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2009.5.6 西都原考古博物館では、九州の歴史について、豊富な展示品で分かりやすく説明されている。 古代の南九州は火山活動が活発であったため、土地がぶ厚い火山灰の層におおわれて人が住めない時代が長く続いた。 したがって弥生時以前の遺物は南九州には少なく、どちらかというと北九州から多く出土している。 弥生時代になって、朝鮮半島から騎馬民族の文化が流入する。乗馬や、剣、墳墓や、王は天から下ったものだとする考え方など。この流れは、はじめ北九州の唐津湾・福岡湾や、出雲をはじめとする山陰地方に到着したのだろう。文化の伝播には湾や良港が必要であったと考えられる。港の近くにまず集落が根付いたのち、南九州や畿内へと伝わった。 そのような朝鮮半島から日本への進出のイメージが、一例として下図で表されていた。 地図は南北が逆に示されていて、壱岐島から、末盧国(今の松浦)・伊都国・奴国・不弥国へと並んでいる。 これら水色で示された小国の他に、オレンジ色で点在する集落が、吉野ヶ里を含めて記されている。 おそらく、水色の国は朝鮮半島からの民、オレンジ色は、それ以前からこの地域に住んでいた民の集落だったのだろう。 弥生時代は農耕を営む平和な時代であったと、かつて学校では学んだが、最近になって吉野ヶ里で環濠や柵・高楼が発見されてからは、部族同士で戦が行われていたことが明らかになった。 その時代の状況が、上の地図で緊張感を持って描かれている。 北九州地方で主導権を握ったのは、はたしてどちらの勢力だったのだろうか? また、西都原に暮らした民は、北九州から南下した民だったのだろうか? 松浦については以下のようないわれがある。 日本書記巻第九 神功皇后 (九年の三月、壬申の朔)の丙申(二十五日)に、転じられて山門県ヤマトノアガタに至り、そこで土蜘蛛田油津媛タブラツヒメを誅された。そのとき、田油津媛の兄の夏羽ナツハが、軍を率いてお迎えに来たが、妹が誅されたと聞いて逃げ去ってしまった。 夏四月の壬寅ミズノエトラの朔甲辰キノエタツ(三日)に、北方の火前国ヒノミチノクニ(肥前国)の'''松浦県'''マツラノアガタに至られて、玉嶋里タマシマノサトの小河のほとりでお食事を召し上がった。そのとき、皇后は、針をまげて釣針をお作りになり、飯粒を餌にされ、裳の糸をぬき取って釣糸とされ、河の石の上に登られ、釣針を投げて祈ウケいをされて、 「私は、西方の財タカラの国(新羅国)を求めたいと望んでいる。もし事が成功するならば、河の魚が釣針を飲みこむように」と仰せられた。そうして竿をあげたら、細鱗魚アユがかかっていた。そのとき、皇后は、 「希見メズラしいものである〔希見、これを梅豆邏志メズラシという〕」と仰せられた。そこで、時の人は、そのところを名づけて、梅豆邏国メズラノクニといった。いま、松浦マツラというのは、訛ったものである。そのため、その国の女性は、四月の上旬になるたびに、釣針を河の中に投げて、年魚アユを捕ることが、いまも絶えていない。ただし男性が釣っても、魚を捕ることはできない。 日本書紀 中央公論社1983,p.193-194 日本書紀において大和朝廷は九州を出身地としているにもかかわらず、日本列島を統治するためには九州を平定しなくてはならない。矛盾のように見えるが、上の地図で示されているように、当時の九州には少なくとも二つの勢力があったとすれば、納得できる。 |
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西都原にこんな看板があったのですね。
傑作
2009/5/21(木) 午後 5:19 [ Kawakatu ]
kawakatuさん、ありがとうございます。
西都原の考古博物館の展示は、常設展ではなく、現在進行形をとられているそうですね。すばらしい博物館でした。
2009/5/21(木) 午後 8:38