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日本書紀

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葛城襲津彦

 
奈良県御所市の室(むろ)にあるあの立派な 宮山古墳 に埋葬されたのは誰でしょうか?
 
5月6日の記事へkawakatu先生からいただいたコメントによると
葛城襲津彦の古墳 だそうです。
 
それでは、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)はどんな人だったのでしょうか?
襲津彦が出てくる記事を『日本書紀』から捜してみましょう。
 
 
中央公論社『日本書紀』巻第九 気長足姫尊 神功皇后 より
(気長足姫の)三年の春正月の丙戌(23)の朔戊子(25)に、誉田別皇子を立てて、皇太子となさった。 そうして磐余に都をつくった〔これを若桜宮という〕。
 五年の春三月の癸卯(40)の朔己酉(46)に、新羅の王は、于礼斯伐(うれしほつ)・毛麻利叱智(もまりしち)・富羅母智(ほらもち)らを遣わして、朝貢した。 使者たちは、前に人質になっていた微叱許智伐旱(みしこちほっかん)をとり返そうという気持をもっていたので、許智伐旱をとおして、あざむいて、
「使者の于礼斯伐・毛麻利叱智らは、私に告げて『わが王は、私が久しく帰らないので、ことごとく妻子を没収して、官奴としてしまった』と申しております。どうかしばらく私を本土に帰らせていただき、その虚実を知って御報告したい」 と言わせた。 皇太后は、それをお許しになった。 そうして、葛城襲津彦を付き添わせて遣わした。 ともに対馬に至って、鉏海(さいのうみ;対馬の北端、鰐浦か)の水門(みなと)に泊った。 そのとき、新羅の使者の毛麻利叱智らが、ひそかに船と水手を配して、微叱旱岐を載せて、新羅に逃れさせた。 そうして蒭霊(くさひとかた;人形)を造って、微叱許智の床に置いて、偽って病気をしている人のように見せかけ、襲津彦に告げて言った。
「微叱許智が、急に病気に罹って死にそうです」 と。 襲津彦は、使を遣わして病人を見にやった。 そこであざむかれたことを知って、新羅の使者三人を捕えて、檻の中にとじこめ、火を放って焚き殺してしまった。
 そうして新羅に行き、蹈鞴津(たたらのつ;釜山の南の多大浦)に宿泊し、草羅城(さわらのさし)を攻め落として帰還した。 このときの俘人(とりこ)らは、いまの桑原・佐糜・高宮・忍海など四つの邑の漢人(あやひと)らの始祖である。
 
神功紀は中国の『魏志』の「卑弥呼」の記載とつじつま合わすために、その時代に女王をでっちあげた、と見られていますが、それはともかくとして当時を推察してみると
 
■年代: 神功紀の末尾に記載されている百済の王の消息の年代から推定すると、4世紀後半の話と考えられる(120年前倒し説を採用)。
 
■新羅遠征: 葛城の襲津彦は新羅へ出征し捕虜を連れて帰った。本巻の前半では皇后自らが新羅へ出征したことになっているが、実際に新羅へ出向いたのは葛城襲津彦率いる船軍だったのだろう。 ただし新羅へ渡った目的は征伐のみとは限らず、 貴金属や職人を求めて行ったのかもしれない。
朝鮮半島と畿内の間を舟で行き来できたということは、途中の吉備や播磨の装飾文様や石材を持帰ることもできたと考えられる(大和川河口から瀬戸内海を通った)。
 
■帰化人: 御所市に佐味・高宮、葛城市に忍海があるので、新羅人が定住したのは、金剛山・葛城山麓である。桑原は今の地図で見つけられなかったが、絹織も始めていたのだろう。日本書紀は多くの部分が作り話と見なされることもあるが、この部分は現在残る地名と合致している。
 
新羅人のことを漢人(あやひと)と呼んでいます。 帰化した大陸人のうち、百済出身がこのあと大和朝廷の本流を支え、新羅出身も大和朝廷を補佐したり謀反に加担したりしたのでしょう。
 
 
 
同じ個所を記事にされている方がありました
 
倭国と大陸交流年表 
 
葛城襲津彦と三国史記
 
襲津彦とソの国
 
葛城襲津彦 
 
 4世紀に大和盆地に存在した東の纏向、西の葛城
 
 
  

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