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● 散歩が大好きだったベートーベンは、美しい景色を眺め、 曲のアイデアが浮かぶと、すぐに書き留めていました。 そのスケッチは7000枚を超えています。 ● ベートーベンは耳が聞こえなくなっても、弦楽奏者の弓の動きを食い入るように見つめ、 ほんのわずかなミスにもすぐに気付いて、それを正すことができました。 ● ベートーベンは交響曲第5番『運命』のような力強い曲だけでなく、 交響曲第6番『田園』やバイオリンソナタ第5番『春』のように、 神様の愛や自然の美しさを表した、やさしく伸びやかな曲もたくさん作りました。 ● 53才のときに発表した交響曲第9番は、舞台上に 80人のオーケストラと100人の合唱者が並ぶという、 今までにないスタイルで演奏されました。 曲の素晴らしさと新しいアイデアが、人々の心をつかみました。 ● ベートーベンの葬儀の日は、ウィーンの学校がすべて休みになって、 2万人を超える人々が葬儀の列にならんで彼を見送りました。 |
とっておきの『偉人伝』
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ルートヴィヒ・バン・ベートーベンは、 音楽家として成功し始めた矢先に、耳が聞こえなくなってしまいます。 彼は絶望の中から自分の使命をつかみ取り、 力強く、すばらしい音楽を次々と生み出していきます。 ◇苦しみと孤独の中で 1798年、音楽の都ウィーン。 若きベートーベンは、音楽家として有名になってきたのに、 耳が聞こえないという苦しみの中にいました。 「やあ、ベートーベン、元気かい?」 「・・・・・・・」 「返事もしないで、気むずかしい男だなあ」 友人の声も、ベートーベンには聞こえません。 耳が悪いことを知られたくなかったベートーベンは、 しだいに人付き合いを避けるようになっていきました。 ♪ バン! バン!ガァ〜〜〜〜ン! 「強く叩いてもピアノが聞こえない!私の耳はどうなってしまったんだ!」 彼の心は、苦しみと孤独で押しつぶされそうになっていました。 ◇天国の音楽が聞こえる! 「私の音楽家としての道は、このまま閉ざされてしまうのか・・・・・」 ある晩、ベートーベンは教会で深い祈りを捧げていました。 すると、心の奥からかすかな音が聞こえてきたのです。 「美しい音色だ・・・・・・。まるで天国にいるみたいだ!」 心の中で美しい音楽が鳴り響きます。 「------耳が聞こえなくても、私の心の音楽は、決して止むことはない・・・・・!」 彼の心に、希望の灯がともりました。 「神は天国の音楽を地上に伝えるために、私をつくられたに違いない。 運命に打ち克ち、力強く生き抜いてみせよう!」 窓の外はいつの間にか明るくなり、彼に夜明けのおとずれを告げていました。 ◇運命を乗り越える それからのベートーベンは、以前にも増す勢いで、 多くの交響曲やピアノ曲、歌劇などを次々と作曲していきました。 ♪♪ ダダダ、ダーン♪ ダダダ、ダーン♪ 「これは運命が扉を叩く音だよ。 人には、つらい運命を乗り越える力が与えられている。私は、それを伝えたいんだ」 彼の曲は、今までにない力強さと美しさにあふれ、人々の心をつかみます。 「ベートーベンの曲を聞いていたら、なんだか勇気が湧いてきたよ!」 みんながベートーベンの新曲を心待ちにしています。 彼は再び、人々に大きな感動を与える音楽家として、活躍するようになっていったのです。 ◇聞こえなかった大歓声 53才になったベートーベンは、新しいスタイルの演奏会を開きました。 指揮棒をにぎるベートーベン。 横には補助をする指揮者がいます。 人々は、壮大な交響曲に聞き入りました。 そして-----------。 ------ジャーン! 演奏が終わりました。 ------シーン・・・・・・ ≪ みんなの反応はどうだろう? ≫ ベートーベンの耳には、何の音も聞こえません。 すると、ある女性歌手が彼の手をとり、客席に向かせてくれたのです。 ワーーー!ワーー!! パチパチパチ!! 彼の目に飛び込んで北のは、立ち上がり拍手する人々の姿でした。 会場は、感動と大歓声にあふれていました。 ◇人々に大きな光を残して 音楽に人生のすべてを捧げたベートーベンは、 56才の時に重い病気にかかってしまいます。 それを知った友人やファンが、次々と彼を訪れました。 「お見舞いに来てくれてありがとう。あなたが幸せでありますように・・・・・」 彼は人々を温かくむかえ、一人ひとりに感謝と別れを告げました。 カラ〜ン・・・ カラ〜ン・・・ 教会の鐘の音が悲しげに響く中、彼の葬儀は国をあげて行なわれました。 誰もが、天才音楽家の死を惜しみました。 「人生の苦難を乗り越える力と、神の世界の素晴らしさを音楽で伝えたい」 彼の願いは今も、この地上に美しい音色となって響き続けています。 |
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● ベートーベンは気むずかしい性格だったと言われていますが、 本当は人と付き合うのが大好きな、心のやさしい人でした。 ● ベートーベンは、小さい頃から作曲をしていました。 曲のすばらしさが認められ、11歳のときに、ピアノ曲の楽譜を出版しています。 ● モーツァルト(1756〜1791年)は、最も有名な作曲家の一人であり、 ベートーベン、ハイドン(1732〜1809年)と並んでウィーンの古典派三巨匠と呼ばれています。 ● ベートーベンは、自分の作品に番号をつけて、きちんと整理していました。 当時の作曲家にはめずらしことで、それ以来、 自分の作品に番号を付ける音楽家が増えたといいます。 ● ベートーベンは、とても勉強熱心でした。 ゲーテやシェイクスピアの文学やカントの哲学などを自分から学び、 教養人としても知られていました。 |
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ルートヴィヒ・バン・ベートーベンは、「運命」など、 誰もが聴いたことのある有名な曲を、数多く作った偉大な作曲家です。 幼い頃から音楽の勉強を重ね苦しい環境を乗り越え、成功していくベートーベン。 しかし、音楽を何よりも愛する彼に、大きな困難が襲いかかります。 ◇厳しいレッスン 今から230年程前のドイツ。 ボンという町にある、古びたアパートの窓から、ピアノの音が聞こえてきます。 タタン〜♪タタ〜♪♪ 「だめだ!もう一度やり直し!」 お父さんに、厳しくピアノを教えられている4歳の男の子が、ベートーベンです。 ベートーベンは、毎日毎日、何時間もピアノを弾きました。 時には、寝ているところをお父さんに起こされて、練習することもありました。 <レッスンは大変だけど、音楽って楽しいなぁ〜。もっとピアノが上手に弾けるように頑張ろう!> ベートーベンは、一生懸命レッスンを続けるのでした。 ◇11歳のオルガニスト ベートーベンは、10歳の時に、ある音楽家の弟子になりました。 ある日、彼は、何やら困っている先生を見かけました。 「うーん。私が外国へ行っている間、オルガン奏者を誰に頼もうか・・」 「どうしたんですか、先生?」 「そうだ、キミに頼もう!キミが一番うまく演奏できるからね!」 ベートーベンはわずか11歳で、 先生の代わりに、宮廷楽団のオルガニストとして演奏することになり、 13歳からは、正式に宮廷音楽家として働くようになりました。 そして、16歳のときのことです。 「キミもウィーンに行って、才能ある音楽家たちの中で勉強してはどうかね」 先生にそう勧められたのです。 ◇モーツァルトとの出会い ウィーンに行ったベートーベンは、モーツァルトに会いに行きました。 そして、自分の演奏を聞いてもらいました。 「キミはたしかに上手だけれど、練習すればそれくらい誰でも弾けますよ」 「それでは、別の曲を弾きます!」 ベートーベンは、モーツァルトが示した短いメロディから曲を作り、その場で弾いてみせました。 ♪♪ターン、タラララ〜♪ ♪ 「すばらしい!キミは今に世間をアッと言わせる作曲家になるだろう!」 モーツァルトに褒められて、ベートーベンは大感激! <必ず大作曲家になろう!>と、心に誓いました。 しかし、喜びも束の間、悲しい知らせが届きます。 ◇再びウィーンへ お母さんが病気で倒れ、ベートーベンはたった2週間で、ボンに帰ることになったのです。 しばらくしてお母さんは、亡くなってしまいます。 その上、お父さんはお酒の飲み過ぎで仕事を失ってしまいました。 ベートーベンは、楽団員やピアノの先生として働き、 家族の生活を支えながら、コツコツと作曲を続けました。 そして、5年の歳月が過ぎ、21歳のベートーベンは、 有名なハイドンに自分の曲を見てもらえることになります。 「なかなかよい曲だ。私の弟子になりたいのなら、ウィーンへいらしゃい」 「ありがとうございます!」 ベートーベンは新しいチャンスに、とてもわくわくしました。 ◇耳が聞こえない! 再びウィーンに行ったベートーベンは、ハイドンや他の音楽家のレッスンを受けて、 どんどん上達していきます。 そして、音楽好きの貴族に招かれて、演奏するようにもなりました。 「ベートーベンの演奏を聞いたかい?」 「ああ。あんなに美しくて迫力のある曲を聞いたの初めてだよ」 彼の評判は、どんどん高まっていきました。 しかし、27歳のころ・・・・・ ザワザワ・・・ザワザワザワ・・・ 「何だろう?耳の奥でヘンな音がする」 心から愛するピアノの音がよく聞こえません。 「なんてことだ!耳が聞こえないなんて!」 (つづく) |
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● 疎石は67才の時に、『夢中問答集』という本を出版しています。 当時、著者が生きているうちに作品が出版されるのは、大変珍しいことでした。 ● 疎石の素晴らしさに心から感動した尊氏は、 自分の一族は末代まで疎石に帰依する、という決まり作りました。 ● 日本から刀や銅を輸出し、中国から生糸や絹織物などを輸入したこの貿易は、 日本と中国の文化交流に大きく貢献しました。 ● 疎石は数々の美しい庭園を造ったことでも有名です。 京都の有名な金閣寺と銀閣寺は、疎石が造った西方時の庭園をモデルとして造られました。 ● 疎石は、天皇や上皇から、七つの称号を贈られ、 「七朝国師」と呼ばれて大変尊敬されました。 称号を七つも贈られた人は、歴史上、疎石だけです。 |




