて、《ぽっと薄紅く面を染めて------「私を待って下さったの------」と》 ささやく場面には、慕わしい少女と、いじらしい少女の二つの相が、儚くも心かよわい映像となって見えてきて、美しい奇蹟的な場面描写となっている。これは「雛芥子」の一節からである。

 少女や乙女には花々が似合っているのは謂うを俟たないが、『失われた時を求めて』のプルーストの花園、ジャン・ジュネの『花のノートルダム』や『薔薇の奇蹟』、 オスカー・ワイルドも薔薇を愛した作家であろう。

 ワイルドの『ナイチンゲールと薔薇』は、ナイチンゲール(ウグイス)が人間に恋をするお話しで、ナイチンゲールの愛する彼は別の女性に恋をしている。この女性がとんでもなくひどい人で、季節はずれで絶対に手に入らない赤い薔薇があれば舞踏会にいっしょに行ってもいいという。ナイチンゲールは白い薔薇のトゲを胸に刺しながら歌いつづける。その血で薔薇は美しく赤く染まる。ナイチンゲールは力尽きて死んでしまう。彼は喜んで女性に赤い薔薇を捧げるが、服に似合わないといって彼女に受け取ってもらえない。そのあげくに薔薇は無残に投げ捨てられる。

 ワイルドもプルーストもジュネも同性愛者ということで共通したエロスとフローラの使徒である。三島由紀夫は自ずから被写体となった『薔薇刑』という写真集を発表しているのも連想される。花がエロスと密接しているのは、花とは植物の性器である事実と関連しているからであろう。花を性器として意識的に観賞する人はいないであろうが、しかし、人は無意識に花をエロスと連関させ、花のイメージをエロティシズムに昇華している。

 今宵もまた少女と乙女の花のイメージから、男色のエロスとフローラへと変容した話題と転じたが、同性愛でも異性愛でも花とエロティシズムは欠かせない象徴としてあることには間違いはない。それにしてもワイルドの白い薔薇が血の薔薇というイメージは、やがて吸血鬼幻想の萌芽ともいえるかも知れないイメージを垣間見る。



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 吉屋信子の『黒薔薇』はプラトニックな同性愛を主題に、大正末期から昭和初期の社会に根ざした女性蔑視や、その偏見との闘いを主人公の不屈の意思を伏線として描いている。物語には暗澹とした抑圧がたちこめていているが、主人公の教師・章子は可憐なる生徒の和子に重たい日々に安らぎを密かに求め、その恋慕には禁欲的な意志が働き、自己の内部と外部の世界から大きな抑圧に板挟みの日々を送る。

 章子は北海道生まれで十勝の出身なのだが、旧弊で保守的な社会には適合しない性格から、その生まれ育った環境が開拓初期の北海道で十勝なのは理解できる設定なのである。夏休みに章子が帰省する場面があるが、この札幌と帯広と思われる平原で過ごす時の幕間だけに、この小説はやや開放感を感じさせてくれる。

 章子は孤独であまりにも微力である。強い意志も社会の壁には風穴も開けられない。愛欲も同性への嗜好だから更に内なる抑圧も大きすぎる。公的にも私的にも求めるものも望むものも快楽の片鱗さえつかめないのである。そして物語は快感原則に通じるカタルシスもなく悲劇的な結末で収束されるしかない方向で終わる。

 以上がボクの感想なのだが、品性を感じるリリカルな吉屋の文体には、現代のすさんだ語彙、埃に塗れた修辞を、麗しい気品の息吹で清々しくしてくれる意志を感じさせてくれる。物語の閉塞感には不満も感じるが、時代的な状況とコモン・センスを凌駕するレトリックはここまでが限界であろう。

 さて、同性愛は今では禁断なる愛ではない。男性の同性愛に関しては本邦では常識の時代もあった。女性の同性愛に関しては、明治以降に基督教が流入しプラトニックなかたちで吉屋信子は表現してきたと思わしい。勿論、吉屋はサッフォーに関しても知っていて信望していたようだが、コミュニズムとの思想的な関連も少なからずあったであろう。

 少女小説の権威にして評論家の嶽本野ばら氏曰く、《エスの世界》とはレスビアンと違い、《百合》とも若干違うそうですが、この《エス》の恋愛感情には二種類あり、同種に惹かれ、一体化してみたいと思う近親相姦願望と、異種のものに興味を持ち、己に欠けた部分を補うために一体化したいという社会主義的願望があるそうです。

 嶽本氏の《エス》理論はそれとなく面白く納得できるものなのですが、「近親相姦」的とか「社会主義」的とかいう語彙を用いた論理も解釈を容易にしているけれども、そんなに複雑な世界がエロティシズムにあるとは思っていないのが持論で、お話が小難しくなるので今宵は自前の理屈は打ち切りにします。

 その代わり、少々解説を入れてお終いといたしましょう。まずは《エス》についてです。エスとはシスターの英語の頭文字で、上級生と下級生とが女学校で特別に仲良しとなる意味です。『黒薔薇』のように女教師と女性徒とという組み合わせもありで、これらは現実の生活では疑似恋愛であり、物語の想像ではプラトニックなものに終始いたします。

 官能的で肉体的な関係とは全くもって無縁なのが少女小説の恋愛の典型であります。《百合族》に於いては乙女とは違う世界と考えて下さい。しかし、男性の性的な妄想は《百合》に傾くものでありましょうが、古典的な詩として《エス》は麗しゅう世界でもあります。言葉(思想)の耽美として《エス》の薔薇は幻想のメタファーで、《百合》の妄想のメタファーは官能の世界(エロス)と認識して下さい。(つづく)・・・・・・



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