|
指さなかった一手(その2)
「田園」であった由紀子は1年前よりさらに一層美しくなっていた。大人の女の雰囲気があった。しきりに1年前の手紙のことを謝った。彼女もきっとこの1年間苦しんだのだろう。私だって同じことだ。けれど私は自分の感情を出すまいと決心していた。だから話題を高校時代のこと、友人達のことに絞っていた。もうひとつわだかまりがあった。由紀子と離れている間、私は他の女性と付き合い始めていた。もし、あの時の由紀子の手紙が、私の気持ちの整理のために1年間の時間がほしい、というのであったなら私は待っただろう。しかしあの時、彼女は永遠の別れのような気持ちを書いてきたのだった。由紀子の思い出だけで残りの人生を過ごすなど、どうして出来ようか。私も若かった。
どうせあと1年したら資本主義社会の歯車のひとつとして残りの人生を送らなければならないという漠然とした絶望感と、一方的に断ち切られた由紀子との関係で自棄気味だった私にも日本の国全体が持っていた昭和30年代の、将来に対する明るさは感じられた。あの当時、日本には希望があった。
生きていればそのうち楽しいこともあるだろう。
「田園」を出て以前デートした新宿御苑の芝に腰掛けた時、この1年間の苦しみを由紀子に語った。彼女は芝生の一点をみつめながら、ごめんなさい、ごめんなさいを繰り返すのみだった。それとは逆に私は次第に彼女をなじるような口調になった。そして自分でも全く予期してなかった言葉が口をついで出た。
「いま、僕は付き合っている女性がいます。とても優しい人です。将来結婚しようと思っています。」
由紀子は何も言わず、少し悲しい目をしたように感じられた。それから二人はほとんど何も喋らず、新宿駅の傍らの大衆食堂で何か食べた。彼女は注文した丼物に箸をつけず、私はその分も入れて勘定を払った。
新宿駅まで彼女を送った。じゃ、とだけ言って彼女は背を向けて歩きだした。
小さな淋しそうな由紀子の後ろ姿がまさに雑踏の中に消えようとする瞬間、私の頭の中はあの過ぎ去った二年の数々の想い出が蘇った。いま、彼女を追いかけなかったら、もう一生、由紀子と会うことはないだろうと思った。走るのだ。走って彼女の肩に手をかけるのだ。息せき切って乱れた呼吸の中でもいい、由紀子に告げるのだ。
「さっき言ったことは全部、うそだ。俺はずっとあなたが好きだったんだ」
だが私は立ったままだった。立ち尽くしたままだった。そして彼女の姿は次第に小さくなり見えなくなった。
真綿色したシクラメンほど 清しいものはない
出逢いの時の 君のようです
ためらいがちに かけた言葉に
驚いたように ふりむく君に
季節が頬をそめて 過ぎてゆきました
うす紫のシクラメンほど 淋しいものはない
後ろ姿の 君のようです
暮れ惑う街の 別れ道には
シクラメンのかほり むなしくゆれて
季節が知らん顔して 過ぎてゆきました
疲れを知らない子供のように 時が二人を追い越してゆく
呼び戻すことができるなら 僕は何を惜しむだろう
(シクラメンのかほりー小椋佳 作詞作曲)
2009年の秋、社会学の同窓生村山からメールが届いた。こうあった。
社会学同級生の皆様
朝夕の冷え込みで秋の深まりを感じる頃となりました。
お変わりなくお過ごしのことと存じます。
この度、社会学同級生 北尾誠英さんのご令室から、
「本年9月28日、夫北尾誠英(75歳)は闘病中でしたが
薬石効なく永眠いたしました」
とのお知らせをいただきました。
ご令室とお話しましたところ、「今年の1月に膀胱がんと診断された時には、
すでに症状は進んでいました」とのことでした。
北尾誠英さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。
その前年、福井が他界し、小野は咽喉がんにかかり、志賀は奥さんを亡くしてうつ病になり、藤井は大動脈破裂の大手術をし、なんとか生き延びているとの知らせがあったばかりだった。私たちはそういう歳になったのだ。
私と由紀子とのいきさつを多少でも知っていたであろう北尾は産業大学の教授で一度訪日したとき会ったことがある。当時の旅行の話などで夜遅くまで語り合ったがその北尾はもういない。
由紀子はどうしているのだろうか。当時の黒髪はもうすっかり銀色になっているだろう。あるいは髪を染めているのかな。多分、音楽の教師を長年勤め,どこかの先生と結婚し、たまにはコンサートに行き、熟年登山などしているのかもしれない。今は孫も何人かいるのいるのだろう。
人生ってなんだろう。過ぎてしまえば短いものだ。男と女の関係など将棋の指し手みたいなものだ。こちらが指しても相手の次の手は分からない。意表をつく手の交差の果てにゲームは終了する。人生というゲームもその時代の流れと無数の偶然の出逢いと別れの選択の中で全くことなった結果を見るのだろう。
駒箱に駒をしまえば、後には何も残らない。プロの指し手であればそのゲームの棋譜は残るかもしれないが、私達大衆の指し手は後になればだれも覚えてはいない。まして脳裏に浮かび、結局は指さなかった手など、誰が記憶しているのだろう。
昭和30年代はテレビが急速に普及し始め、39年は東京オリンピックがあった年だ。日本経済は世界史にもまれな高度成長を遂げつつあった。
その中で私が由紀子との間で経験したようなことは何十万何百万の青春が経験したことなのだろう。日本のどこにも同じような青春の群像があったのだ。その記憶が全く消え去らないうちに、小椋佳の詩は、私に、あの時、指さなかった一手を一瞬のうちに蘇らせたのだった。過去は優しく眉毛に降り立ったのだった。
風、散々と この身に荒れて
思い通りにならない夢を 失くしたりして
人はかよわい、かよわいものですね
それでも未来たちは 人待顔して微笑む
人生って 嬉しいものですね
愛 燦燦と この身に降って
心密かな嬉し涙を 流したりして
人はかわいい かわいいものですね
ああ、過去達は 優しく眉毛に憩う
人生って不思議なものですね
(愛燦燦―小椋佳 作詞作曲)
|
今日の投稿
[ リスト | 詳細 ]
|
指さなかった一手
50年も前だ。1960年(昭和35年)の夏、私は由紀子と別れた。
別れたといってもその前に特別な関係があった訳ではない。ただお互いに好意を持っていた、それだけの関係だった。
由紀子とは青森高校の同級生で高校時代は口も聞いたことがない。卒業後一年間は音信不通だった。
大学二年生の時、高校時代の担任の先生にでも私の住所を聞いたのだろうか、由紀子から手紙が来た。達筆だった。友達と五月祭に行きたいので構内を案内してほしいというのである。どこをどう案内したのかは忘れたが私は同級生の北尾と彼女の友達、優子と四人で構内を歩いた記憶がある。三四郎池のほとりで撮った彼女の写真はつい最近まで残っていたが、引越しの時、かなりの本やアルバムを廃棄したのでその中に混じって捨ててしまったのか、今はない。
由紀子は同じ高校から入学した優子とともにお茶の水の音楽科の学生で、モーツアルトが好きだった。最初の年は青森の田舎から出てきた学生の大半がそうであるように、寮、下宿、講義、安保騒動と生活の激変に見舞われ、ようやく落ち着いて、同級生であった私にコンタクトしてみようという事だったらしい。
5月から初夏にかけ、私は由紀子と二人で何回かデートした。デートといっても深大寺に行ったり、新宿の音楽喫茶「田園」で何時間もおしゃべりをしたに過ぎない。
夏休みが近づき、私は同じ学科の北尾と農工大の佐藤と三人で北海道旅行を計画した。アルバイトの家庭教師をやって貯めたといってもたかがしれている。道中はすべて車中泊、風呂は現地の銭湯を利用する。いつも腹の減っている旅行だった。
札幌では工学部の友人宅に雑魚寝、親父さんにラーメンをご馳走になった。
摩周湖まで足を伸ばし、洞爺湖で泊まり、函館で、がつがつと飯を喰い、当時はまだ青函トンネルなどなかったから青函連絡船で青森に着いた。
青森港では由紀子と優子、それにもう一人、同じ科の佳子という女性が待っていた。私達の計画はそこで彼女達と合流し、6人のパーティーで奥入瀬川に沿って十和田八幡平でキャンプをする予定だった。
いま考えると、どこまでをバスで行ってどう歩き、どこに宿泊したかなど全く覚えていない。多分、北尾がこまめに調べてくれたのだろうし、彼女達が綿密に計画を立ててくれていたのだろう。私はただそれに乗っかっていただけだった。
6人は奥入瀬川に沿って歩いた。途中、川の向こう側に綺麗な花が咲いていて、由紀子があまりに感嘆するものだから倒れている巨木の上を歩いて花を摘んであげようと渡りかけた所、巨木がガクンと動き、私は腰まで冷たい渓流に浸かってしまった。その様子がおかしかったのか皆が笑いころげた。彼女達の為にしてあげた結果を笑われて私は憮然とした。
旅行を終えて帰京した数日後、私は由紀子から手紙をもらった。まるでペン習字のお手本のような達筆で四枚の便箋に旅行が楽しかったことが綴ってあった。彼女の父親は青森高校の書道の先生で日展の書の部門では何回も賞をもらった腕と聞いていた。彼女の達筆はそんな環境のせいであったのかもしれない。
手紙には十和田湖の水の透明さ、宿泊したオンドルの温かさに何時までも寝付けなかったこと、夜遅くまで恋愛と結婚は同じなのか全く別なのか、議論しあったこと、雨の中を八幡平から下山したことが忘れられない思い出になったと書いてあった。そして奥入瀬での出来事を謝っていた。
その後由紀子と二人だけでデートすることが多くなった。
昭和34年の秋、いつものように由紀子を送って行った夜、私は衝動に駆られ由紀子を抱き寄せた。「ダメダメダメ」彼女は自分を軸に私に背を向けながら回転した。半径が違えば円周をまわる私は由紀子の速度には敵わない。正面にまわるのをあきらめるしかなかった。気まずい空気が二人の間に流れた。しばらく無言で歩き、おやすみも言わずに由紀子は白金寮の入り口に消えた。
数週間、由紀子からは連絡がなかった。私はどう彼女に接したらよいか分からず、放っておいた。しばらくして彼女から手紙が来た。
この二年近く私と付き合って本当に楽しく幸せだったが、ここ数ヶ月、それがとても苦しくなり、今までと同じ気持ちで付き合えなくなったとあった。だからもう私とは付き合いたくないというようなことが書いてあった。
女の気持ちがさっぱり分からなかった。年頃の男女が二人で逢瀬を重ねれば、求め合うのは自然な感情ではないのか。人を好きになる、愛することがそんなに悪いことなのか。二年間も付き合いながら、あれだけの時間を費やして身の回りのこと、高校時代のこと、政治のこと、デモのことを話し合った仲なのに、手紙一通でそれが断ち切れるものなのか。それで済むと思っているのか。いきなり置き去りにされた私の気持ちを彼女はどう思っているのだろうか。私は由紀子にもう一度会って聞きたかった。しかしやめた。それは男らしくないと思った。所詮、由紀子とは縁がなかったのだ。彼女の気持ちが変わってしまった以上、それに連綿とするのは男らしくない。この苦しさにはどうあっても耐えなければいけないのだ。それが由紀子に対する仕返しなのだと思った。由紀子の手紙をこれ以上細かく破れないほどの小片にし下宿の窓から捨てた。風に吹かれた小さな紙吹雪は、まだ当時は荻窪のあちこちにあった空き地に落ちていった。
私は耐えた。
寂寞たる気持ちの中でも季節は移ろい、春になり、5月祭の季節になった。私は、しかし、早稲田や中央の学生達と下宿で麻雀ばかりやっていた。2位抜けの麻雀の合間にいいかげんな卒論を書いていた。6月の雨の夜、ラジオで樺美智子の死を知った。隣のクラスだった。よくデモに行きましょうと誘いに来ていた。
学内の葬儀、街頭デモ、アメリカではニクソンに代わってケネディーが大統領になるだろうと騒がれていた。そんなある日、ちょうどあれから1年経った頃、由紀子から手紙が来た。
あのような手紙を書いてしまって私は随分後悔しているとあった。もし許してくれるならばもう一度会って謝りたいともあった。
私は迷った。会うべきなのか。このまま会わないほうがいいのか。
会わなければ私の勝だ。会えば、私は負けそうな感じがした。しかし結局彼女に会いたい気持のほうが強く、会ったあとどうするのかの見通しもないまま由紀子と会うことになった。
恋のからくり夢芝居
台詞ひとつ忘れもしない
誰の筋書き花舞台、行く先のかげは見えない
男と女、あやつりつられ
細い絆の糸ひきひかれ
稽古不足を幕は待たない
恋はいつでも初舞台
恋は怪しい夢芝居
たぎる思い押さえられない
化粧衣装の花舞台、垣間見る素顔可愛い
男と女、あやつりつられ
心の鏡のぞきのぞかれ
こなしきれない涙と笑い
恋はいつでも初舞台
(夢芝居―小椋佳 作詞作曲)
|
|
100年に1度の大不況となれば現在が底か、あるいは数年先が底。算数で考えると次の好況はこれから50年先となる。現在高齢者になっている人が生きている時代に好況になることはない。果たしてそうなのだろうか。 |
|
ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」英題 Embracing Defeatを読んだ感想です。 |
|
発電から送電へ、送電から配電という流れになるが、送電網のことを英語ではgridと呼ぶ。 |




