|
キリスト教では、復活祭の後7週間たった日を「五旬祭」(聖霊降臨祭)として祝われる。49日目を祝うという点では仏教と似ている。ただし復活祭の日を1日に数えると合わせて50日なので、「五旬祭」と呼ばれる。 この機会に「聖霊」とは何か、かさぶた流に考えてみます。 (前略) 神様は、人をエデンの園の番人にし、その管理を任せました。 ただし、一つだけきびしい注意がありました。「園の果物はどれでも食べてかまわない。だが『善悪を判断する力のつく木』の実だけは絶対にいけない。それを食べると、正しいこととまちがったこと、よいことと悪いことの区別について、自分勝手な判断を下すようになるからだ。そんなことになったら、必ず死ぬ。」 (中略) さて、神様が造ったものの中で、蛇が一番ずる賢い動物でした。蛇は女に、ことば巧みに話をもちかけました。「ほんとうにそのとおりなんですかねえ? いえね、ほかでもない、園の果物はどれも食べちゃいけないって話ですよ。なんでも神様は、これっぽっちも食べちゃいけないと言ったっていうじゃないかですか。」 「そんなことないわ。食べるのはちっともかまわないのよ。ただね、園の中央にある木の実だけは、食べちゃいけないの。そればかりか、さわってもおいけないんですって。さもないと、死んでしまうって、神様がおっしゃったわ。」 「ヘぇーっ、でも、そいつは嘘っぱちですぜ。死ぬだなんて、でたらめもいいところだ。神様も意地が悪いね。その実を食べたら、善と悪の見わけがつき、神様のようになっちまうもんだから、脅しをかけるなんてさ。」 言われてみれば、そう思えないこともありません。それに、その実はとてもきれいで、おいしそうなのです。「あれを食べたら、何でもよくわかるようになるんだわ。」そう思いながら見ていると、もう矢も盾もたまらなくなり、とうとう実をもいで、食べてしまいました。ちょうどそばにいたアダムにも分けてやり、いっしょに食べたのです。はっと気がついたら、二人とも裸ではありませんか。急に恥ずかしくてたまらなくなりました。何とかしなければなりません。間に合わせに、いちじくの葉をつなぎ合わせ、腰の周りをおおいました。 「リビングバイブル【旧新約】」新版 いのちのことば社,1978 「創世記」2章,3章より このことは、人間が言葉を話すようになると同時に「認識」や「概念」が育ち人間らしくなったということだろう。 このように人間が人間となって以来、心の中に善と悪、すなわち天使と悪魔を飼うようになった。と考えると誰の心の中にも天使は宿っている。従って私たちに宿っている「霊」のうちの「善」なる部分を「聖霊」と呼べはしないか。 だからこそ聖書で、「聖霊を悲しませてはいけない」「聖霊を侮辱してはいけない」と言われるのではないだろうか。 天を仰いで、羽根がついた人が舞い降りるのをいくら待っても、そんな人は降りてこない。聖霊はわたしたちの中に宿っていて、イエス様の指導によって発現するものでは。 人間は一人一人別の肉体を持って生きていて、そのそれぞれに霊が宿っているが、その霊は、神様の目から見れば、ひとつの物である。霊が元々ひとつのもので、たまたま「言葉」を知った人間の肉体に神様から分け与えられたと考えると、自分と他人の別は無くなる。そうすれば、他人のことも自分と同じように愛せるようになる。自分の肉体が滅びても、他の肉体が生きているのだから、「霊」は永遠に生き続けることができる。それが「永遠の命」ではないか。 仏教で四十九日後に成仏するというのは、四十九日後に元々宇宙に満ちている「霊」と一体化して、自他の別が無くなることによって浄化する、ということだろう。 このように、自他の別を無くすということが、キリスト教と仏教の共通した目的だ。従って、私財を所有してはならないし、自分のために貪ってはならない。 |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2008年05月18日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]



