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宮崎県の西都原古墳群。 昨年は、博物館から第3古墳群〜第2古墳群へと巡ったところで、疲れてしまった。 今年は第1古墳群へと入ってみる。 第1古墳群の中に入っていくと、西都原古墳群の南端に13号墳はある。 13号墳は、西都原古墳群の北端にある100号墳に次いで古く、4世紀後半の築造とされている。西都原に30基ほどある前方後円墳のうちのひとつで柄鏡型。 3層の構造を持つように見えるが、前方部が後円部よりも低いのが、古い前方後円墳の特徴であると、西都原では説明されている。 なるほど、もっとも古い100号墳の葺石の層は前方部では2層しか見えないし、形も平べったい。 同じく4世紀頃の、前方後方墳とされている、毛野国、藤本観音山古墳も前方部はきわめて低い。 一方13号墳では前方部も3層を成し、古墳の山がポコッと盛り上がった形をしている。 整備されたためかもしれないが、100号墳や藤本観音山古墳と比べて、より前方後円墳の完成形に近づいているように見える。 単なる墳墓である円墳に比べて、地域の首長の墓は祭祀を行うため、後方部がお祭り行事の場として築造されたのではないだろうか。 被葬者が天皇ではないとしても、前方後円墳の主は、死後も人が集まって祭祀を執り行うほど、偉い人、その地域の首長が埋葬されたのだろう。 13号墳の高く盛り上がった後円部の、3層目に横穴があり、穴の中を観察することができる。 300基もある西都原古墳の中で前方後円墳は30基くらいあり、それらの築造年代は4〜6世紀にかけて分散している。 奇妙なことに、天皇稜を思わせるほど立派な女狭穂塚・男狭穂塚が4世紀前半に築造された後は、当地での前方後円墳の築造はプッツリと途絶えてしまう。その後5世紀の中ごろになって、西都原の南北にそれぞれ姫塚と舟塚が築かれている。 少なくとも3世紀にわたってこの地が栄え続けていたとして、その3百年間は平たんではなかったのだろう。 古墳の築造様式が畿内のみならず関東ともある程度連動している。また古墳の形態の変動や、前方後円墳築造の開始・中断・終息は、民族の移動や政権の消長と連動していたにちがいない。 さらに、それらの変化は大陸とくに朝鮮半島の国々の消長とも関係していたのではないだろうか。 (注)4世紀後半は、神功記に見える百済由来の七枝の刀に泰和四年?(369年)と記されている他、神功記には4世紀後半の百済の王名が記されていて、神功皇后当時の倭国は百済と同盟関係または従属していた可能性もある。 |
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