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日本書紀

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白雉と天智天皇


5月18日木曜日の夕方に、京都府南部、相楽郡の和束町で白いカラスが見つかった、と報道されている。


京都新聞 5/19() 22:40配信

http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20170519000190むかしから白い動物というのは吉祥と考えられている。
日本書紀に、白い雉についての記載があった。
西暦650年、今から1367年前のこと...

白雉の出現

白雉(ハクチ)元年(650年)の春正月の辛丑(カノトノウシ)の朔に、(孝徳)天皇は味経宮(アジフノミヤ:
難波)におでましになり、正月の拝賀の儀に臨まれた。同日、天皇は宮(長柄豊碕宮)にお帰りになった。

二月の庚午(カノエウマ:=7)の朔戊寅(ツチノエトラ=15; 15-7+1=9日)に、穴戸国司(アナトノクニのミコトモチ:穴戸は山口県)の草壁連醜経(クサカベのムラジシコブ)が白い雉を献上し、

「国造首(クニノミヤッコのオビト)の一族の贄(ニエ)が、正月の九日に麻山(オノヤマ)で捕まえました」と申し上げた。
そこでこのことを百済君(クダラノキミ:王子豊璋)に尋ねると、百済君は、
後漢の明帝の永平十一年(68)に、白い雉があちこちに見えたと申します」云々と申し上げた。
また、沙門(ホウシ)らに尋ねると、沙門たちは、
「いままで聞いたことも見たこともございません。天下に罪をゆるし、民の心をよろこばせるのがよろしゅうございます」とお答えした。

道登(ドウトウ)法師は、
「昔、高麗の国で寺院を建てようとし、建てるべき地をくまなくさがしましたところ、白い鹿がゆっくりと歩いているところがございました。そこでその場所に寺院を建て、白鹿園寺(ビャクロクオンジ)と名づけて仏法を護持するところといたしました。また、白い雀がある寺の農園に見えたときに、高麗の人々は『めでたいしるしだ』と申しておりました。このようなささいなものまで、みなめでたいものだと言っております。白い雉ということになればもちろんでございましょう」と申し上げた。

僧旻(ミン)法師は、
「これは休祥(ヨキサガ: 天がお授けになっためでたいしるし)といって、たいへん珍しいものでございます。聞くところによりますと、王者の徳が四方にあまねく施されるときには、白い雉が見える。王者が神々の祭祀をあやまたず、衣食に節度をもつときにはそれがやって来る。また王者の行いが潔白なときは山に白い雉が出て、王者が恵みぶかい聖王であるときにそれがみえる(1)とか申します。また、周の成王のとき、越裳氏(オツジョウシ:インドシナ半島にあった国)が来て白い雉をたてまつり、『わが国の老人が申しますには、久しく風雨洪水の災がなく、もう三年にもなる。おそらく中国に聖人がおられるからだろう。なぜ行って拝朝しないので、とのことでした。それゆえ、異国からはるばるとまいったのでございます』と言った(2)ということでございます。また、晋の武帝の咸寧(カンネイ)元年(275)に、松滋(ショウジ:安徽省の地名)に白い雉が見えた(3)とのことでございます。まさしく休祥(ヨキサガ)でございますので、天下に罪をゆるすのがよろしゅうございます」と申し上げた。そこでその白い雉を庭園に放たせた。

「日本書紀」1983, 中央公論社 日本の名著1 井上光貞責任編集 p.365

 
原注
(1) 王者の徳が四方にあまねく···· この文は、『芸分類聚』祥瑞部、雉条によるもの。
(2) 周の成王のとき、越裳氏が来て···· この文は、『芸分類聚』水部、海水条によるもの。
(3) 晋の武帝の咸寧元年に、···· このことは『宋書』符瑞志に見える。


当時はもの知りの学者といえば、大陸から渡来した仏教僧だったので、法師に白い雉についてたずねている。
この節に登場する百済君(豊璋)は、実は天智天皇だったのではないかと私は考える。天智天皇は、実名ではなく中大兄皇子と呼ばれ、皇太子なのにスムーズに天皇に就任できず、実権を握るために旧来の勢力を強引に滅ぼし、近江遷都も含めて飛鳥人には不人気であった。日本の正当な大王家の世継ぎらしくない点が多い。
上の記事の後、660年に故国の百済が滅ぼされ、天智天皇は唐から日本を守るために664年北九州に水城を築き、667年に近江京へ遷都したのち、668年には高句麗が滅ぼされる。671年に病死とあるが、京都の山科で殺害された可能性もあるという(扶桑略記)。
日本の政治を掌握した朝鮮半島の王族が、中国人や日本原住民(多分まだ読み書きできない)に王権の正当性を主張するために、『日本書紀』を編纂する必要があった。大陸から帰化した貴族が日本で権力を持つと同時に仏教が導入され、前方後円墳の築造は行われなくなった。


白いカラスの出現によって、日本の歴史について考えさせられた。



6月16日に、山城国宇治郡山科郷(現在の京都市山科区)にある天智天皇陵をおとずれました(以下8月17日追記)。

イメージ 1


イメージ 3


イメージ 2


この陵が作られたあと、平城京や平安京が築かれ、藤原家が天皇を利用しながら、貴族による政治が400年くらい続きます。蘇我家(飛鳥の大王家)を滅ぼすのを手伝ったのが藤原鎌足、天皇家の正当性を中国に主張するために日本書紀を編纂したのは藤原不比等でした。

天智天皇が百済を守るために派兵したことから、蘇我氏以後の天皇家のルーツは百済の王族であった可能性が考えられます。
蘇我家全盛の飛鳥時代には、朝鮮半島ではなくて隋へ頻繁に使者が送られていました。それ前の300〜400年間は、文字を持たない前方後円墳と埴輪の時代が続いていました。

西暦540年頃の中国梁の時代の絵巻に、ペルシャ人・タジキスタン人と並んで、百済の国使と倭の国氏が、かなり異なる姿で描かれています(1)。
また天理の石上神社の伝わる七支刀は、西暦370年頃に東晋由来の刀が百済で作り直されて、倭国へ贈られたと考えられており(2)(3)、古墳時代の倭国と百済を含む朝鮮半島は、交渉はあったけれども別の国であったと考えられます。
1世紀に倭国から後漢へ朝貢があったとされており(4)、その後七支刀が下賜されるまでの時代(女王卑弥呼含む)には銅鏡が尊ばれていたことから、朝鮮半島よりも中国との関係が強かったようです。
奈良(韓国語でクニの意味)時代・平安時代の貴族が朝鮮半島の貴族の血を受けついでいたとしても、中国の文化の高さには一目おきながら、日本独自の平仮名文化や武家文化が育っていったのではないでしょうか。


(1) 井沢元彦「逆説の日本史」 2008 小学館, p.28-29
(2) Wikipedia
(3) 「原色日本の美術1 原始美術」 1970 小学館, p.152, 168
(4) 「高句麗壁画古墳報道写真展」 2012 共同通信社, p.80 年表

9月2日追記  羽が白いカラス

額田王は天智を愛した




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旻(みん)も正しくは日文のようですね。
あれほど権勢を誇った天智天皇も息子の代には近江朝が滅ぼされていまい悲しい最後です。兄弟の天武天皇と、なぜ戦争をしなければならなかったのか? 筑紫に築いた水城は何だったのか?

2018/12/17(月) 午後 11:19 hop*519


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