赤坂天王山
奈良、桜井から伊勢への街道にそって山へ入って行ったところにある
赤坂天王山は、6世紀末の崇峻天皇稜との説がある。
6世紀中頃、欽明天皇の時代に仏教を受け入れて後は、前方後円墳は造られなくなる。
大陸から大勢の民が流入して明日香が賑やかになる頃
崇峻天皇は、蘇我馬子の企てにより東漢直の駒によって暗殺される。
暗殺された天皇を、そっと葬ったのがこの陵であると考えられている。
時代の変わり目の王陵で、方墳。
こちらに石室の写真があります。
(崇峻)五年の冬十月の癸酉の朔丙子に、山猪を献ること有り。
天皇、猪を指して詔して曰はく、
「何の時にか此の猪の頸を断るが如く、朕が嫌しとおもふ所の人を断らむ」
とのたまふ。多く兵仗を設くること、常よりも異なること有り。
壬午に、蘇我馬子宿禰、天皇の詔したまふ所を聞きて、己を嫌むらしきことを恐る。党者を招き聚めて、天皇を弑せまつらむと謀る。
是の月に大法興寺の仏堂と歩廊とを起つ。
十一月の癸卯の朔乙巳に、馬子宿禰、群臣を詐めて曰はく、
「今日、東国の調を進る」といふ。
乃ち東漢直 駒をして、天皇を弑せまつらしむ。
是の日に、天皇を倉梯岡陵に葬りまつる。
丁未に、駅使を筑紫将軍の所に遣して曰はく、
「内の乱に依りて、外の事を莫怠りそ」といふ。
是の月に、東漢直 駒、蘇我嬪 河上娘を偸隠みて妻とす。
(河上娘は、蘇我馬子宿禰の女なり)
馬子宿禰、忽 河上娘が、駒が為に偸まれしを知らずして、死去りけむと謂ふ。
駒、嬪を汙せる事顕れて、大臣の為に殺されぬ。
岩波文庫「日本書紀」(四)より
崇峻五年=西暦592年
癸酉 (ミズノトノ トリ=10日) 丙子 (ヒノエ ネ=13日) 壬午 (ミズノエ ウマ=19日)
献る (タテマツル) 断る (キル) 嫌し (ネタシ) 嫌む (ソネム) 仗 (ジョウ=つわもの) 聚めて (アツメテ)
癸卯 (ミズノト ウ=40日) 乙巳 (キノト ミ=42日)
詐めて (カスメテ) 調 (ミツキ) 進る (タテマツル) 東漢直 (ヤマトノ アヤノ アタヒ)
丁未 (ヒノトノ ヒツジ=44日) 乱 (ミダレ)
嬪 (ミメ) 娘 (イラツメ) 偸隠みて (ヌスミテ) 忽 (タマタマ)
(原補注)
倉梯岡陵: 延喜諸陵式に
「倉梯岡陵〈倉梯宮御宇崇峻天皇。在二大和国十市郡一。無二陵地幷陵戸一。〉」
とあり、陵墓要覧では所在地を、奈良県桜井市大字倉橋字金福寺跡(今、桜井市倉橋)とする。
崩日に葬ったこと、陵地・陵戸のないことは前後に例がないといわれる。
なお上記の赤坂天王山とは別に、倉梯岡稜は現存している。
上のような出来事を受け、壬申の乱を経て国が落ち着いた際に天武天皇は次のように述べている。
この月(天武六年六月)に、東漢直 (ヤマトノアヤノアタイ)らに詔して、
「おまえたちの族党は、いままでに七つの悪逆を犯している。小墾田(オハリダ)の御世(推古天皇の時代)から近江の朝(ミカド)(天智天皇の時代)にいたるまで、いつもおまえたちをあやつることによって陰謀が行われてきた。いま、自分の世となったにあたって、おまえたちの悪逆を責め、犯したことのままに罪に処そうと思う。しかし、漢直の氏を絶やしてしまいたくもないので、大恩をくだし、その罪を許すことにする。今後もし罪を犯すことがあれば、その者は赦にあっても罪を許されない者のなかに入れることとする」
と言われた。
「日本書記」中央公論社(1983), p.416
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