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明日香村探索のつづき
岩屋山の豪快な石室に唖然とし、つぎは本命の牽牛子塚古墳へ。
飛鳥駅の裏を西へ民家の間の細い道を上って下って行くと、
十字路に、「右牽牛子塚」との立札がある。
北へと進むと老人ホーム、畑、竹やぶがあって
カーブする野道を丘へと登って行くと、
頂上は工事現場のような所になっていて、ここが牽牛子塚?
のっぺりと土が平に盛られており、八角形の石畳はみられず、
がっかり。
小山の反対側へ回ると、地下へのくぼみがあって、石室がある。
石室の前には鉄の扉が施錠されているが、中をのぞくことはできる。
石室の中を見て先ず、これは近代的な墓だと思った。
玄室内は水平な床・天井と側壁が正確に平で直角なだけでなく、左右一対の墓室をくぎる壁から天井へと移る部分が、なだらかで優雅な曲線を描いている。
床面には棺を置く場所が精確な長方形で盛り上がっている。
コンクリートを型に流し込んだ最近の建築物に見えたので、近くで見学されている、この道に詳しそうな紳士に思わず、「これ、昔に造られたモノなんですよね?」とたずねてしまった。
穴の造りの精確さだけではない。
牽牛子塚の玄室は、岩屋山のように石を組んで造ったものではなく、左右に二人の人を埋葬できる並んだ2室が、何と、巨大なひとつの石をくりぬいて作られているように見えるのだ。
はたして、こんなことが可能なのだろうか!?
あなもりや さんのブログ で詳しく紹介されているが、この石室は
「二上山に産出する凝灰岩を使用した南に開口する刳抜式横口式石槨」
だそうだ。
Wikipediaには次のように記されていた:
横口式石槨は、約 80 トン の重量をもつ1 個の巨大な凝灰角礫岩をくりぬいて、約 70 トンの埋葬施設をつくったもので、巨石は約 15 キロメートル離れた二上山西麓より運搬したものと考えられる。 左右に並んだ埋葬室は、斉明天皇と間人皇女(母と娘)を合葬したという日本書紀の記述と合致するだけでなく、隣地から大田皇女(孫娘)を埋葬したものと思われる石棺まで見つかっている。
このことから、間違いなく斉明天皇の墓だとして、最近新聞紙上で賑やかに報道された。
実はこのように巨石を掘るということは、明日香の地では普通に行われていたようだ。
下の「鬼の雪隠」では、凝灰岩よりも硬そうな「飛鳥石」(岩屋山古墳の石材と同様の模様が見える)を豪快に刳りぬいている。
斉明天皇のあとを継いだのが、「大化の改新」で有名な天智天皇(中大兄皇子)である。
日本書紀、天命開別天皇(天智)の巻より
(天智)六年の春二月の壬辰の朔戊午(27日)、これよりさき、天豊財重日足姫天皇(斉明)と間人皇女とを、小市の岡上の陵に合葬したが、この日、皇孫大田皇女(中大兄の娘)を陵の前の墓に葬った。高麗・百済・新羅がみなその道に発哀した。 牽牛子塚のそばから出た大田皇女のものと考えられる石棺
皇太子(中大兄)は群臣に、
「自分は、皇太后天皇(斉明)の勅を体し、万民をあわれむため、石槨の役(エダチ:墳丘の造営工事)をおこさぬこととする。どうかこれを、後の代までもいましめとしてほしい」 中央公論社 1983版より引用
斉明天皇の死後も明日香の地で天皇になれなかった中大兄は、翌月の3月、近江へ遷都して初めて即位できた。
なぜ明日香では即位できず、近江まで都を遷さなければならなかったのか?
近江遷都は当時の大和の住民からは歓迎されず、天智天皇の晩年は幸せではない。
近江京と菟道の間(今の京都市山科区の地)で狩をしているときに亡くなったというが、死体が見つかっておらず殺された可能性もある。
後を継いだ息子の大友皇子は、天智天皇のおそらく異母兄であったろう大海皇子(天武)に滅ぼされてしまう。
天智天皇稜 (参道の先、山のふもとの森にある:京都市山科区)
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奈良 나라
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飛鳥時代の古墳・・・つまり最終末期古墳は渡来のおかげで、切石技術が格段にアップしましたから断面が鋭利で洗練されていますね。すぐに古墳造営は天皇家だけのものになったのが残念。
2011/5/29(日) 午前 9:36 [ Kawakatu ]
やはり海外から石工が入ったのですね。
いくら修羅を使うにしても80トンの巨石です。
どうやって平らに真っすぐに削るのでしょうか?
10年くらいかかる仕事ではないでしょうか。
2011/5/29(日) 午後 5:34
ええ、そうです。途中で石が割れたり、計画変更でほったらかしになったり、そういうのが飛鳥にはたくさん残った。
動画面白く見ました。評価クリックさせていただきました。
2011/6/7(火) 午後 7:08 [ Kawakatu ]