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奈良県御所市の室(むろ)にあるあの立派な 宮山古墳 に埋葬されたのは誰でしょうか?
5月6日の記事へkawakatu先生からいただいたコメントによると
葛城襲津彦の古墳 だそうです。
それでは、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)はどんな人だったのでしょうか?
襲津彦が出てくる記事を『日本書紀』から捜してみましょう。
中央公論社『日本書紀』巻第九 気長足姫尊 神功皇后 より
神功紀は中国の『魏志』の「卑弥呼」の記載とつじつま合わすために、その時代に女王をでっちあげた、と見られていますが、それはともかくとして当時を推察してみると
■年代: 神功紀の末尾に記載されている百済の王の消息の年代から推定すると、4世紀後半の話と考えられる(120年前倒し説を採用)。
■新羅遠征: 葛城の襲津彦は新羅へ出征し捕虜を連れて帰った。本巻の前半では皇后自らが新羅へ出征したことになっているが、実際に新羅へ出向いたのは葛城襲津彦率いる船軍だったのだろう。 ただし新羅へ渡った目的は征伐のみとは限らず、 貴金属や職人を求めて行ったのかもしれない。
朝鮮半島と畿内の間を舟で行き来できたということは、途中の吉備や播磨の装飾文様や石材を持帰ることもできたと考えられる(大和川河口から瀬戸内海を通った)。
■帰化人: 御所市に佐味・高宮、葛城市に忍海があるので、新羅人が定住したのは、金剛山・葛城山麓である。桑原は今の地図で見つけられなかったが、絹織も始めていたのだろう。日本書紀は多くの部分が作り話と見なされることもあるが、この部分は現在残る地名と合致している。
新羅人のことを漢人(あやひと)と呼んでいます。 帰化した大陸人のうち、百済出身がこのあと大和朝廷の本流を支え、新羅出身も大和朝廷を補佐したり謀反に加担したりしたのでしょう。
同じ個所を記事にされている方がありました
倭国と大陸交流年表
葛城襲津彦と三国史記
襲津彦とソの国
葛城襲津彦
4世紀に大和盆地に存在した東の纏向、西の葛城
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日本書紀
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