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ゴールデンウィークに、古墳を見に明日香を訪れました。
橿原神宮前で吉野行きの電車に乗り換えると、近鉄線の東側に大きな前方後円墳があり、岡寺駅の手前に丸山古墳、飛鳥駅の手前に欽明天皇陵がある。
欽明天皇といえば、仏教が百済から伝わった様子が日本書紀に記されている。
百済の 聖明王 は、欽明天皇に仏教信仰を勧める。
天皇は自分では仏教を信仰するかどうかを決めずに、部下の大臣に判断をゆだねる。
蘇我稲目は百済寄りの人なので、「東アジア諸国で信仰されている仏教を、わが国でも信仰しないことがありましょうか」と勧める。一方で、日本側の物部氏・中臣氏は「従来通りわが国の百八十神を大切にしましょう」と諌める。
そこで、百済の仏像は蘇我稲目が預かることになる。
この後、敏達から用明天皇の代へと移り、用明2年西暦587年に、仏教推進勢力の蘇我馬子は物部守屋を滅ぼして大勢は決し、崇仏勢力が国を統治する時代へと移行する。それが飛鳥時代であり、つづく奈良時代だと思う。
このあと牽牛子塚を訪れるが、その西に真弓鑵子塚(かんすづか)という古墳がある。
鑵子塚は古墳としては目立たないのだが、その石室は国内最大級であると、次のように朝日新聞に報じられている
この広い石室に葬られたのが、蘇我稲目か、あるいは東漢氏であろうと考えられている。
天武紀では、帝はこれまでの歴史を振り返って、たびたび天皇家に対して謀反を企ててきたのが「東漢氏」であると総括していることから、東漢氏とは蘇我氏を含む渡来一族のことではないだろうか。一方で、天武天皇自身も天皇家に対し謀反を起こし天下を取ったのだが、新羅系であろうかとの見方がある。「大化」のような年号や漢字2字の天皇名は天武以後に使用されるが、「大化」は、同時代の新羅の年号でもある。
仏教伝来とともに、大がかりな前方後円墳は築かれなくなる。
飛鳥駅近くにあって欽明より後世の、牽牛子塚、岩屋山、天武・持統陵 いずれも自然の地形を利用して、丘の上に小じんまりとした墳墓が築かれている。
このあと、古墳としての立派な外観は無く地味ではあるが、岩屋山・牽牛子塚へと巡り、その石室が実に見事であることを知りました。(つづく)
真弓鑵子塚古墳の石室内(下記ブログ記事の2枚目の写真)
欽明天皇陵
Emperor Kim-may's berial mound and Kansu-zuka stone cave in Aska, Nara
(追記)
・この梅山古墳の北隣にある見瀬丸山古墳が欽明天皇陵であるとの説もある。
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奈良 나라
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石舞台の場合、真下にそれ以前の墓場があるのです。
ぼくは石舞台はあとづけだと思っていますが、このニュースのものは推定噴長に比べて大きすぎる石室のようです。朝鮮式の積石墳墓だったか、日本の古墳なら径はもっと大きい方墳か?と見えます。
2011/5/22(日) 午後 11:07 [ - ]
新聞の石室の石は、落っこちそうで怖いのですが
石舞台にしても、長年地震にも耐えてきたのですから
石室というのは頑丈なものですね。
地震警報が出たら、ここに逃げ込めばよいかも...
それとも、関西には大地震は千年以上来なかった???
2011/5/23(月) 午後 8:58