人間は、この世に生まれ、育ち、親になり、 死んで、この世を去っていくわけですが、それは、 大きな目で見れば、ちょうど植物の葉っぱのようなものなのです。 木は、冬の間は枯れていて、 全く兆候がないのに、春先になると芽吹いてきます。 芽吹いたかと思うと、4月、5月に、パーっと若葉が出てきます。 さらに、6月、7月には、たくさん葉っぱが茂ってきます。 雨をたくさん吸収し、炭酸同化をして、 栄養を木の幹のなかに取り入れていきます。 そして、秋になると、葉っぱは変色し、赤くなり黄色くなって散っていきます。 人生というものは、ちょうど、あの一枚の葉っぱのようなものなのです。 人間は、一人ひとりが、 個別に努力をしているように見えても、 ほんとうは、大きな木の幹に繋がっています。 あるいは、根っこから、その大樹に繋がっているのです。 そこから枝がたくさん出ています。 その枝の部分が、いろいろな民族であったりするわけです。 日本人であったり、中国人であったり、 韓国人であったり、アメリカ人であったりして、枝が出ています。 その枝から、また小枝が出てきています。 これが、その地域ごとの、○○州、○○県、○○町というものであり、 そこに沢山の人が住んでいます。 そして、家族の単位が最後にあります。 そのように、小枝が分かれていき、そこに葉っぱが出ているのです。 そこから葉っぱが落ち、 また葉っぱができ、また落ちるというかたち。 動物、植物の世界を見ても、大体そのようにして、連綿と生命が続いています。 死は悲しいように見えるかも知れませんが、 葉っぱが散っていく姿と変わらないのだということです。 「諸行無常」の思想とは、そういうものです。 |
『あの世とこの世』
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人類は、「愛」と「悟り」という二つの大きな武器を持って、 この地上をユートピアにしていく必要があります。 それは物質的なユートピアではありません。 この世の利便性を否定するつもりは決してありませんし、 食べ物や着る物、住居、その他のものを否定しする気もありません。 そういうものもまた、 人間の幸福感に寄与するものであることは、 充分に理解しています。 しかし、主と従とを間違えてはいけないのです。 「心の修行」のために生きているのだ」 という、主なるものを忘れてはいけません。 そういう心の修行の便益のために、 この世的な、さまざまな文明の恩恵があるのです。 この主と従とを間違わないことです。 結局、どのような生活形態、社会形態のなかにおいても、 人々が愛と悟りを求めて生きていけるような、 そういう心の社会を建設していくことが大事なのです。 私たちが求めているユートピアは、 目に見える姿でのユートピアでは必ずしもありません。 「こういう建物があり、こういう道路があり、 こういう政治理念、経済理念で、こういう形態で生活すれば、それがユートピアである」 ・・というようなものではありません。 そういうものは、さまざまに変化するものです。 人々が、変化するもののなかにあって、 変化しない方向性を知り、 向かうべき方向を知り、その高みを知ること、 そして、この地上世界を、菩薩や如来の世界、 天使の世界に近づけていくことが大切なのです。 この修行のために、 大勢の人々が、長い長い年月、 この世において魂修行をしているのです。 |
この世において菩薩の心を持って生きた人が、 死後に行く世界は、菩薩の世界です。 それ以外の世界ではありません。 天国に行くか地獄に行くかというのは、 死んでから分かることではなく、生きているうちに分かることなのです。 みなさんが、毎日毎日考えていること、 あるいは、この一年、この十年、 考え続けていることは、どのようなことでしょうか。 その思いの程度を見れば、 みなさんが、どの世界の住人となるのか、 あるいは、もともと、どの世界の住人であったのかということが分かります。 「悟りを高める」ということは、 よりよき未来設計そのものでもあります。 来るべき自分の人生を決めることであり、 自分の本来の使命を悟ることでもあるのです。 |
魂は、 あの世でも、まだ人間的記憶を持っている間は人間のような姿をとりますが、 人間的記憶が薄れていくと、そういう姿を取らなくなります。 「考え」としてのみ、「思い」としてのみ存在するようになるのです。 人間は、ゼンマイ仕掛けのおもちゃのような存在であるならば、 何も考えず、もともと予定されたとおりにしか動かないでしょう。 しかし、実際はそうでありません。 人間は、さまざまに考えることができます。 どのように選ぶこともできます。 自分で考え方を決めることができます。 思いにおいて自由自在です。 自由自在に思いを変え、決める力・・・それが人間の本質なのです。 その本質は、 肉体が滅びたあとも、もちろんあの世に存続しています。 「考えや思いはのこるのだ」ということです。 『魂』と言ういい方をすると、 現代では受け入れない人もいます。 しかし、過去、何百年、何千年前に亡くなった人であっても、 その人が行なった偉大な行為に伴う思いは、偉大なる大霊界において存続しています。 崇高な行為をした人の、その魂の輝きと思いは、 いまだにのこっていて、多くの人に影響を与え続けているのです。 たとえば、イエス・キリストという人が33年の人生を生きました。 彼の活動は、肉体を失った時に終わったのかといえば、そうではなく、 その思いは、今も活動し続けているのです。 釈尊は二千五百年前に亡くなりました。 現代の日本人からみれば、釈尊は縄文時代の人であり、 「縄文時代の人に、どれほどのことが言えるであろうか」と思う人もいるでしょう。 しかし、その慈悲と悟りの心は、今ものこっています。 それが霊界の神秘です。 そのように、人間は霊的存在であり、 「心が自分自身である」と思うこと、それも、 迷いの心ではなく本質的な心を自分だと思うことが大事なのです。 そうした「自己観の転換」が必要です。 自分についての見方を転換し、 自分というものを違った観点からみなければいけないのです。 |
悟りというと、その仏教的な響きにとらわれて、 「宗教のなかの一つの考え方だ」と思う人もいるかも知れません。 しかし、悟りは、やはり大事です。 悟りというものを簡単に言えば、 「人間は単なる肉体ではない。 肉体に宿り、肉体を支配している、魂、心というものがるのだ」ということです。 心とは、実は、魂の本質の部分です。 あの世に持って還れるものは、その心だけ・・。 魂というものを、 三次元的に固形化したもの、固定化したものと考えるから間違うのです。 「あなたは自由にいろいろなことを考えるでしょう。 その考えだけが、あなたの姿になって、来世に存続するのです。 その考える姿、考える機能だけが、あの世へ行くのです」 |



