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マスコミが野村バッシングに明け暮れて、あれからまた10数年が経過した。当時の同僚たちはもうずっと昔に定年退職を迎え、会社生活もうこりごりと残りの人生を楽しんでいるのだろうか。私は特に株式売買をやっているわけではないし、やってもネット上で自分の好きなように小額を売買するだけだ。野村の悪口をいうつもりはなかったが、かつての先輩よ、同僚よ、後輩よ、許せ。 |
野村證券時代
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野村軍団、どこを切っても似たような金太郎飴、とよく評されるが野村の内部に数字の前にひれ伏す体質が残る限り投資家は儲からない。儲かるのはやくざと企業だけとなろうというものだ。そして同質の企業集団からは自浄作用は生まれまい。 |

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1991年の証券不祥事の時に、田淵会長、田淵社長(同姓だが二人はまったく縁故関係はない)が世間にわびて退陣したが、問題はその後ではなかったのだろうか。表面的に世間体をつくろい、実は多分、院政を敷いたのではなかったのかと想像される。数字万能の野村では世間のいう不祥事などはたいした問題扱いにはされなかったのではないだろうか。その後の役員はペロ切り10年の間に会社に莫大な利益をもたらした人々であろう。 |

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野村は実力がものを言う会社だと世間では語られている。確かに学歴などは数字の前に何の価値もない。組織の中では誰もが平等に出世しる体質を備えている。その点ではすっきりしていた。しかし実力とは何だろうか。1964年の証券低迷期にそれまで野村はセールスマンとして大卒を主に起用してきたが、高卒の事務関係から営業に任務を命ぜられるケースが多くなった。もともと学歴社会と言われる日本の企業で高卒がトップになることは極めて難しいかとも思う。しかし野村は数字をあげさえすれば誰にでも同じ処遇をする。営業に配属された高卒の人々は大卒に負けるものかと会社の方針に一点の疑問ももたず、必死に努力したに違いない。神戸支店に居たときに保管部にいた高卒の男が営業に配属され、地道に努力を続け、営業ナンバーワンになったという話を聞いた。彼は手数料収入で数億をあげたという。当時の数億は大変な数字だった。これはその後も野村の伝説になったと聞く。 |
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日本経済の驚異的成長とともにバブル景気が続き、野村は1990年の3月期決算で経常利益で5000億円を計上した。だが宴の悪魔はすでにこのとき、地層深く出番を待っていたのである。89年の大納会を天井として株式相場は下げ始めた。相場が上昇期の時は数字を金科玉条とする野村の営業体質はさして問題が表面化することはなかったが、91年7月、損失補填、飛ばし、やくざ企業への融資などの実態が明るみに出て経済界は混乱し、田淵社長は組織の責任を取って退陣せざるを得なかった。けれど、まれに見る日本経済の高度成長が終焉を告げた後でも野村の営業政策に変化がなかったのではないのだろうか。 |




