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◇江戸一番の蘭学者 「いよいよ、これまでの蘭学修行が世の中の役に立つときがきた!」 諭吉は、江戸に蘭学塾を開いたのです。 25歳の諭吉の胸に、教育への熱い情熱がふつふつと湧きあがります。 塾生に教えながら、自分自身もますます熱心に勉強に取り組む諭吉。 この蘭学熟が発展し、のちの慶應義塾大学となるのです。 ある時、先輩を訪ねました。 「諭吉君、江戸の蘭学者に聞いても、分からないんだ。ここのところだが・・」 「うーーん。確かにむずかしい」 しばらく考え込んでいた諭吉ですが、 「そうか!こう訳せばいいんですよ」 「なるほど、キミのオランダ語の力はすごい。江戸にキミ以上のものはいないだろう」 諭吉の蘭学塾は、江戸一番と評判になり、塾生の数も次第に増えていきました。 ◇独力で英語を学ぶ ところが、諭吉の自信がいっぺんに崩れる事件が起きました。 外国との貿易が始まり、大賑わいだという横浜の噂を耳にした諭吉。 「横浜の様子を見てこよう。オランダ語の腕試しにもいい機会だ」 そう思い立つと、さっそく横浜見物に向かいました。 しかし、何ということでしょう。 店の看板も、商品の張り紙も、全く読めないのです。 オランダ語は通じないし、第一どこの国の言葉なのかも分かりません。 「どうなっているんだ!?」 江戸へ戻った諭吉は、今まで必死に勉強したオランダ語が、 全く役に立たなかったことが残念でたまりません。 しかし、その言葉が英語だと分かると、 「これからは英語でなければダメなんだ!よし、一からやり直しだ」 新たな志を立てて、英語を学びなおす決心をするのでした。 とは言うものの、当時英語を教えてくれるところなど、どこにもありませんでした。 しかし、そんなことで諦める諭吉ではありません。 自分の力で英語の勉強をしようと、覚悟を決めました。 それからは、昼間は蘭学を教え、夜になると、 英蘭辞書を片手に、明け方まで英語の勉強に没頭する毎日が続きました。 二年が過ぎ、連日の猛勉強によって、諭吉の英語はずいぶんと上達しました。 ◇アメリカで見た自由で平等な社会 1860年、諭吉はアメリカ行きのチャンスを掴みます。 アメリカと条約を結ぶための使節団を乗せた日本の船「咸臨丸」が、 初めて太平洋を横断し、アメリカに向かうというのです。 「一度でいいから、自分の目でアメリカを見てみたい!」 諭吉は、「何とか連れて行ってもらえないか」と、 使節代表の木村摂津守に、熱心に願い出たのでした。 こうして、27歳にして、諭吉はアメリカへと渡りました。 サンフランシスコに着いた諭吉は、本の世界でしか知らなかったアメリカの様子に驚くばかり。 電信をはじめ、さまざまな進んだ技術。 そして、何よりも、だれもが自由に話し合える平等な社会に感激するのでした。 ◇世界の進んだ文化を『西洋事情』にあらわす そんな諭吉に、二度目の外国生きのチャンスがめぐって来ました。 英語の力を認められて、今度はヨーロッパ使節の一行に、通訳として加わることになったのでした。 1862年、諭吉たち使節団は、フランス、イギリス、オランダ、ドイツ、ロシアなど、 ヨーロッパ諸国を一年近くかけて回り、西洋の文化からあらゆることを学んで帰って来ました。 「文明国とは、どんなものか。 日本を本当に自由な国にするためには、外国の様子を多くの日本人に知らせなければならない」 諭吉は、アメリカやヨーロッパ諸国で見聞したことを、 1866年、『西洋事情』という本にまとめて出版しました。 『西洋事情』は売れに売れて、堂々たるベストセラーとなりました。 都でも村でも、大人気です。 実際の西洋文明を紹介したこの本は、当時の世の中に大きな影響を与えました。 これを読んだ多くの人が日本のあり方を真剣に考えはじめたのでした。 翌1867年、諭吉は再び使節団の一行としてアメリカに渡っています。 文明国を目指すべく、日本の将来に思いを向けていく諭吉でした。 (つづく) |
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2008/5/19(月) 午後 3:43 [ oh16048 ]