空閨残夢録

上層より下層へ中心より辺境へ表面より深淵へデカダンよりデラシネの戯言

恋愛力序説

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ロミオとジュリエット

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「Checkmate King 2, this is White Rook, over.」

「This is King 2, roger, out. All right, that's it - let's get outta here ! 」


・・・・・・戦場のミンストレルこと斥候サンダース軍曹です!
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 今では、アーサー王伝説の中にある『トリスタンとイゾルデ』の物語は、ギリシア神話にある『ピュラモスとティスベ(桑の実)』の物語りが原型なのかも知れない・・・・・・。
 

 バビロンの都に、ピュラモスという美青年とティスベという美女が住んでいた。二人の家は隣同士で、二人は恋に落ちたが親たちに反対された。二人は、両家を隔てる壁の小さな場所で密会していた。そして、或る夜、町外れのニノス王の墓の近くの木陰で落ち合うことを二人は決めた。


 夜陰に乗じて、ティスベは、ヴェールで顔を隠して、墓までやって来ると、大きな桑の木の下に座った。すると、一頭の牝獅子がやって来た。ライオンは牛を食い殺したばかりで、口を血だらけにして、近くの泉で渇きを癒そうとしていた。遠くから月の光でその姿を見たティスベは、洞穴に逃げ込んだ。その時、ヴェールを落としてしまった。


 獅子は、水で渇きを癒し、森へ帰って行く途中、そのヴェールを見つけて、血だらけの口でそれを引き裂いた。後から来たピュラモスは、血に染まったヴェールを見つけ、約束の木陰までそれを持ってゆくと、そのヴェールに口付けをして、腰につけていた剣を、わき腹に突き立てた。その流れる血を浴びて、そばの桑の実は、どす黒い色に変わり、根も、血を吸って、垂れ下がる実を赤く染めた。
 

 この時、ティスベがもどって来て、ピュラモスを見つけると、「ああ、なんてことでしょう。あたしのお父様も、このお方のお父様も、わたしたちをお許しくださらなかったけれど、でも、お願いがあるのです。確かな愛が、こうして結びつけてくれるのです。ですからどうか、わたしたちを、同じお墓に葬っていただきたいのです。それから、この桑の木にもお願いがあります。これからは、わたしたちの死の形見に、嘆きにふさわしい黒い実をつけてほしいの。ふたりの血潮の思い出にね」・・・・・・ティスベはこう言うと、胸の下に刃をあてがうと、血のぬくもりがまだ残っている剣を胸に刺し入れた。



 ウイリアム・シェークスピアは戯曲『ロミオとジュリエット』を、ケルト系の『トリスタンとイゾルデ』の伝説よりも、『ティスベとピュラモス』のギリシア系の悲恋伝説を原作にしているようだ。

 このシェークスピアの戯曲を映画化した作品は、ジョージ・キューカー監督(1936年)アメリカ、(ロミオ)=レスリー・ハワード、(ジュリエット)=ノーマ・シアラー 。

 レナート・カステラーニ監督(1954年)イギリス、(R)=ローレンス・ハーヴェイ、(J)=スーザン・シェントル 。

 レオ・アルンシュタム、レオニード・ラブロフスキー監督、1954年、旧ソ連、(R)=U・ジダーノフ、(J)=ガリーナ・ウラノワ。

 リカルド・フレーダ監督(1964年)イタリア、(R)=ジェロニモ・メニエル、(J)=ローズマリー・デクスター 。

 フランコ・ゼフィレッリ監督(1968年)イタリア、(R)=レナード・ホワイティング、(J)=オリビア・ハッセー。

 バズ・ラーマン監督(1996年)アメリカ、(R)=レオナルド・ディカプリオ、(J)=クレア・デインズ 、等があるが、ボクが観た作品はF・ゼフィレッリ監督の映画だけである。



 そのあらすじは、舞台は14世紀のイタリアの都市ヴェローナ。そこではモンタギュー家とキャピュレット家が、血で血を洗う抗争を繰り返している。


 モンタギューの一人息子ロミオは、ロザラインへの片思いに苦しんでいる。気晴らしにと、友人たちとキャピュレット家のパーティに忍び込んだロミオは、キャピュレットの一人娘ジュリエットに出会い、たちまち二人は恋におちる。二人は修道僧ロレンスの元で秘かに結婚。ロレンスは二人の結婚が両家の争いに終止符を打つことを期待する。


 しかし結婚の直後、ロミオは街頭での争いに巻き込まれ、親友のマキューシオを殺された仕返しにキャピュレット夫人の甥ティボルトを殺してしまう。ヴェローナの大公エスカラスは、ロミオを追放の罪に処する。一方、キャピュレットは悲しみにくれるジュリエットに大公の親戚のパリスと結婚することを命じる。


 ジュリエットに助けを求められたロレンスは、彼女をロミオに添わせるべく、仮死の毒を使った計略を立てる。しかしこの計画は追放されていたロミオにうまく伝わらず、ジュリエットが死んだと思ったロミオは彼女の墓で毒を飲んで死に、その直後に仮死状態から目覚めたジュリエットもロミオの短剣で後を追う。事の真相を知り悲嘆に暮れる両家は、このことでついに和解することとなる。


 ゼフィレッリ監督の『ブラザーサン・シスタームーン』も好きな作品であるが、この映画は宗教的で禁欲的な作品であり、反カトリック的な要素も含まれているのも確かである。


 『ロミオとジュリエット』は情熱恋愛をテーマにしているので、反キリスト教的な側面を『ブラザーサン・シスタームーン』よりは感じられるかも知れないが、ゼフィレッリ監督は汎神論的なキリスト教徒のようである。


 いずれにしても、『ブラザーサン・シスタームーン』よりは、『ロミオとジュリエット』は性的な情熱のカタルシスを与えてくれるので、エロス的な恋愛力を信仰するものには聖典として語り継がれる作品なのである。




 ・・・・・・こちらホワイトルークでした!

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Checkmate King 2, this is White Rook, over.」

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戦場のミンストレルこと夢の斥候はサンダース軍曹です!



 
 『紅いコーリャン』『菊豆(チャイトウ)』などの中国の農村部を主に舞台にした映画で知られるチャン・イーモウ(張芸謀)監督による2000年の作品『初恋のきた道』は、これは純然たる高純度の恋愛映画なのだが、美しくも清らかな光彩を放つ珠玉の作品である。

 中国北部の寒村である三合屯に馬車で半日はかかる町から教師が赴任して来る。しかし、小学校の先生はやってきたが、学校の校舎さえ未だ無い貧しい村であった。

 赴任してきたルオ先生は、その時20歳、その先生に恋心を抱く娘は18歳のティである。やがて文化大革命前夜の1958年に反右派闘争にまきこまれるルオとティは、二年後に結ばれことになる。

 それは自由恋愛の無いとも思しい時期であり、また二人の身分の差にも愛の障害があった時代の物語である。

 映画の冒頭は、黒白の映像で町から村への道をルオとティの一人息子が、父の突然の死によって帰還するところから始まる。それは寒い冬の悲しい出来事であった。村は以前にもまして老人と子供だけの働き手は都会に出てしまい淋しさと貧しさのために閑散としていた。

 父の遺骸は町の病院にあった。村長と息子は葬式の打ち合わせをするが、母が旧い慣わしにより仏となった亡骸を家路まで棺を担いで運ぶことを主張している。しかし、村には棺を担ぐ人手もお金もなかった。そこで村長は息子にトラクターで棺を半日かけて運ぶように母を説得して欲しいと説く。

 だが母は強い意志で頑なに仏となった父を担いで運ぶため、壊れた機織を直して棺にかける布を夜なべをして織り始める。母は父が死んで二日間学校の校舎の前から座ったまま疲れ果てていたので、息子は布は町で買うからと説く、布は織らないで休むように説得しても言うことを聞こうとしなかった。

 そして映像は過去の息子のナレーションによる回想場面となるのだが、このシーンからカラーへと映像に変わる。

 よく映画の手法としては、現在がカラーの映像で過去の回想シーンが黒白の映像となるのが一般的なのだが、この作品は逆の手法にすることで、母の初恋を活き活きと、母の父への想いを熱く、恋愛の激しい情念を映像とするべく、寒村の風景をカラー映像で描写することにより、一途でひたむきな愛、いじらしく清冽な恋を、鄙びた田舎の牧歌的な風景の中で、情念を抑えた静かな映像としていくことに成功している。

 しかし、その恋愛力はチャン・ツィイー(章子恰)演じるところのなんともいじらしい恋心、ひたむきな愛情を見事に一身に表現しきっていたのが、心深くに、心に響いて、清冽な輝きが、哀しみの琴線にふれてしまう。

 村の校舎は建設されて、女たちは建築に携わる男たちにお弁当を作る。ティはルオ先生に食べて欲しくて、葱のお焼き、栗ご飯に炒り卵、茸餃子と一生懸命に料理をするが、その姿が美しくて、何ともいじらしく可愛らしいこと・・・・・・

 村には井戸が二つあって、校舎に近い裏井戸と、ティの家に近い表井戸があったが、ティは天秤を担いで遠い裏井戸でルオ先生の国語の朗読を聞くために、40年間も、そこへ通い続けた。

 やがて学校が建てられて完成する。その校舎の梁に村で一番美しい娘が紅い布を織って飾るのがティの役目になった。

 学校に通う遠い家の教え子はルオ先生が送ってくれていたが、その町につながる山道をティは遠くから夕暮れの下校時に待ちぶせを続ける。

 やがて、そんなティの恋心を感じてルオは紅い服の似合うティに紅い髪留めを送る。それに校舎のティの織った紅い布がいつも見えるように、ルオは天井に板を張らなかったのは、ティをいつも、紅い服の似合うティを思い出すためでもあった。

 お互いに心が通じ合ったが、ティの母は身分が違うと恋心を諫める。そんな二人をやがて来る文化大革命の不吉な予兆が、二人の愛を引き裂くことになる。

 だが、二年の月日を乗り越えて、やがて冬の遠い町から、凍土のこの村への道をルオは辿って帰ってくる日を路傍で、寒さにふるへもせずティはひたすらに毎日待ち続けた。

 茸餃子が好きなルオがティの家で食事をする約束の日に、二人の最初の別れが訪れる。それは秋の日である。村の山々は白樺が黄金色に変わり、遠く唐松の森も黄色くなりはじめた。羊や馬の放牧された牧草も夕暮れと同調している風景に村と町を結ぶ曲がりくねった道が見える。

 その道は、小麦の穂を垂れる畑や山々の色づく森の風景に映し出され、その道が初恋がきた道であり、愛する人が辿って来た家路だ。

 その道で、少女の無垢で純情な恋の全てが映画でチャン・ツィイーは見事に演じる。その初々しい恋の輝きはどんな宝石よりもきれいで、寒村の紅一点であるその少女の服と髪留めが、映像は心情の象徴として美しさの全てとして収斂していく。

 やがて過去の恋の仄かな熱情は黒白の映像である現在へと移行し、母の願い通りに父の棺は担いで運ばれた。

 その為に36人を金で雇って運ばせる予定が、訃報を聞きつけて、100人もの過去の父の教え子たちが、その棺を担いで無事に村まで吹雪の中を運ばれたのである。遠くは広州から来た人間もいた。また雪のために間に合わなかった者も中にはいた。

 葬儀が終ると、死んだ父の念願が叶って、村に新校舎が建つこととなった。やがて廃校となる古い校舎から、ルオ先生の国語の朗読が聴こえた。

 それは、幻聴ではなかった。今では年老いたティは急いで校舎へと足を運ばせると、すると、そこには、村で初めて大学に入った自分の息子が、子供たちを集めて国語の朗読をしている最中であったのだ。




 その姿は、ティの愛する夫ルオ・・・・・・そのものであった。



 ルオ先生の墓は校舎を見下ろす裏井戸のそばに建てられた。



 ティもいずれ自分もそこに眠ることを心よりせつに願った。




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 ケッヘル番号とは、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの作品を時系列的に配列した番号のことである。モーツァルトの作品を表すために欠かせない世界共通の認識番号であり、この作業を最初に行い、出版したのがルートヴィヒ・フォン・ケッヘルである。なお、K626番はモーツアルト未完のレクイエムが最後の作品。

 『感情教育』、『白い薔薇の淵まで』、『マラケシュ心中』と、女どうしの濃密で切なくも狂おしい恋愛関係を描き続けてきた中山可穂であるが、2006年に『ケッヘル』という渾身の大作を著す。この作品は恋愛小説の枠を超えて、ヒロインの伽椰をめぐる現在と、数奇な生い立ちと壮絶な人生を、過去から現在へ、少年期の成長とともに、或るモーツァルティアンの男による二人称で語られる壮大なミステリーおよびエンターテイメント小説。

 代議士の妻である千秋との駆け落ちの末、彼女の狂気から逃れた木村伽耶は、さらに千秋の夫の復讐からも逃れるため、すべてを捨て欧州を放浪することになった。そんな或る日、ドーバー海峡に面した小さな港町カレーの浜辺で、強烈なモーツァルティアンの遠松鍵人に出逢う。

 見知らぬ他人である伽椰に、日本での住むところと仕事を提供するという鍵人は、放浪の旅に疲れ果てて、彼の申し出を訝りながらも受け、3年ぶりに帰国する。鎌倉の屋敷に住み、鍵人の経営する「アマデウス旅行社」で添乗員の仕事を始めるのだった。

 「アマデウス旅行社」は、モーツァルティアンの客だけを相手に個人旅行の添乗をするという奇妙な旅行社だった。さっそく、伽椰は、家人には内緒でウィーンで行われる旧い友人の追悼ミサに参列を望む、柳井という紳士ともにかの地に向かうが、彼は謎の死を遂げてしまう。

 それから間もなく、女から逃れるために団体旅行を装ってプラハに赴き、その地に隠遁したいという次の顧客の栗田が、ヴルタヴァ川に架かる橋に性器を切り落とされて吊るされた遺体を発見してしまう。

 さらに、彼に同行した友人の医者もベルリンで突然の心臓発作で死んでしまう。3人と同行した顧客が次々と亡くなり、そして、これらの事件は、どれもモーツァルトの楽曲に付けられた「ケッヘル番号」が関連していた。事件の背後に鍵人の影を感じはじめる伽椰。そんな中で、伽椰は、しなやかな獣を思わせる独特の官能の持ち主である日本人女性ピアニストの安藤アンナと出逢う・・・・・・。

 伽椰の物語と、時を遡って鍵人の生まれる前の未婚の母の出産から、実の父親に誘拐され西日本各地を放浪する少年時代の物語とが、入れ子状態になって語られる構成で、物語は、次第に緊迫感を増していく。

 モーツァルトに憑かれた狂気の指揮者の父と、彼を崇拝するピアニストの母との間に生まれた宿命の子の鍵人は、モーツァルトの音楽に支配された数奇な運命に翻弄されてきたのだった。鍵人の過去と事件の関連にある秘密。伽椰とアンナの行き着く運命。ケッヘル番号の謎と宿命。鍵人と伽椰の二度目の出逢いとなるパリ近郊の町シャルトルの、ノートルダム大聖堂で全ての謎が解ける。

 全篇にモーツァルトの音楽が鏤められた稀有で、壮大なドラマであり一見の価値はある異色ミステリー小説なのである。



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 ・・・・・・夢の斥候は、眠りの精ペパー軍曹、もとい!・・・サンダース軍曹です!




 中山可穂の最新刊と思われる『サイゴン・タンゴ・カフェ』を読む。この作品は数年前に角川書店より文庫化されている。著者による文庫本のあとがきをまずは掲載しておこう。


 「なぜわたしはタンゴにこれほど惹きつけらるのだろう。同じラテン音楽でもサルサやボサノヴァにはわたしの琴線は何も反応しないのに、アルゼンチンタンゴだけがわたしを一瞬にして別次元までさらってゆく。タンゴという音楽に宿命的に流れている暗い情念と狂熱が自分の血の中にも滔々と河のように流れているのを、はっきりと感じることができる。自分の心臓の律動に一番近いのはタンゴのリズムである。わたしはタンゴダンサーやバンドネオン弾きになるかわりに小説家になって、この血の中に流れているものを表現しているに過ぎないのだと思う。」


 ・・・・・・まさにボクもそう思うのである。せつない愛の物語ばかりを、情熱恋愛だけを描いてきた小説家である彼女がタンゴに魂を奪われるのは必然的なことであり、それが短編小説に五編もタンゴをテーマに編まれたのが今回の作品集なのである。


 「すぐれたタンゴの曲は、官能的なのにストイックで、どこまでいってもエレガントである。ひとつの曲のなかに光と闇があり、高揚と失墜を繰り返し、透徹した様式美に貫かれている。もともとわたしは様式美というものにたいへん弱い。そういえばタンゴの曲の構造は、世阿弥言うところの物語の基本構造である『序・破・急』のセオリーに正しく則っているように思われる。三分間のなかで緊密にドラマが展開し完結しているのだ。」


 ・・・・・・わずか短い文章のなかにタンゴ論を明解に言葉として表現し、己の小説世界を端的にも語っているところが、ボクはマンマと肯くしかないほど、この短編小説集『サイゴン・タンゴ・カフェ』を読まずにいられなくなってしまう。しかし、この麻薬のような小説は、先ほど読み終えたので、この短編小説の五つの作品を概略紹介するにとどめよう。

 まずは、「現実との三分間」から始まる。美夏は会社の転勤でブエノスアイレスに行く。そこで八尾という上司のもとで働く。この八尾は頗る仕事のできる男であるが、部下には全く人気の無い嫌な奴である。或る日、美夏はタンゴ教室でダンスを習うことにするが、タンゴ教室で八尾と出逢い、美夏は彼と踊りを通じて恋愛感情をしだいに傾けていく・・・・・・しかし、八尾は美夏に人生をおとしめるほどの裏切りをすることになる。

 次の、「フーガと神秘」は、母と娘の物語である。娘はアルゼンチンに移住してタンゴダンサーを目指す、やがてバンドネオン奏者と結婚することになり、ブエノスアイレスで行われる結婚式に母が独りで出席するのだが、娘と父親との秘密を娘から聞く事で、自分が封印していた過去の記憶と対峙することになる。それはタンゴを始めて踊ったことによる官能的な神秘であり、タンゴの魔力による禁断の扉でもあった。

 「ドブレAの悲しみ」は、ブエノスアイレスの場末の野良猫がバンドネオン奏者の老人に拾われて、老人にアストラル・ピアソラの名前を付けられて幸せな生活が始まる。やがて、アストルを飼ってたいた老人が亡くなると、同じアパートに棲む殺し屋のノーチェに飼われることになる。ノーチェは猫語が解せる男で、しかもピアソラ嫌いであるから、アストルをアニバル・トロイロの名前に変える。アパートの住人はこの猫を、アストルのA、アニバルのAから、ドブレ(ダブル)Aと呼ぶことになる。猫による一人称で語られる人間の悲劇をタンゴで奏でた作品。

 「バンドネオンを弾く女」は現代の日本における状況を描くことで、本編のなかで一番庶民的な雰囲気と可笑しさをたたえている。今、テレビでドラマ化するならば面白いと思える物語構造ではないだろうか。夫の浮気相手とサイゴンに旅をする主婦の物語なのであるが、もちろん、ここにもタンゴというテーマは結末に隠されている。

 さて表題作でもある最後の「サイゴン・タンゴ・カフェ」は、タンゴの国から遠く離れたインドシナ半島の片隅の迷路のような場末の一画にそのカフェは、・・・あった。主人はタンゴに取り憑かれた国籍も年齢も不詳の老嬢。しかし東京から取材で訪れた孝子はその正体が、もう20年も沈黙を守り、行方知れずとなった異色の恋愛小説作家・津田穂波ではないかと疑う。彼女の重い口から語られた長い長い恋の話とは……

 この「サイゴン・タンゴ・カフェ」は、中山可穂の代表作にして、2001年に第14回山本周五郎賞を受賞した『白い薔薇の淵まで』に登場するヒロインの塁が、もしもアジアの辺境で死なずに、もしも生きていたら・・・・・・という設定で書かれたとも想像できるであろう小説。

 中山可穂の作品でも、謎めいて、猫好きで、ジャン・ジュネの再来ともいわれた小説家の塁は、彼女の作品では最も魅力的な女性であり、愛さずにいられない哀しい存在であった。それがサイゴンで老女として、亡霊として再登場したのがこの作品といえるかも知れない。




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高純度の恋愛小説

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 戦場のミンストレルこと、夢の斥候はサンダース軍曹です♪




 現代の日本で高純度の恋愛小説を発表して、それも女と女の恋愛だけをテーマに連作している中山可穂の作品のなかで、『白い薔薇の淵まで』は彼女の一連の恋愛小説の傑作であろうし、この著作は第14回山本周五郎賞を受賞したこともあり、同性愛という偏見を越えて世間からも認知された文学作品である。


 中山可穂は1960年、愛知県名古屋市に生まれる。早稲田大学教育学部英語英文科卒業。大学卒業後に劇団を主宰、作・演出・役者をこなすも、のちに解散となる。この劇団での出来事を小説化した1993年に、マガジンハウスへ持ち込んだ『猫背の王子』でデビュー。


『猫背の王子』の続編である1995年に『天使の骨』で第6回朝日新人文学賞を受賞。2001年、『白い薔薇の淵まで』で第14回山本周五郎賞を受賞。2002年『花伽藍』が第127回直木三十五賞候補作品となる。


 『猫背の王子』は芝居に情熱の全てをかける王子ミチルのとその主催する劇団の物語である。またミチルは女から女へと淫蕩なほどに性的な関係も精力的に構築しながら、ミチルの小劇団での公演により女性のファンたちに夢幻的な熱狂も巻き起こす女優でもあった。

 そんなミチルの劇団が信頼していた仲間の裏切りにより解散するまでの経緯が、中山可穂の自伝的な要素を交えながら物語は展開する。彼女は公私ともに同性愛者であることも肯定していて、恋愛小説のほとんどは女と女の愛の物語になっている。


 このミチルの青春物語は続編の『天使の骨』では、青春のエネルギーをほぼ傾注していた演劇の挫折から、ヨーロッパへの放浪と彷徨の日々と、パリで回り逢う小劇団の日本人女優との恋愛譚となる。やはり事実として世界各地を若き日にさ迷い歩いた経験が小説に反映しているようだ。


 この中山可穂の体験としてのアジアからヨーロッパそしてアフリカへの放浪と彷徨は、『白い薔薇の淵まで』のアジアへの探索紀行、『マラケシュ心中』でのアフリカへの逃避紀行で、小説世界に共通するもうひとつの大きな要素となっている。


 2000年に発表された『感情教育』では女と女の情熱恋愛のテーマが高純度に輝きをみせはじめてくる。ひとりの女は逆境に生まれつく。産院で産み落とされた赤ん坊を母親は見捨てて消える。3歳の時に孤児院から養女として建具職人に育てられたが、養父は酒乱で、その家を早く出ることばかり考えて育った。


 専門学校を卒業すると、内装会社のデザイン部に就職し、店舗や飲食店などの内装のデザインや施工の監理をした。仕事を通じて知り合った異性と結婚して、傍目には幸福そうな家庭を築く。一女にも恵まれて、その娘を溺愛した。そして彼女は一級建築士を目指して生活していた。


 もうひとりの女もやはり逆境に生まれつく。父親は自分の子供を祖父母から連れ出して、遊園地に置き去りにして、母親の祖父母から金を巻き上げるような人でなし。母は男と酒に溺れるような生活をして、子供をヤクザの親分に預けたり、寺の住職である祖父母に預けたままでも平気な女であった。


 やがて演劇を学びたいと東京の私立大学を志望するために母親のパトロンに学費を支援してもらい、上京して入学するや学生仲間と劇団活動に情熱を燃やす。劇団が解散するとフリーランスのライターとなって、忙しく仕事をこなす日々がはじまる。その取材中に、自分と同じような逆境に育った相手と出逢うことになる。


 そして、このふたりは、出逢って、恋におちる。やがて、激しく愛は燃え上がると、ひとりの女の幸福な家庭にひびが入る。・・・・・・この小説でもひとりの女が自伝的要素で登場する。このフリーランスのライターもレスビアンであり、もうひとりの女は最初は同性愛者ではない既婚者である。この既婚者が同性愛の恋愛に傾くことで幸福な家庭が崩壊するが、逆境の過去と対峙する物語になるのが、この小説の展開である。


 『白い薔薇の淵まで』は主人公は婚約者がいるキャリアウーマンである、だが、或る日、ジャン・ジュネの再来とまで呼ばれた新人女流作家の塁と出逢い、平凡なOLが破滅的な恋におちる。幾度も修羅場を繰り返しては、別れてはまた甘美な性愛に溺れ求め合い破滅に向っていく極限の愛の物語である。この中山可穂の高純度な恋愛小説は極限まで昇華していく。


 『マラケシュ心中』は心中に至るのは男女だが、物語の軸は既婚者の女性が女流歌人に抱くプラトニックな愛が、やがて性愛として結ばれるまでの試練にみちた愛の彷徨のドラマである。



 いずれも100%恋愛小説の完成品として読めること間違いない。中山可穂の『感情教育』、『白い薔薇の淵まで』、『マラケシュ心中』は代表的な恋愛三部作である。





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