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外敵が侵入したのではなく、自分の体の中でテロリストが急増して暴れる、それだけに始末に負えない、国内では年間の新規患者が100名と言う珍しい難病に罹患した筆者、その覚悟。

「男性社会の中で、常に厳しい生存競争の物差しをあてられ、意識的に頑張っていた。
病気になって、そこから自由になれた気がします。
死を実感するような体験に比べれば、すべてが小さなことにも思えてきました。」

「宅の机に「仕事の三か条」を掲げた。
①共同での仕事はしない。
②外に出かける仕事はしない。
③締め切りのある仕事はしない。」

 
(政治季評)「皆は一人のために」 新時代デモに精神宿れ 豊永郁子

多数決で何でもできると思ったら大間違いだ。18世紀フランスの哲学者ルソーは面白いことを言っている。多数決が有効なのは、そう決める全会一致の合意が先行的に存在するからだ、と。ということは、多数決で決められることがらも、この合意による制限を受けるはずだ。
 ルソーは、文明社会の礎には、こうした原初的な、全ての成員が同意した「社会契約」があると考える。社会契約の目的を縷々(るる)論じたのが17世紀英国の哲学者ロックとすれば、ルソーは社会契約が意味する人々の結合のあり方に関心を寄せた。社会契約によって人々はどのような関係に入るのか。
 ルソーにおいて、社会契約は、自然状態では独力で生きていた個人が、生存の前に立ちはだかる障害を克服できない局面に達したとき、複数名で集まり、障害を乗り越えるに足る大きな力を共同でもつことを約束しあうことである。この力は、個人が提供する力の総和でしかあり得ない。しかし個人の力と自由とは、個人の重要な生存の手段である。では、個人がいささかの不利益も被らないかたちで、こうした共同の力をつくることは可能か、とルソーは問う。
     *
 問題はこう言い換えられる。「共同の力の全てをあげて各自が守られるような」、「各自が自分自身にしか従わず、以前と同じように自由であるような」結合の形態があるのか。
 ルソーは、こうした結合を、各自がその一身と全ての権利を共同体全体に譲渡する社会契約が可能にするという。そこでは、各自は全員に自分を与えるのだから特定の誰にも自分を与えずに済み、権利を渡した全員から同じ権利を獲得する。そして全員の力で守られる。
 難しく聞こえるが、この結合の精神を簡明に言い表したモットーがある。「一人は皆のために、皆は一人のために」だ。日本ではラガーマンの標語として知られるが、元は、19世紀フランスの文豪デュマが生み出したヒーロー、三銃士とダルタニアンの合言葉として有名だ。この言葉の最も古い記録は、30年戦争(1618〜48年)前夜に、ボヘミアのプロテスタントが出した声明文にさかのぼる。今日ではこの言葉はスイスの国是にもなっている。
 もっとも日本では、前半部には強く共感するが後半部がピンとこないという向きが多いようだ。一人が多数者のために犠牲となることをよしとする土壌ではそうなるのかもしれない。そもそもルソーにしても、個人は自らの全てを共同体に差し出し、共同体の「一般意志」に従うとする論から、全体主義の思想家と誤解されることがしばしばだ。
 しかし重要なのは、「皆は一人のために」だ。ルソーで言えば、共同の力の全てをあげて個人を守ること。「一般意志」の中身も、この条件に限定される。
 一人のために全員が立ち上がりリスクを冒す。一人を助けるために全員が犠牲を払うことを厭(いと)わない。ルソーによれば、このコミットメントがあるからこそ、社会は成立する。
     *
 例えばいじめの場合のように、全員が一人を「見殺し」にすることがまかり通る状態は、社会契約のある状態とはかけ離れているのだろう。2009年、当時の鳩山由紀夫首相は、フランス共和国の理想である「自由、平等、友愛」の「友愛」を政権のテーマとした。しかし「友愛」(または「連帯」)は、共通の大義やお互いへの好感情だけでは成立しない。一人のために立ち上がる覚悟を必要とする。当時、この点が理解されることはなかったように思う。
 その後、縁あって、個人主義的だが連帯好きというフランスの人々の間で暮らす機会を得た。彼らの日常に溶け込んでいるのが、マニフェスタシオン(日本語でいうデモ)だ。フランスでは大小さまざまなマニフェスタシオンが頻々と起こる。人々はこれに参加し、これを好んで話題にする。そもそもデモは、大義を広めるにも権力者の行動を変えるにも、効率的な手段ではない。しかしフランスの人々は、これを第一義的には、ある立場の個人(ともにデモに集う個人はもちろん、どこか遠くで何かを主張したり苦しんだりしている個人であったりもする)を、体を張って皆で守ろうとする実践として捉えているようだ。
 時間や労力などのコスト、自己の立場を示すことのリスク、弾圧やテロなどの暴力にさらされる危険――こうした不利益を度外視して、他人を思って(他人に「連帯」して)参集する、それがマニフェスタシオンの醍醐味(だいごみ)のようだ。そして、これに参加すること、これを見ることで、人々は社会契約の存在を確認し続ける。
 日本では、東日本大震災以降、デモへの関心が高まり、幅広い市民層がデモに参加するようになった。2015年の安保法案反対デモが、国会周辺に10万もの群衆を集め、参加者の多様さでも目を引いたことは記憶に新しい。個々のデモの成否はともかく(実際、それは国会や選挙が形成する「多数派」に易々(やすやす)と打ち砕かれることが多いだろう)、こうした新時代のデモに、社会契約の精神が宿ることを期待したい。
     ◇
 とよなが・いくこ 専門は政治学。早稲田大学教授。著書に「新版 サッチャリズムの世紀」「新保守主義の作用」。
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教誨師とは、拘置された死刑囚と唯一面接できる民間人である。面接を望む死刑囚と対話し、ときに悔悟を促し、教え導く役割を負う。そしてさらに、面接を続けた死刑囚の刑の執行にも立ち会うという、過酷な任務でもある。
無報酬の「仕事」であり、多くの場合、牧師や僧侶など宗教家が、その役割を担う。そんな過酷な仕事をタダで誰がやるのか、と疑問が起こるが、宗教家にとって「教誨師」という肩書は「まことに美しい響きを持っている」そう。新興宗教もある程度組織が整うと教誨活動を申し出るのだという。
ただし、本書に登場する教誨師、浄土真宗の僧侶である渡邉普相は、そんな肩書に惹かれて教誨師になったわけではない。昭和30年代、浄土真宗の世界では知る人ぞ知る、型破りな僧侶であった篠田龍雄という教誨師に、自分の仕事を継いでほしいと言われたのだ。広島で被爆して多くの死を目の当たりにし、その後売春婦救済の社会貢献活動に取り組みたいと思っていた渡邉は、篠田から教誨師の仕事について聞き、「ああっ、これだ!」と思ったという。そしてまだ20代の若さで教誨師となり、半世紀にわたって多くの死刑囚と対話することになる。
本書ではまず幾人もの死刑囚の生の声が再現される。
例えば、収監中、酒飲みたさにバールで看守を殺して脱獄した山本勝美(仮名)は、渡邉との対話を通じて親鸞の「悪人正機」に触れ、人が変わったように熱心に経典を学び、他の死刑囚にも仏道を説くようになる。
あるいは昭和24年、国鉄三鷹駅で無人の電車が暴走、転覆し6人が死亡した「三鷹事件」の犯人とされた竹内景助。9名の共産党員と、非共産党員の竹内が逮捕され、共産党員は全員無罪、竹内だけが死刑となったが、渡邉はその竹内ともよく対話した。

冤罪が濃厚と言われている竹内も、浄土真宗の教えに真摯に向き合い、写経や書は芸術作品の域だったという。武内の渡邉への信頼は厚く、美しい書の数々を預けたばかりでなく、独房内の仕事で得られた報酬さえ、直接妻に渡さず、渡邉に託した。竹内の妻には共産党の事務局長が付き添っており、その報酬が支援費用の名目で共産党に横取りされるのではないかと疑っていたからだ。
竹内の再審請求補充書によれば、「共産党系の弁護士に、罪を認めても大した刑にはならない、必ず近いうちに人民政府が樹立される、ひとりで罪を認めて他の共産党員を助ければ、あなたは英雄になれると説得された」そうで、それゆえ竹内は共産党を嫌っていたのである。
旅館の乗っ取りを画策して経営者と肉体関係を持ち、別の男に経営者の妻を殺させたうえ、その後経営者も殺させた「ホテル日本閣殺人事件」の犯人・小林カウは、当初、一方的に愚痴をぶちまけていたが、やがて如来像を飾り、毎朝30分「正信念仏偈」をあげるようになった。看守たちも驚いたそうだが、彼女は別に聖女に変貌したわけではない。自分は死刑にならないと思い込み、釈放後の生活設計さえ考えるようになる。養老院を経営する計画を立て、日々の業務でいくら利益が上がるかを1円単位まで計算して渡邉に披露した。渡邉も、小林の求めに応じて、苦笑しつつも養老院のパンフレットを差し入れたりもしたという。
他にも、ひらがなさえ書けず、極度に気の弱い強姦殺人犯・木内三郎や、幼い時からひどい境遇で育ち、自分を捨てた母親を困らせるためだけに、世話になった施設の老守衛を殺した横田光男、快楽のため2人の女を猟奇的に殺して捕まり、さらに3人を殺害したことを渡邉に告白した白木雄一(いずれも仮名。尚、白木による3人の殺害については、詳細な告白があるにもかかわらず、警察は「刑の執行を遅らせるための、死刑囚の方便」として再捜査を行わず、大手マスコミも無視を決め込んだ)など、渡邉と死刑囚らのリアルな対話が再現されたのち、今度は彼らの死刑執行の場面が描写される(ただし竹内景助は脳腫瘍で病死)。
読者は、著者が活写した渡邉と死刑囚の対話を読み、死刑囚個人の人となりを想像できるようになっている。それゆえ、死刑執行の場面の記述は自然に冷や汗が湧いてくるほど重い。死刑囚それぞれで違う、死の直前のふるまい。緊張する刑務官たち。読経の響き。そして死刑囚の足元の踏み板が、バッターンと轟音を立ててはずれ、首に巻かれたロープがギッシギッシと音を立てるさま。酷い犯罪を犯した死刑囚とはいえ、克明に記述されたその場面からは、一個の人間の死の重みが、ずっしりと迫ってくるのだ。
さて、ここまででも本書はまさに第一級のノンフィクションである。しかし実は、本書はその先がさらに素晴らしいのである。
死刑囚たちと対話し、時に心を通わせる。渡邉を兄のように慕う死刑囚たちもいる。そして、そのあげくに、彼らが殺される瞬間に立ち会う。そんなあまりに過酷な任務のせいか、渡邉はアルコール依存症になってしまう(ただし、渡邉本人は、ストレスのせいではなく、あくまで酒の味が好きだからやめられなくなった、と主張する。その頑固さも渡邉らしいところだ)。だが逆に、酒があったおかげで、本当におかしくならずに済んだのかもしれない、と著者は言う。そしてその酒が思わぬ形で、渡邉と死刑囚たちをつなげるのだ。
渡邉は入院し、ときに死刑囚の独房さながらの「保護室」に入ることもあったが、それでも病院から拘置所に通い、教誨活動を続ける。当初、渡邉は「教誨師が『アル中』じゃ、決まりが悪い」と秘密にしていた。しかし苦しい断酒との戦いのために死刑囚との面接に行けないときなど、彼らに嘘をつかねばならず、その嘘を隠すため、さらに嘘を重ねることに疲れてしまう。「楽になりたい」。そう思い、とうとう、死刑囚たちに告白するのだ。
「実はわっし、今、"アル中"で病院に入っとるんじゃ。酒がやめられんでね。たびたび面接も休んでしもうて、申し訳ないことですな」
かつて覚醒剤中毒に苦しんだ、ある死刑囚はそれを聞いてこう言う。
「先生、あんたもか! それは苦しいだろう、分かるよ。覚醒剤も酒も同じだ。(中略)自分で止めるしかありませんよ」
教誨師である渡邉と死刑囚たちの関係性が一変した瞬間である。この先の描写はまるで奇跡のようで、陳腐な表現で申し訳ないが、思わず目頭が熱くなった。
面接の際、自らの死を意識するゆえ、死刑囚たちは、全身の神経を尖らせ、極めて鋭敏に相手に対する。それに真っ正直に向き合うとき、立場や肩書を超えた一個の人間同士の関係性が生まれるのだ。「死刑囚と教誨師との対話」という特異なストーリーが、普遍的な人間関係に転化していくさまは本当に感動的だ。
実は渡邉はすでにこの世にない。「この話は、わしが死んでから世に出してくださいの」という渡邉の希望どおり、彼の死後、著者は自分に託された渡邉の経験と思いとを、見事にひとつの作品にまとめあげたのだ。真摯に誠実に人と向き合い、人間そのものに迫ってきた著者だからこそ書けた、傑作ノンフィクションである。 
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「私は若いころ、母に『なぜ戦争は起こったの? 反対はできなかったの?』と質問したことがあるのです。
 そしたら母は、ひと言『言えなかったのよ……』って。言えないってどういうことなんだろうと、その時には理解できなかった。けれど最近、母の言っていた意味がわかります。今の世の中を見ていると息苦しい感じがして」

 たしかに、吉永さんの言う「世の中の息苦しい感じ」は、確実に戦前のそれを彷彿とさせるものだ。それは、吉永さんが身を置く表現芸術の世界にも浸透している。この8月、東京・東池袋の新文芸坐では「反戦・反核映画祭」と題して、21日までの期間中、戦争や原爆の実態を描いた日本映画約30本を上映するが、劇場支配人はマスコミの取材に対し「反戦・反核という言葉を使うことにも勇気がいるような、嫌なムードになってきています」と語っています。    「中日新聞参照」
僕が生まれ育った浅草は、江戸時代に今でいうホームレスらが集まってきた下町。生家は弾左衛門(だんざえもん)の縄張りのお寺でした。いわゆる被差別部落も近くにある環境でしたが、僕が直接に部落問題と出会ったのは、国民学校四年生で信州・小諸に疎開した時。
僕たち疎開児童もいじめられたけど、同じ集落の中に部落の地域があり、そこにはあからさまな差別があったのね。その地域だけ電気がついていなくてランプで生活していたし、学校での子どもたちの扱いにも差があった。僕は「なぜ?」と思ったけど、親と離れて暮らす自分も辛いものだから、他人に思いを寄せることはまだ出来なかった。でも、中学に入る前にその小諸が舞台の『破戒』(島崎藤村)を読んで、なんと理不尽なと思った覚えは確かにありますね。 だって、人間が、同じ人間を区別し差別するのは、とてもおかしなことじゃないですか。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と素晴らしい言葉が綴られた水平社宣言を読んで、その一字一句に感動を覚えたのは、もう少し長じてからのことです。
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水平社宣言の草稿を書かれた西光万吉(さいこうまんきち)さんの和歌山のお宅に、僕はそうとは知らずに何度も伺ったことがあるんです。
1968年、朝日新聞に明治以降の芸能百年史についての連載をしていた時、東京で旗揚げして失敗した沢田正二郎新国劇が、なぜ大阪で成功したのか知りたくて。担当記者の方に、その辺のことは和歌山の西光さんという方が詳しいと聞いたから、お訪ねしたんです。いつもバス停まで迎えに来てくださるその方は、身振り手振りを交えて情熱的に教えてくださる、親切なおじいさんだった。
http://www.jinken.ne.jp/buraku/ei/img/ei01_2.jpg
同じ頃コンサートで京都に行った時、現在の京都会館の敷地で、偶然、全国水平社創立記念の石碑を見たんです。そこに、西光万吉の名前が書かれていた。僕が通 っている人と同じだなあ、もしやと思って、次に西光さんのところに行った時、「ひょっとしてあなたは、水平社宣言をお書きになった先生ですか」と聞いたんです。すると、とても困惑した顔をされた。それが忘れられません。

その時に出てきたのが、自分は芝居の本を書いているという話。
「この本が芝居にならないだろうか」
と、『戯曲 澤村辰之助』の原稿をお出しになられたんです。

幕末から明治にかけて一世を風靡した、女形歌舞伎役者・3代目澤村田之助(さわむらたのすけ)がモデルで、脱疽症になり、両足、両手を失っても舞台に上がり続けたというストーリー。右足を切り落とした時『七夕心中』のきれいな芸妓役、左足をなくした時『紅蓮』の火定に入る尼さん役をし、両足と右手がなくなってからは、羅生門で武士に
http://www.jinken.ne.jp/buraku/ei/img/ei01_3.jpg切り取られた腕を取り戻しに来る時に化けた老婆役、そして両手両足がなくなり達磨になった最後は、芸道精進の美しい蛇になって清姫をつとめたという粗筋でした。手足のない体に人形の手足をつけて踊る姿は、芸への執念そのもので、見る人はその壮絶さに思わず目を伏せた、と。西光さんは、手足を切断したように見えるような演技はこうすればいいと、演出プランまで考えてらして、僕はその打ち込み方にも感動しました。
さっそく、演劇関係者らに上演できないかとかけあったりしたんですが、「人権問題」の枠で考えると障害を見世物のようにすることはいけないと、残念ながら舞台化は実現しなかった。幸い、その後出版されましたが。






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